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■ 未知との遭遇
午後、にわかに帰省の人と会い、実家で来週着る着物と帯の組み合わせについて母と楽しく悩み(着物は決めたが帯はいまだ迷い中。あとは着付のHさん次第か)、友達と映画を観に行く。 映画は「フリーダ」。フリーダ・カーロの生涯を描いたもの。なかなか面白かった。
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土曜日、実家に行った。義妹と甥も来ていた。 りー氏はのいに会いたくて行ったのだけれど、のいは甥が得意でないから隠れまくっていた。甥っ子は甥っ子で、のいもりー氏も気になるから大はしゃぎだったのだけれど。
甥は、今まで親子だけの生活だったのが、富山に帰ってからはぐんと賑やかになって、そのせいか本当によくしゃべるようになった。父は「富山に帰ってきていちばん嬉しいのはH(甥の名)だな」と言う。弟も義妹も甥に負けないくらい喜ばしく思っていると思うが(彼らの性格から推察して)、少なくとも、そのことを日常的にもっともわかりやすく表現しているのが甥であることは間違いない。子供は環境でここまで変わるのかと実感させられる。 私は母ではない伯母であるし、どこか甥を客観的に見ているところがある。彼は彼で大人を巻き込んでたくさんやりたいことがある。嬉しさを満開にさせる様子を見て、もう、あんなに疑いなく自分が世界の中心であるとは思えないよなあ、と思うのだ。そんなのは弟が生まれた時から知っていたような気もするけれど(そういう意味で私は、ひとりっ子である人に共通していると思える、基本的に比較するという発想がないという資質が羨ましく、好きだ)。 そのくせ妙にすとんと聞き分けがよいところがあって心配でもあるものの。
ところで甥はりー氏のことをとっさに「M(私の名)のおとうさん」と称していた。一応、りー氏と私がひと組であることは理解しているようだ。彼にとって家族というのは子(自分に相当するような存在)を中心として認識されるものであるらしい。 それからもうひとつ気になった言葉がある。隠れようとするのいと、甥が(実は自分も腰が引け気味ながらも)なんとかして遊ぼうとしていた。のいのおびえっぷりと言ったら露骨だったので、のいは今遊びたくないみたいよ、と言った。すると甥は「のいとタタカイたい」と答えたのである。 戦う? 聞いてちょっとギョッとしてしまったのだけれど、これは戦闘そのものを意味しないのかも知れない。テレビや何かで聞いたことのある大人っぽいイメージの言葉を使ってみた、とそういう感じなのではなかろうか。「すごく活動的に遊ぶ」くらいの意味なのかも知れない。 でも「タタカイ」のイメージは訂正したいと思ったので、(一瞬絶句の後)「えーっ、戦うのはいやだなあ、私はHも好きだけどのいも好きだからけんかしてほしくないなあ。それよりさあ……(と別のことに気をそらす)」
別にのいが子供嫌いなわけではなくて、甥がのいにちょっと腰がひけているから(そのくせちょっかいをかけようとするから)のいも警戒する、という次第。
子供が成長する中でいろいろな大人と接することが大切、とは言いそうなことだけれど、大人だって同じで、いろいろな大人や子供や動物の存在が大事なんだと改めて思う。というか、いろいろいると面白い、私が。
2004年04月04日(日)
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