風紋 もくじ / この前 / この後
私が育ってきた環境においてのみ、そうだったのかもしれないけれど、人前で…例えば学校などで泣いてしまった時、大抵は、泣いてはいけませんとか泣きやみなさいと言われたものだった。直接言われなくても、暗にそうすることを求められているような気持ちを味わったものだった。それで私は、人前で(私が)泣くのは罪悪だと思うようになった。実際に泣いてしまった時は、とてもとても罪悪感を感じたものだった(今でもそうだ)。でも、冷静に考えてみると、泣いている人に泣くなというのは随分むちゃくちゃな話なのではないかしらと思う。 前の家があったところを見ることができる道を通って帰って来るのが習慣化してしまったというのは昨日書いた。そして、今はここはこういう風景の場所なのだ、何にもないのだと自分に言い聞かせるために、私はこの道を通って帰ってきているのかもしれないと思っていることも昨日書いた。でも、今日改めてこの道を通って帰ってきて、少し違うような気もした。 前の家は私が生まれてから昨年秋までずっと暮らしていたところだ。今はこの場所から離れていても、私はこの場所と結びついているということ、この場所が自分にとって大切な場所であることを確認したいのではないかなと思った。うまくは言えないけれど、自分の存在の根っこになっているというか…。 それと、懐かしさ…からかもしれない。以前当たり前のように毎朝毎夕見ていた家の回りの風景を確認したくて。それも自分の根っこを確認しに行っているようなもののような気もする。 こだわりすぎだとは思う。早く忘れた方がいいのにとも思う。早く今の家に慣れるべきであるとも。わかってはいるけれど、今の家の住所表記にまだ馴染めなくて、前の家の住所表記で届く郵便物があるととても嬉しかったりする(郵便屋さんごめんなさい)。 そのうちに…とは思います。 過ぎ去ったことに対して、“もし”ということはあまり考えたくないのだが。 昨年9月に私はこの日記をはじめた。が、もし日記を書いていなかったら、あの時に日記をはじめていなかったなら、今の私はどうなっていただろうか…ということを、今日の帰りの電車の中でふと考えた。 考えて、別にどうにもなっていなかっただろうよ、と苦笑した。もしあの時日記をはじめていなかったとしても、やっぱり私は今と同じ生活をしているだろうし、こうやって普通に電車にも乗っているだろうと。そういう意味では、日記をはじめたことで別に何が変わったわけでもない。ちなみに生活にめりはりがついたわけでもない。 意識しないところでは、何らか変わっているところもあるのかもしれない。が、意識していないだけにわからない。 もし日記を書いていなかったとしても、普通に私の生活は流れているだろうというのが最初に挙げた問いへの答えだ。だから、その意味では書いても書かなくてもいいものだろうとは思う。でも、私は書きたいから書いている。書くことで何かが変わるのを期待しているのかもしれない。それはわからない。でも期待がかなえられなくても書いているだろうなとは思う。 セ氏2度の凍った空気を突き破り優しく響くあなたの声 …字足らず? 勢いで掲示板(こちら)をつけてみました(どんな勢いだよ)。
昨日、あんな天気予報を聞いたけれど、私の居るところは青空が見えた。嬉しかった。けれど、青空の見えない日でもきっといいことはたくさんある、…と思いたい。
今日は随分寒かった。明日も引き続き随分寒いそうです。大丈夫ですか? 昔の人も…今から100年前、200年前、300年前…もっと昔に生きていた人も、悲しいと感じることはあったのだろうか。言葉にならないような切ない思いを抱くことはあったのだろうか。 多分あっただろうと思う。その思いを抱くきっかけは、現在とは違ったものであるとしても。 昔の人にも、悲しいと感じたり、切ない思いを抱くことがあったのだとしたら、そういう時、音楽を聴いて、心が慰められるようなことはあったのだろうか。あるいは、言葉にならず行き場を失った感情を、音楽を通しておもてに出すというようなことは、昔の人にもあったのだろうか。 …ということを、「テレプシコーレ」(Terpsichore)(Praetorius/Margolis)を合奏している時にずっと考えていた。楽団の練習で。 いや、この曲が作られた当時にこの曲を聴いた人は、この曲を聴いてどう感じたのかな、私が感じているのと似たような感じを抱いたのかな、ということが、ふと気になったので。 ちなみにこの曲、随分難しいと思う。しみじみとしたいい曲なのだけれど。個人的にも、指が回らないとか音が出ないとかいう箇所がたくさんあるし、全体で合わせるのも随分難しい。今の私にとっては、練習しようという動機づけが、思いっきり下がるきっかけになるか、思いっきり上がるきっかけになるか、どちらかになりそうな曲だ。できれば思いっきり上がるきっかけになってほしいのだけれど。 