池ポエム
ハンス



 スピークイージー

 師匠も走る今年最後の月、12月。
 師匠でもないのに、その人は走っていた。なぜか12月に行われる学園祭と年の瀬が重なって、ただでさえこの学園の中枢は忙しい。学園の核の右腕であり、支え台であり、ツッコミ役であり、天然製造マシーンである彼女は……文字通り走っていた。

 今なら、あそこに行けば会えるはず。
 声をかけようにも、「ちょっと話が……」なら「ち」で、「おい待て」なら「お」。最初の一文字までしか言えてない。さっきも、「み」と言ったところで突風が玲の側を駆け抜けた。
 「あのバカ……」
 学園一高いところへと続く階段を、がしがし踏みしめる。出向いてやるのが悔しいし、あの場所へ行くといやでもその刃友のことを思い出すから。噴火しそうな心を押さえつけて、制服の胸元がくしゃくしゃになる。紗枝に見つかったら、またシワにして、と怒られるに違いない。
 今日は、星奪り以外で鐘に用がある、一年でも珍しい日。
 遥か高見から見下ろす学園の全景を前に、いつもと変わらぬ素振り。その景色を、必ず見せると誓った。たどり着くと決意した。奪い取って。全てを、今持つ者である貴方から、奪って。
 バケツ片手に、彼女は呑気に鼻歌。フンフンフーンと、軽快で、少し地声より高めの声。年の瀬だというのに、なんとも浮かれている。最近毎日忙しく過ごしているのに、疲れは微塵も感じられない。
 「ま、元々あいつは体力バカだしな」
 鐘の反対側の影でこそっとつぶやいたら、途端に歌が止まった。
 シーン。学園一高いところに、微妙な沈黙が下りる。しばらくして、カンカン、と控えめなノックが。金属だから、甲高い音。普段、拳で学園全体に轟く音を叩き出す人とは思えないほど、申し訳なさそうに。玲は黙って、同じようにノックを返す。
 こんなぎこちないコミュニケーションに、学園の象徴たる鐘を使っていていいんだろうか。いい加減、じれったいので顔を出してみた。大きな鐘を挟んで反対側に、玲とまったく同じような角度で顔を出している静久が。
 「よお」
 「み、神門さん!?いつからいたんですか」
 赤い顔で睨む静久の視線を避けて、頭を引っ込める。鼻歌絶好調のところからすでにいました、なんて言ったらタコみたいに赤くなって、逃げられかねないから。引っ込んでしまった玲を追いかけて静久が鐘の向こうから出てきたところを。
 「捕まえた」
 師走の君を、腕に感じる。真冬の風が二人を吹きつけた。
 「……離してください」
 逆回りから素早く回り込んで、捕まえた静久は大人しくなった。鼻歌を聴かれた恥ずかしさが徐々に鎮静化して、落ち着きを取り戻したようだ。静久は口で言うほど抵抗しない。このまま背負い投げされても文句は言えないのに、玲の腕を掴んで俯いている。
 「寒っ」
 こんな高い、壁のないところに立っていたらいくら若い静久でも風邪をひく。
 「コートぐらい着てこいよ」
 玲の背をヒヤリとする風が撫でる。静久より長身なのが、初めて役に立ったかもしれない。どうせ盾にはなれないのなら、こんなささいなことでも構わない。
 (つってもな、盾の盾ってなんなんだか)
 「この寒い中、ごくろうなこった」
 静久の手には雑巾が握られている。
 「一年間、お世話になったこの鐘にも感謝しなければ」
 生真面目に、はっきりと言い切る。
 学園の鐘の労をねぎらって、年の終わりには必ず鐘の守り人自らの手で清掃を行う。毎年そう。昨年までは、遠くから見ていた。風に吹かれ、一人高いところで、誰も寄せ付けず。丁寧に鐘を磨く彼女を見ていた。今年は、近づきたくなった。
 誰も貴方の側へ行かないのなら、それが禁忌のように感じられて。
 「なら、あたしも感謝しないとな」
 「そうですよ!」
 静久の声が弾んだ。この鐘を大事に思ってくれる賛同者が現れて、喜んでいるのだろう。玲は内心、苦笑した。腕に力を込める。今、後ろから抱きしめているこの自分が誰だか、わかっているだろうに。
 「神門さん、来年こそは会長のことは敬称をつけてお呼びしてくださいね」
 嬉しいついでに、無謀な要求をする。冷たすぎる風は皮膚を傷つける。真っ直ぐ過ぎる心と同様に。
 耳元に唇を寄せた。
 「あたしは紅愛と違って、お前らを否定はしねーよ」
 「神門、さん?」
 天地の意志、希望。戦いを見守る鐘は、目の前で起きている珍事に何を思うのか。
 「けど……ひつぎを肯定するわけにはいかない」
 寄り添っていたのが嘘のように、厳しく両腕が突き出される。いとも簡単に向きを変えて、玲は押されて一、二歩下がる。真剣な眼差し。静久が突き出した腕の分だけ、二人の間に距離ができた。この距離は埋まるはずがない。
 これ以上、近づいたら。お互いを守るためにきっと自分たちは傷つけあう。
 「掃除の邪魔して悪かったな」
 今年も最後まで、腕を下ろしてはくれなかった。予想はしていたけど、軽いとは言いがたい落胆が両肩を襲う。
 階段を半分ほど下りたところで、足音がした。
 最上段に静久が立っている。白い息が流れる。怒りではない、悲しいのでも嬉しいのでもない。眉をしかめて、頬を上気させて、彼女は叫んだ。
 「私を肯定してください!会長も含めて、私の全てを!!」
 開いた口が塞がらない。口の中が冷えていく。見透かしているのか、天然なのか。真正直はどんな策をも越える。
 今年最後の大暴投を受け損なって、玲は年末年始を抜け殻として過ごすはめになった。

2006年12月01日(金)
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