池ポエム
ハンス



 歯は長〜いお友達

 全体的に薄ピンク色っぽい色調の待合室で、順は膝に手を当てて待ち構えている。
 いつ呼ばれるのか、時折受付に姿を見せる白衣の女性。看護系もいいよね、などと人に聞かれたら問題のある感想を一人で思い浮かべながら、しかしゆっくりと浸ってもいられない。彼女が現れるということは、患者を呼ぶということ。
 治療室のドアが開いて、じーっと涙を湛えた様子の子供が出てきた。大声で泣き出さない辺り、辛抱強い子だ。エライなぁ、と見事治療に耐えた小さな勇者の背中を見送る。自分もアレくらいの時、虫歯になったことがあった。生まれて始めて歯医者に行った、イコール生まれて始めて虫歯ができた。泣いたかどうかは覚えてないけど、とにかくあの時は……逃げた。全力で。

 子供の全力とはいえ、相手は久我の忍術の基礎を徹底的に叩き込んだ愛娘。久我の当主は、二度目のトラップを振り払いながら、少し余計なことまで教え過ぎたか、と己の教育方針を後悔していた。
 この廊下を通るのも三回目。広いといっても、個人の家。それなのに、これだけ長時間逃げ回れるのは忍者としてすでに一人前以上なのかもしれない。親の贔屓目を差し引いても見所があると思っていたが、今回のことがきっかけに確信に変わった。
 予想外に確信が持てたことはさておき、今は娘を捕獲しなくては。
 庭を臨む縁側には、さっきから夕歩がじっと座っている。隣家の親子のドタバタを、まるで動じることなく眺めている。この子もまた、大物だと思う。
 「どうしたの、順」
 目の前を何度も何度も通る親子に飽きてきたのか、夕歩は足をぶらぶらさせた。
 「夕歩、順はここを通ったか」
 夕歩は小さく頷いて、指を三本立てた。三回目。いつもなら夕歩が遊びに来れば、何かしていても放ってすぐに飛んでくるのに、今日はそういうわけにもいかないらしい。アレがあると、遊びには差し障る。そんなに痛くなるまで黙っている方が悪い。よくしゃべる子だが、意外に一人で抱えて隠していることがある。そんな気がした。
 親だからといって子の全てを知ることはできない。
 (だからって、虫歯は別だろう)
 イヤな予感がして、頭を右に傾ける。カカカカッと壁に木のくないが四本当たって床に落ちた。
 「どこだっ」
 飛んできた方向は行き止まり。見回しても誰もいない。仕掛けくないまで仕込むとは。もうこれは子供の逃走ではなくなってきた。

 父親の足音が徐々に遠ざかっていく。辺りをつけて探しているのに、決定的なところで順のいる方向とは逆を選んでいく辺り、勘はあまりよくないらしい。父に本気で探されたらひとたまりもない。まだいくらか手加減しているのか、朝だから鈍いのか。どちらにしても順には幸いだった。
 壁が一枚パラリとめくれて、下から順が姿を現す。壁と同じ色の布を使って隠れる、基本技だ。さっきは少し端がめくれたまま隠れてしまい、父が前を通った時には本気でドキドキした。いつもならもっとうまくやれるのに、右の奥歯が痛くて集中できない。虫歯は痛い痛いと人から聞いていたけど、これほどだとは思わなかった。生まれて初めての虫歯は、どんな稽古のケガより痛く思えた。
 しかも治すには大変な目に遭うらしい。テレビや友達からの情報では、恐ろしい音を立てた機械を口の中に当てて歯を削る。考えただけでも怖い。他に特に怖いもののない順も、さすがにこれは肝が潰れた。
 表に回って、庭に出る。このまま近所の公園にでも逃げてようか。それとも、夕歩のとこに匿ってもらおうか。と、思ったらその夕歩本人は順の家の縁側にゆっくりと腰掛けている。
 「なにしてるの」
 順より少し小さい、同い年の従姉妹。落ち着きがない、とよく大人に叱られる順とは違って、何があっても全然慌てることのない落ち着いた性格。夕歩が顔色を変えることといったら、一つしかない。
 そういえば夕歩は歯医者は平気なんだろうか。
 父がいないか慎重に気配を探りながら、庭を横断して夕歩の隣まで来た。
 「夕歩」
 「うん」
 まだ何も言っていないのに、夕歩は黙って口を指さした。並んで座る順に、口を開けろと言っているようだ。よく見たら虫歯じゃなかったというオチを期待して、順は大人しく口を開けた。
 「ふぉほー?」
 「う〜ん」
 一番奥の歯だから、覗き込んでもよく見えない。やがて中を見るのを諦めて、順の頬を指で突いた。中がダメなら外から。
 「いたっ!」
 外からの攻撃は予想以上に効いた。
 「あ、虫歯だ」
 診断結果、虫歯。夕歩は涙目の順を見て、そっと頭を撫ぜた。歯が痛いのは変わらない。けれど、触れられると不思議と心が落ち着いてきた。
 「歯医者行きなよ、順」
 「夕歩は行ったことあるの?」
 夕歩は小さい頃から、病院にはよく行っている。けれど、歯医者はないと言う。
 「だいじょうぶ」
 順の手を握って、一緒に行こうと言ってくれた。

 (結局父さんに捕まって、家中に仕掛けた罠を片付けさせられたんだっけ)
 天井から網が降ってくる仕掛けは、撤去する時本当に大変だった。紐やら何やら張って、複雑になった屋根裏を見た時は本気で父が頭を抱えたっけ。
 歯医者以前にその片付けだけの思い出が心に残る。
 可愛い受付女性が久我さーんと呼んだ。
 バレンタインに調子に乗って食べ過ぎたツケは、十数年ぶりの虫歯で払うことになった。

2006年02月07日(火)
初日 最新 目次 MAIL HOME