この家で迎える初めての冬だ。例年より寒く寂しく感じるのは、引っ越した時に暖房器具を替えたからに過ぎないのだと自分に言い聞かせる。 石油ストーブの匂いが好きだった。石油ストーブの上にやかんをのせてお湯を沸かしたり、するめを焼いたりするのが好きだった。ちなみに、石油ストーブで誤ってリカちゃん人形の髪を焼いてしまったこともあり、それはとてもとても悲しかった。 今日の日記は、地に足がついていない話題というか、地面から3cmほど浮いているような話題ばかりだなと自分で思った(「3cm」に明確な根拠は無い)。地に足のついた話も少しだけすると、今日は学会の申し込みを済ませた。明日は来年度の週に一度のお仕事先に書類を送る。その他。
今日は、とても寒かった。明日は、さらに寒くなるそうだ。雪が降るところもあるかもしれないという知らせを聞いた。空を見上げて、明日は晴れですか曇りですか?雪が降っているところはあるのですか?と問い掛けてみるものの、返事があるわけもなく。 「イパネマの娘」を聴いて、思わず力が抜けて笑顔になったという話は昨年9月22日の日記に書いたのだが、泣き出しそうな気分の時に聴くと、すごくほっとして力があまりにも抜けすぎて、嬉しいのか悲しいのか情けないのかよくわからなくなって、ますます泣き出しそうになるということが今日わかった。と言っても、それは決して否定的な意味を持つ涙ではなくて…でも肯定的な気分とも言えず。 最初の「ソ ミミーレソミ ミ ミレ」(実音で「G E E D G E E E D」)で始まるメロディーは明るく楽しげなのだけれど、その直後の「ファーーソファミファミレーミー」(半音が混じっているので偽りあり。実音で「F Ges F Es F Es Des Es」)のメロディーで、少し、影というか憂いが窺える(それは、「娘」の憂いなのか娘を見ている側の憂いなのかよくわからないが)のが、この曲のメロディーの魅力かなと思う。ほんの少しの影を見た故に心を虜にされたというか、どうしようもなく惹き付けられてしまったような。しかし、明るい部分と憂いの部分のどちらかに引き摺られることなく、両方が共存しているのが好き。 あまり原曲についての知識がないので、イメージだけで書いているのだけれど。 早めにアルバイトに行った方がいいのはわかっていたのに(そして実際行ってみると「もう少し早く来た方が良かった」という事態ではあったのに)、乗るつもりだった電車を1本遅らせて、ふらふらと歩き回っていると、以前にシャンパンの香りのする紅茶を買ったお店に行き着いた(昨年12月08日の日記)。シャンパンの香りのする紅茶が、1つだけ残っていた。あの後に数回飲んで、甘くて幸せな香りがするのが気に入っていたので、その最後の1つを買った。 紅茶を買った話を頻繁に書いているのに、飲んだ話があまり出てこないのは、感想をうまく記述できないという理由もあるけれど、最大の理由が「飲んでいない」からで、それは何となく勿体無いのと、まともなティーポットを持っていないのと、葉っぱからお茶を入れるゆとりが持てずにいる(そもそもあまり家に居ついていない)のが理由だと思う。ごめんなさい。 こうして毎日毎晩、他でもないこの場所に日記を書くのは、自分のことばかり書いているようで、しかし読んで下さっている方々を思い浮かべながら書いているので、何だか手紙を書いているようだと思う。もっとも、私は、昔に「あなたにこの前もらった手紙は何だか日記のようだった」と言われたことのある人間なので、もともと、日記のような手紙、手紙のような日記を書いてしまうのかもしれない。 こんにちは。 いかがお過ごしですか。 私は元気です。 ではまた明日。ごきげんよう。 あした天気になあれ。
何だか悩ましい週末だった。昨日はほとんど何もしていないのに何だかとても疲れてしまい、早めにベッドに入ったものの、いろいろと考えてしまってなかなか寝付けなかった。寝たり起きたりをどのくらい繰り返していただろう。しかし今日は早く起きなければならなかった(と言っても世間一般の基準に照らし合わせると全然早くないが…)ので、かなり無理やり起きた。1日中調子が悪くて、頭痛もするような気がしたので、今日は少し早めに帰った。 江國香織さんが、音楽について次のように書いてあるのを読んだ。 「音楽はある種のDRUGだと思う。神経をたかぶらせたり鎮めたりする。言葉では届かない場所に触られた気がし、心がかき乱される。 音楽を聴きたい、と欲することは、多かれ少なかれ、かき乱されたいと欲することだ。 なんのためにかといえば、おそらく、自分の振幅に耳を傾けるために。誰かに、あるいは何かに、かき乱してもらえない限り、どんな楽器も鳴ることはないのだ。 何かを表現しようとすることは、つまり自ら楽器になることだし、それが安物だろうと玩具だろうと、音が悪かろうと壊れていようと、楽器である以上音を出す以外にすることがない。」 (江國香織「音楽について」/「泣く大人」,世界文化社,2001年より(pp.31〜32)) 途中の部分だけの引用なのだけれど、このエッセイ全体を読んで、ああそうか、そうなんだなと思った。自分が言葉にできなかったことを言葉にしてくれたと思った。特に、「言葉では届かない場所に触られた気がし、心がかき乱される」という部分は、本当にそうだと思った。 だから私は、このごろ、音楽をとてもとても聴きたくて、反面、徹底的に音楽を避けていたのかもしれないと思った。何ものかに、かき乱されたい気持ちはある。とても。それは何かを表現したいという気持ちと同じものかもしれない。でも、一度かき乱されると、私はどうなってしまうかわからないという怖さにも似た気持ち。それが自分の心をかき乱してしまうと、もしかすると日常生活が営めなくなるのではないかというくらいになってしまうのではないかという感じ(←大袈裟か?)。 1週間ほど前に、CD屋さんの視聴コーナーで、中島みゆきさんの「地上の星」を聴いた。その時に、そういう感じ(「それが自分の心をかき乱してしまうと、もしかすると日常生活が営めなくなるのではないかというくらいになってしまうのではないかという感じ」)があった。私は今、この音楽を、頭ででも耳ででもなくて、みぞおちのあたりで聴いていると思った。みぞおちのあたりに意識が集中して、それ以外のところの力が抜けていくような気がし、そのうち足から力が抜けてがくっと座り込んでしまうんじゃないかと思った。 言葉にできないところを揺さぶられたと思った。これ以上この曲を聴くと、どんどん落ち着かない気分になるように思うのに、心はこの曲を求めていた。この曲について、それ以上の私の感想は、少なくとも今は書けないような気がする。もっともこうなったのは、その時の私の状態がかなり影響していたようにも思うけれど。その日その時に、その日その時の私が、この曲を聴いたから。 今日、この曲のCDを購入して聴いてみた。その日ほどの状態にはならなかったけれど、自分がとても強くなれるような気分と、自分がとても弱くなってしまうような気分の両方を感じて、落ち着かなくなった。なのに繰り返して聴いていた。 いろいろな意味で話題になった曲なので、人により、立場により、この曲への評価は違うと思うけれど、今、こういう私がこの曲を聴いた限りにおいての正直な気持ちが、これだ(あんまりきちんと書けていないけれど)。 かき乱されることを、今の私はとても望んでいて、反面とても恐れている。だから音楽も聴けたり聴けなかったりするし、日記も書けたり書けなかったりする。他の方の日記が読めたり読めなかったり…は、あまりないけれど。 私をかき乱してみてください…と、言いたいような、言いかけてやめたいような気持ち。 あんまりにも激しくかき乱されると、もしかすると何も書けないのではないかと思ったり、それを望んでいたり、望まなかったり。 …よくわからないな。
今から書くことは、あまり上手に書ける気がしない。でも思い切って。 あまりこの場所で嘘をついても仕方がないので正直に書くと、「こんな状態を調子の悪い状態だとは客観的には言ってはいけないと思うけれど、主観的には調子が悪いような気がする」という感じ。不適切な行動や発言が増えている。 本来しなければならないことや頑張らなければならないことに対して、どうしてもやる気が起きなかったり、本来は愛想よくにこにこと笑っていた方がいい場面で、どうしても笑えない時は、どうすればいいのでしょうと途方に暮れる。 いや、今日そういうことがあって、自己嫌悪にはまってしまったので。ほんと駄目だわ私、と思った。 前の家の屋根の色と同じ色の屋根の家を見た。色としてはそれほど突飛な色ではないものの、屋根の色としてはあまり見かけない色で、私も「あ、あの屋根は前の家の屋根と同じ色だ」と自覚したのは初めてだった(本当は他にもあるのに、私が見落としていただけかもしれないが)。前の家を思い出す手がかりになるものを見ると駄目だなーと思う。気持ちが、うわーっとなる。 毎日のように、前の家の跡地を通って帰ってきている。昨日、ふっと振り返ってそこを眺めて、“恨みなんて別にないよ”と一旦は思ったけれど、“恨みなんてない”と言っている時点で自分の中に恨みがある程度は存在する(もしくは存在したことがあった)って言ってるようなものじゃないかと、苦笑する。 いや、誰も何者も恨んでないし、仕方のなかったことではあるのだけれど。ほんとに。 やたらめったら言い訳が多い。ごめんなさい。ついでに今日の日記は下向きで(という自覚はある程度はあるので)ほんとうにごめんなさい。もう少ししっかりします。
帰宅したのは、「千と千尋の神隠し」が終わる30分ほど前の時間だった。家族がテレビの前に張り付いていた。最後のシーンを少し見ただけなのだけれど(ちなみに今までも一度も見たことはない)、前後のいきさつも全くわからないのに涙ぐんでしまったのは、どうなんだろうと自分でも思うけれど。 日記が書けない日が続いていた(続いている)。時間的には今週に入ってからのほうが余裕があるのだけれど、むしろ余裕ができてからの方が書けなくなった。 日記を書く作業というのが、1日の自分(むしろ「自分の1日」?どっちかな?)を振り返ることだとしたら、ここのところの私は、あんまり1日の自分(「自分の1日」?)を振り返りたくないのかもしれないと思う。それはそれでそういう時もあるのかもしれないと思う。 近況報告。 今週はずっと眠かった。中途半端な睡眠の取り方をするので、頭痛にもなるし。電車の中でも眠っていて、火曜日には頭を何かに引っ掛けて髪の毛がばらばらになるし、今日は寝違えて首が痛くなり改札まで首を回しながら歩いた。眠気をとばそうとしてインスタントコーヒーを飲み倒しているのがよくないようにも思う。 学会の年会費や大会関係費を払ったり、定期券を買ったりする必要があって、なんだか消費の多い週だった。そんな時に限って、お金を使いたいものやことが多い。ちなみに、今年度発表をした2つの学会で来年度も発表する予定です。とりあえず2つは。 あれ。もっとあったような気がするのにこれだけしかない。 この人が、もし、もしも、いなくなってしまったとしたら(と考えることすら怖いことで、あまり考えたくないことなのだけれど)、確かに身体的には私は死なないだろうけれど、でも、泣いて泣いて泣いて泣いてめちゃめちゃになって、精神的には私は死んでしまうだろう。 …という人が私にはたくさんいる。 いつもありがとう。 剣道か弓道をやってみたかった、と、脈絡もなく、そう思った。 1週間のおしまいは気が抜けるのか、金曜日の夜は妙な夢を見ることが多いような気がする(きっちり数えているわけではないので、「金曜日の夜は妙な夢を見ることが多い」という私の思い込みが誇張されているのかもしれないけれど)。せめて静かに眠れたらと思ってホットミルクを飲んでいるのだけれど、昼間にコーヒーを飲んでいるのと、もう既にこんな時間である段階で、焼け石に水という気がしないでもない。
本屋さんにふらっと立ち寄って、雑誌をぱらっとめくって、今週の(今月の、だったかも)占いのコーナーをちらっと読んでみると、私に当てはまるところに、「自分の中に閉じこもりがちになる時期なので、外と交流を持とう」という意味のことが書かれていた(正確にどのような言葉で書かれていたかは忘れてしまった)。あぁ今の自分にぴったりの指示だと思うと同時に、今日は日記を書くことができるかなと思った。 寒くて眠くてどうしようもない日だった。研究室でも暫くの間ガスストーブの前に張り付いていたのだけれど、それでも寒くて仕方がなかった。結局あまり何もしないまま学校を出てきてしまった。帰りの電車の中では例によって例のごとく眠ってしまい、しかも眠っている間に頭を何かに引っ掛けたようで、下車すると髪の毛がばさばさになっていた。アルバイト先で直した。 先週の後半くらいから、何を思ったか、毎日前の家のあったところを通るようにして帰っている。曲がり角を曲がると、この先にもしかしてまだ前の家があるのではないかと思うけれど、曲がりきったところにはやはり何もない。何考えてんだか、莫迦なんだから…と自分で自分を笑い飛ばす。 忘れ物はないかしらと確認することは、日常でよくあるけれど、その時には忘れているものは忘れたままであって、忘れていることそのものに気が付いていないことが多いような気がする(私に関しては)。そして、後になって、うわぁ、と叫んだり。 忘れ物を忘れていることを忘れていないかしらということが、私はいつも少しだけ心配で、でも本当に忘れてはいけないことさえ忘れなければ、大抵のことは何とかなるのかもしれないと思うこともある。
今日はこれだけは書き残しておきたいと思って。 気持ち、などというのは一瞬のもので、書いておかないとすぐ忘れてしまう(私は)。だから書いておかなきゃと思う。けれど、どうしても物理的・精神的に書けない時もある。だから、あの時何があって何をどう思ったか、書かなかったときは自分でも忘れてしまったりする。少し悔しく思うのだけれど、もしかすると、それは忘れた方がいい気持ちだったのかなと思ったりもする。 1月前半は、私はどうも無性に書きたい時期で、書ける時期だったようで、随分たくさん書いているけれど、さっき自分で読み直して無性に恥ずかしかった。 少しだけ日記らしいことも。 一昨日に自分自身の山を越え、昨日に後輩たちが大きな山を越えるのを手伝っていたりして、今は少し楽な気分でいる。これまでのことや、これからのことをゆっくり考えたいと思う。あと、論文…。
睡眠不足がたたっているのか、1日中、壊滅的な頭痛に耐えながら過ごしていた。電車の中でも眠りきれないような感じ。「まだ大丈夫だ」と、半分意地で思い続けている。睡眠不足だというのも、間際になってから一気に仕事を片付けようとするから結果的に睡眠不足なのであるのだから、自業自得であるのだけれど。反省。
成人式に行ってきた。私が新成人になったのではない。所属している楽団の一員として式典に出席して、曲を何曲か演奏してきたというだけの話。20歳でなくても成人式に出続けているのは妙な気分ではある。 私は、いつもいつも笑っていられるほど強くはなくて、時には落ち込んだり、怒ったり、泣いたりもするけれど(落ち込みすぎだという説もある)、嬉しい時や幸せな時、美しいものを見た時は素直に笑おう。 …と、何の脈絡もなく、そう思った。
…けほけほ。 まだ私は風邪だから無理してはいけないんだという勝手な言い訳をつけて(本当のところはそれほどひどくなかったので、単にゆっくりしたかっただけなのだけれど)、夕方までは、昨日と同じように眠ったり起きたりしていた。 いくつか夢を見た。1つは夏の夢で、もう1つは秋の夢で、他にもいくつかの種類の夢を見ていたような気がする。起きた時に、忘れていたことを思い出したような、やっぱり忘れたような、忘れたままでいたかったような、思い出してはいけなかったような、でもやっぱり思い出したかったような、反対に思い出したいことを忘れたような、懐かしいような、悲しいような、それらが全部混じった妙な気持ちになった。 1年に何度か、そういう感じの夢を見ることがある。夢を見て、そういう気持ちになることがある。そういう時は、たいてい、日常生活での緊張が少し緩んだ時…であるように思う。詳細に記録を取っているわけではないから、本当のところはよくわからないけれど(あぁ、単に眠りすぎという説もあるか…)。 そんなに緊張の多い日常を送っているという自覚もないし、日常でそんなに多くのことを我慢しているわけでもないのだけれど。 別にどんな夢を見たっていいじゃないの…と思ってはみるものの、無意識のうちに忘れようとしていたことをふっと思い出させるような夢を見た後は、少し心穏やかでなくなるような気もする。 風紋を見に行きたいと思う。こんなタイトルの日記を書き、こんなハンドルネームを名乗っているくせに、実際には風紋も浜梨も見たことがない。どこで見られるのかよく知らないのだけれど、見に行きたい、と思う。 しかし、初夏の頃に紫陽花を見に行きたいと言っていて挫折し、秋にはコスモスを見に行きたいと言っていて挫折した私なので、どうなることかわからない。でも行きたい。 明日は依頼演奏。そろそろ眠らないと、遅刻することはわかっているのだけれど、あんまり眠る気になれない。研究会で文献紹介の順番が当たっているのに、その準備が全然できていないので、実は少し気が重い(こんなことを思っては駄目だな…とは思うものの)。空き時間が少しあるので、その合間にでも読むか、と思っている。 2ヶ月ほど楽器をまともに触っていないので、きちんと演奏できるんだろうか、という懸念も多少ある。
げほごほごほ。 昨日の日付の日記に少しだけ書き足しをしました。気が向いたら読んで頂ければ幸いに思います。 ちなみにこうやって日記を書いていると、体調は限りなく普通の状態に戻ってきたような気がします。
山を1つ越えた(←比喩)。来週にもう1つ山。 今日は(も)いろいろなことがあって(いや、例によって例のごとく嘘かも。あんまりなかったかも)、いろいろなことを考えた(これは本当)だけれど、取り急ぎ今日は休む。 自分の中で、いろいろなことがぐるぐると回っていたり、ふわふわと漂っているような感じ。それらを、言葉にしておもてに出してやりたい気持ちがすごくある。この場で出せることは少ないかもしれないけれど。どこにどのように出すかは関係なく、とりあえずおもてに出してやりたい、と。 そうして、自分の中にあるものを1つずつ言葉にして、言葉にすることによって、確認して、安心したいのかもしれない。 ただ、曖昧なものに言葉を与えるのは、私にとっては、ある意味怖い作業ではある。なぜだかよくわからないのだけれど。言葉にすることでそれがはっきりした形で現れるのが怖いのかな。 いつも、その中間くらいのところで書いている気がする。 この感じを、あまりうまく言葉にすることができないのだけれど。 BaBeの「WAKE UP!」という曲を、不意に思い出して聴いてみる。かなり昔(1988年)の曲なのだけれど(御存知の方はいらっしゃるだろうか。BaBe自体が既に解散してしまっているようだし)。こういうノリの歌は好きだ。ちょっと元気が出る。 「涙を止められない黄昏が来ても 明日の僕に恋していたい」という歌詞が妙に印象に残る。 帰りに、前の家の跡地を通った。端の方の一部はもう舗装されていて、歩行者と自転車くらいは通れるようになっていた。私もそこを通った。妙な気分になった。ここ、多分かつては台所だったあたり。ごはんを食べたりごはんを作ったり、お茶を淹れたりしていたところ。そこを今はこうやって自転車で踏んでいる。 最終的には、この土地のほとんどは道路の一部になることになっている。私だけではなくて、私の知らない大勢の人が、此処を通ることになるのだろう。かつて私が日常を生きていた場所を、ごはんを食べたり歯を磨いたりピアノを弾いたり勉強をしたりしていた場所を、そうと知らずに通るのだろう。踏んでいくのだろう。私という人間がここで生活して、ここで育ったことを知らずに。そして私自身も、それを徐々に忘れていくのかもしれない。 引っ越したことや、前の家が解体になったことについては、今さらどうにもこうにもできることでもないし、そうなったことを受け容れていくしかないのだろうと思うし、そうしようと思う。ただ、此処を通る人のほとんどは、かつて此処が私の生きていた土地で、私にとってとてもとても大切な場所であったことを知らないのだなと思うと、寂しいような気がするのだった。知って欲しいとも思わないけれど…いや、ちょっと思っているかも、でもそれは無茶なことだとも思っていて…、でも大多数の人にとっては、此処は“ただの道路”なんだというのが、少し悔しい。 もっとも、それを言い出すと、この世の中に“ただの道路”“ただの土地”というのはないわけで、大多数の人にとっては何の変哲もない場所が、ある人にとってはとてもとても思い入れの詰まった大切な場所だというのはよくある話だと思う。で、「大多数の人」に対して、「ある人にとって此処はとても大切な場所なんだよ」と言うのも無茶といえば無茶な話なのだろうと思うし、大多数の人にとってはそれはどうでもいいことなのだろう。そう思うと、私自身が、ここが私の生活していた場所であることを忘れた方がいいんだろうと思ったりもする。それでも日記にこうやって書いてしまうのは、忘れたくないからで、それが間違っていると言われても、忘れられないからで。それでもいつか忘れるのかもしれないけれど。 ちょっとよくわからなくなってきたから、おしまい。
今、少し切羽詰まった状況なので簡単にしか書けないのだけれど(しかも変なことをわかりにくく書いてしまうかもしれないのだけれど)。作業が煮詰まってきたので気分転換。 ちょっと追記。 明日の準備は一応終わった。朝になって見てみたらミスだらけかも(というかもう朝かも)。 喉がやや痛いというか引っ掛かる感じがする。もしこれが風邪なら、心当りが全然無いのに風邪をひいてしまった。 風邪、ひかないようにお気をつけください。ひくと喉が痛いです。鼻が詰まると苦しいかもしれません。声が出しにくいのは不便です。何より、全身がだるいのはつらいです。この日記を読んでいらっしゃる方がつらいのは何だかちょっと私もつらいような気がします。既にひいてしまった方はこれ以上ひどくなりませんように。私も気をつけます。 …ビタミンCが効くのかな。そのへんのことはあまり詳しくないのですが。それより休養か。 (1月10日,4時30分)
朝から、何故か、誰のせいでもなく憂鬱な気分で、どうしようもなかった。「そよ風」(メモ程度のものを書くところ)で、随分たくさん愚痴めいたことも書いてしまった。今、読み返すと、かなり見苦しいなと思う。けれども、これも私の人生の中の1日であるので、敢えて消さずに置いておく。そして、自分の未熟さを露呈するようで恥ずかしいのだけれど、こういう私も私である。ごめんなさい。
いろいろなことがあって(いや、これは嘘かも。そんなにもいろいろなことはなかったかも)、いろいろなことを考えて、いろいろなことを書き残しておきたい気持ちでいる。しかし、明日は週に一度のお仕事の日なので、早く眠らないと起きられないなというのと、明日のお仕事、2週とんでしまったのだけれどきちんと喋ることができるかしらというのと、明日は諸々の事情でそれ以外の仕事ができそうにないのに、しなくてはいけないことが沢山あるというのとで、あまり書けそうにない気がする。いや、そんなに忙しくもないんだけれど。たぶん。単に私の処理能力が無いだけ。合間には「そよ風」を書いたりもしているし。切羽詰まっていなければならないのに、どこか何だかぼーっとしている。 「あけましておめでとう」というのは何故かしらと思った。 もし、新しい1年を無事に迎えられたことに対して「おめでとう」と言っているのならば、毎日、毎朝「おめでとう」と言ってもいいかもしれないと思った。新しい1日を無事に迎えられたことに対して。 今年はこんな風になればいいなと思うことは、また後ほど。 今、聴いている音楽 「歌劇“サムソンとデリラ”より“バッカナール”」(サン=サーンス作曲) (Bacchanale from "Samson & Delilah" / Charles Camille Saint-Saens) この曲の雰囲気がとても好き。中学生の時に何かの機会に聴いて、「ひと聴き惚れ」した。数年前に一度演奏する機会を持つことができて、すごく嬉しかったのを覚えている。全然関係ないはずなのに、なぜか、メロディーからは「吹雪の中を孤独にひたすらに走っている」というイメージを思い描いてしまう。 結局、この時間か…。
何だか、あまりにもよい気分の朝だったので、珍しい時間に更新。もう時間的には昼なのだが。 で、夜(深夜?)。 年末年始にぼけっとしすぎていたので、今になってから大変なことになっている。半分くらいはこうなるだろうなと予想はしていたものの。一人でパニックに陥っているならまだしも学部生まで巻き込んでいる。ごめんなさいほんと。結局星を見ながら帰って来た。地上の灯りが眩しくてなかなか星が綺麗に見えない。でも地上の灯りが眩しいくらいでないと夜道は危ないというジレンマ。 その(この↑)後にあったささやかな幸せ。 帰り道で猫に遭遇することができたこと。2匹で追いかけっこしていた。猫、割と好きなのだけれど、日常であまり見かける機会がないので。 もう1つは、ちょっとだけ内緒。 でも、こうして無事に1日を終えることができただけで、何より幸せなことなのかもしれないと思う。そして、今、「あなた」がこの日記を読んで下さっているとしたら、それも何より幸せなことなのかもしれないと。 良かった。 捨て身、という言葉が、帰る途中の電車の中でふっと頭に浮かぶ。 「捨て身」の意味は「(1)身を捨てるような気持ちで、全力を出して事にあたること。 「―の覚悟でぶつかる」 (2)身を捨てること。なげやり。やけっぱち。「―になる」」だということだった(インフォシークの国語辞典より)。 そっか、捨て身でいけば何も怖くないんだ、何も恐れる必要もないんだ、とは思った。 しかし、捨て身になるのも、私にとっては度胸が要ることだと思った。 “何を失っても私は後悔しないわ”と言えたら潔くてさぞかし恰好いいことだろうと思うけれど、そんな在り方に実はちょっとだけ憧れていたりもするのだけれど、現実には私にはそれなりに失いたくないものも絶対に守り通したいものもあるし、いつもいつも後悔ばっかり。で、絶叫したり逆上したり頭を抱えたり。それもそれでいいのかもしれないと、思ったり思わなかったり。 なんだかうまく書けた気がしないけれど、そんなようなことを考えているうちに電車の中で眠っていた。 今、聴いている音楽:バレエ音楽「三角帽子」(ファリャ作曲) (最初変換したら「参画防止」と出てきた) 追伸:ほんとに、ごめんなさいね。
明日から本格的に始動という方も多いのではないかと思います。私は、そうです。いきなり走り始めるのが不安だったので、今日ちょこちょこっと動いてきましたが。
昨日は、日記を書こうかなと思って一度日記エディタを開いたものの、何となく書けないような気がして書かなかった。言葉が出てこないような気がして。 所用で駅前に出る。帰り際に、「何か買い物ない?」と家に電話をかけると、食パンとお豆腐と蜜柑ということだった。しかしその後電器屋さんに寄っている間に電話の内容を忘れ、スーパーから「食パンとお豆腐と、他に何かまだあったっけ?」と電話しなおす。 雪が降っているところがあるそうだ。 雪、というと思い出す歌がある。「女声合唱とピアノのための“ファンタジア”」(木島始訳詩/木下牧子作曲)の1曲目の「雪ひらひら」という曲。 「溶けるまえに おいで,ごらん わたしを! きれいな 氷の このすかし細工を! 大きな 森から ひと晩で わたしは 白の 荒野を つくりだす 結晶した 天の 寒さのそば ほんとに そっと あなたの指に おかれ わたしは 動かない わたしの 美しさを 見てもらうため, 息をしてごらん わたしは 消える すぐさま。」 (ウォルター・デ・ラ・メア/木島始訳詩) 「雪が降っている」というニュースを聞くと、この曲の「結晶した 天の 寒さのそば」からのメロディが頭の中で流れ出すような気がする。この箇所で主旋律を歌っているのはメゾソプラノだけなので、アルトだった私はこの旋律を歌っていない(ハミングだった)にも関わらず、である。冷え切った空気が一番感じられる箇所だからかもしれない。 年末年始は、ほとんど家に居たということもあって、ここ数日は音楽をかなりたくさん聴いている。「以前よく聴いていたけれど最近はあまり聴いていなかった」という曲を聴いているばかりだけれど(だから「聴いたことのない曲に手をつける」ということをほとんどしていない。でも、新しい音楽を探そうという意欲が欠けているわけではないので、何か良い音楽があれば教えて下さい)。 「以前よく聴いていたけれど最近はあまり聴いていなかった」という曲を聴いていると、その曲をよく聴いていた時の思い出まで一緒に甦ってくるように思う。よく聴いていたという理由が、その曲を演奏する機会があったから少しでも慣れようと思って参考演奏を聴いていたという理由か、その曲が当時の自分にとって重要な意味を持っていたからという理由のどちらかであるから。特に、自分が演奏したことのある曲であると、練習していた時の風景も浮かんでくる。一緒に演奏していた人の表情とか、指揮者の指示や、練習していた時の気温とか、ステージ上の照明の具合とか、自分以外の演奏者の動きとか。あるいは、当時の自分の心理状態を思い出す。あの時は、自分はあんな感じで、ああいうことで悩んでいて、こういうことを考えていたんだな、とか。自分が実際に演奏したことのない曲を聴く時も、“その曲を好んで聴いていた頃の自分”を思い出すかな。 自分にとって音楽の意味の一つに、過去と今をつなぐものであるというか、過去を思い出す手がかりになってくれるということがあると思う。もちろん、「あなたにとって音楽とは?」と聞かれた場合、これが答えの全てではなくて、他にもいろいろ答えはあるけれど、これは答えの1つではあると思う。 そうやって思い出された過去は、懐かしくて、甘くて、切なくて、でもきらきら輝いていて、愛しい。思い出したくない過去が甦ってきた時は確かにつらいけれど。それも含めて、これが私の人生だ、と思う。私が生きてきた道だ、と。そう思うことは、今の私をほんの少しだけ強くしてくれるように思う。あの日の私が居たから、今の私も居るのだと。 この年末年始、思いっきり音楽を聴いて、涙ぐんだり笑ったりして、過去への旅をしていたように思う。それは、これからの私の人生を生きるためでもあったと思う。 というわけで、明日あたりからそろそろ動きます。
今夜も眠れないのかな。その分は翌日の午前中に寝ているから大して困ってはいないのだけれど(不眠症ではなくて単にリズムがずれているだけだろう)。 そういうわけで、今日は、呆れるほど音楽を聴きながら、部屋の窓から青空をぼーっと見つめていたらいつの間にか暗くなってきた…という感じ。 昨年は1月3日から大学に行っていた(昨年は…そうせざるを得なかったのだけれど)。今年は6日から動くつもりであったのだけれど、土曜日曜からもう大学に行ってしまおうかなと思ったりもする。でも予定は未定。 ピーター・パークス(Peter Parkes)指揮のグライムソープ・コリアリー・バンド(Grimethorpe Colliery Band)の演奏を聴いている。以前にラジオ番組か何かから録音したもの。「リバーダンス」(Riverdance/Bill Whelan作曲,Ray Farr編曲)がすごく好き。体中の血が躍るようで。あと、「死か栄光か」(Death or Glory/R.B.Hall作曲)ってこの曲だったのか、と思う。今まで曲名を知らずに聴いていた。映画「ブラス」のオープニング曲だったと思う。…映画も見たのだけれど。 というわけで夜通しちょこちょこと作業して、首をひねったり頭を抱えたりしているのだけれど、お腹が減ってきた。しかし今何かを食べるわけにはいかないだろう。 明日の朝食はお善哉。 地域の風習なのか我が家だけの風習なのか、よくわからないのだけれど、私の家では、お正月の3が日の朝食は、白味噌仕立てのお雑煮、すまし雑煮、お善哉を1日ずつ、ということになっている。もしかすると順番も決まっているのかもしれない。大抵は元日が白味噌。すまし雑煮とお善哉の順番は…忘れた。ただし、家族の中に白味噌のお雑煮をとてもとても好きな者がいるので、今年は1日が白味噌、2日も白味噌、3日がお善哉、ということになっている。で、明日の朝はお善哉。 お雑煮もお善哉も好きなのでとても嬉しいのだけれど、難点は年末に買った食パンがいつまで経ってもなくならないこと。
なんだかんだとありながらも、こうして過ぎ行く年を静かに振り返り、新しい年を迎えることができることを、とても幸せなことだと思う。少しの期待と、少しの不安をもって新しい年を迎える。どんな1年になるかわからないけれど、先ずは1日1日を精一杯生きていきたいと思う。 1日自宅でのんびりしていた。掃除などしてみる。今さら?という感じではあるが。積み上がった論文をやっと整理する。読もう読もうと思って読んでいない論文の多いこと。あと、机の抽斗の中から思いがけず5000円札が出てきて小躍りしたり、同じく抽斗の中からカッターナイフが3本も出てきて首をひねったりしていた。 来年度の学会の日程のチェックをして手帳に書き込む。来年度は近くで開催される学会が多そうだ。が、秋に1週間ほど遠出をする羽目になるかもしれない。遠出と言っても、私にしてみれば学割を取るような距離は悉く「遠出」になってしまうのだけれど。でも遠出は大好き。 あとは分析など。というか、曜日感覚をきちんと持っておかないと来週からきっとばたばたする…。 …全然1月1日の日記らしくないな…。白味噌のお雑煮を食べたり、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを少しだけ見たりはしたけれど。
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