風紋

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2004年09月06日(月) 小旅行へ行ってきた / メモ(「悲劇の主人公」でないけれど、悲しいのも本当)

この土曜日と日曜日を使って、1泊2日の「小旅行」に出かけてきた。

1人で行ったのではない。複数人で行った。さらに具体的に書くと、人数は一番多かった時で14名(途中で帰られたり途中から参加した人もいる)、参加者は下は小学生から上は50歳代の方まで、職業も属性も多種多様、「小旅行」に参加した理由も恐らく十人十色ならぬ14人14色、何を得ようとして何を求めて「小旅行」に参加しようとしたのかも恐らく十人十色ならぬ14人14色、「小旅行」から何を得て何を感じて戻ったかも恐らく十人十色ならぬ14人14色であった。そして、私と他の13名との関係も、13人13色という感じで、「気心知れた」という感じで接することのできる人もいれば、まだ話をするのにも緊張してしまう人もいて、緊張しすぎてしどろもどろになってしまった人もいた。13名とも私にとってとても大切で大好きな人で、しかし「大切」「大好き」の意味するところは13名それぞれで違うのだった。私にとっては、総じて「まずまず気心の知れた大好きな人々との小旅行」だったと言える。参加者のひとりが言った「このグループは今日出来て明日解散するグループなのです」というのが一番正しいと思う。

「山奥」と呼ばれても不思議ではないところにある、とある町と村に行ってきた。

主に五感・五官を中心に私の身体の全部をありったけ使って、いろいろなものに触れた。見る、聴く、嗅ぐ、味わう、触れる。時々、参加者の方々ともお話をしながら。時々、メンバー全員で、あるいは一部のメンバーで寄り道をしながら。車と、歩くのと、両方を使って。

それは、場合によっては「あぁ、綺麗だったなぁ」「あぁ、よい場所だったなぁ」という感想を述べるにとどまる小旅行であったかもしれない。ただ、私は私なりに、小旅行に参加した理由、つまり何を得ようとして何を求めて小旅行に参加したのかという想い、を持っていた。私のそれは「理由はわからない。何を得ようとして何を求めて小旅行に参加しようとしているのかよくわからない。ただ、今回は何が何でも参加したい。参加せねばいけないような気さえする。とにかく参加する。だから行く」というものであったのだけれど…。

小旅行を終えた今の私は、「あまりにも多くのものに触れたような気がする…」という言葉しか出ない。触れたもの、訪れた場所の中には、一見何ということもない、特筆することもないものも含まれているのだろうとは思う。しかし、ひとつひとつのものに接する中で、「なぜこれ(この場所)はここにあるのか」「なぜ私は今これ(この場所)と対峙しているのか。これとまったく同じようには二度と対峙することはできないのに、私とこれ(この場所)とはこのような出会い方をしたのだ。そのことから私は何を感じ、何をしていこうか」「この先、私はどうなって、これ(この場所)はどうなっていくのだろうか」などということをぼんやりと考えていると、あまりにも多くの刺激が一気に私の中に押し寄せてきて、旅行中からやや混乱した想いを抱え、その状態は現在も継続中…という感じだ。

「それ」が何なのか的確に言葉では表せないが「『それ』に出会いたい」と私が心から思って小旅行に参加したので、「出会わなければ良かったのに」というような後悔はしていないし、むしろ一言で表すならば「良い小旅行だった」と胸を張って言う。ちなみにお土産なども普通に買った(むしろ買い過ぎた。レジで私の豪快な買い物っぷりに私自身血の気が引いた。時間がなかったとは言え、お財布と相談しながら買おうよ私…と思った。でもどれもいいお土産で、むしろ買い足りなかったものもあり、想いは複雑だ)。

あまりにも多くのものに出逢った。

しかし、私と、ひとつひとつのもの、あるいは場所、人とは、このような出会い方をしたのだ。そのことから私は何を感じ、何を考えるか、そこから、何をしていこうか…。

参加者が14名という団体行動であったことについても、書いておかなければならない。私の見たい場所を見たいように見たいペースでという感じではなかった…というより、今回は私ひとりでは土地勘がない・事前の情報もない状態で何もできなかったので、皆と一緒に、時には誰かと話をしながら、時には黙り込んで、時には私だけが黙って他の人どうしが話すのを聴いて、時には山道で取り残されそうになってちょっと走って、という感じであった(それはメンバー各人も同じで、「どうしてもこの角度で見たい」とひとり走っていく人もいたりした)。折に触れ、何かについて、それぞれの人がそれぞれに知っていることを話すのを私は聴いていた。

私が考えすぎなのかもしれない。感じすぎなのかもしれない。感じないようにするために「何も見るまい」とわざと意識していたところもあるかもしれない。しかし、私が小旅行に行ってたくさんのものと出会い、それは他の誰でもない私が出会ったものである。ここから私は、何を、どうしよう。

いろいろな問題がある。個人的な問題から社会的な問題まで。「大きな」問題から「小さな」問題まで(「問題」という語について「大きい小さい」と形容するのは、重要性に優劣をつけているようで私に抵抗があるので、かぎかっこをつける)。短期的な問題から長期的な問題まで。…分類のしかたは様々あるのだろうけれど。様々な問題を抱えながらも、今、私が、そして他の13人のメンバーが、この場所のこれが、このように存在しているというのは本当のこと。今後それらの問題がどうなっていくのか、私にはわからない(たぶん他の誰にもわからない)。しかし、「今」という時がまぎれもなく在るのは本当のことで、小さいことでも私は私なりに何かをできないだろうか、と思って…。

言葉にならないことがたくさんあるので、続きはまた別の形で書くことになると思います。良い小旅行でした。今回行って良かったなぁ…と心から思いました。

今回、思うところがあって、写真は敢えて撮って来なかったのだが(カメラも持っていかなかった)、旅先で出逢った花がある。ゲンノショウコという花。小さくてピンク色の可愛い花であった。が、これでなかなかやり手で(?)、お腹をこわした時に効くらしい。今、Webをあちこち見ていたら「ゲンノショウコ」という名は「現の証拠」つまり「効き目がすぐに現れる」ということに由来するらしい。


話は変わって、思いつくままにメモ。

私は悲劇の主人公ではない。ただ、私の遭遇した「そのこと」によって、とてもとても悲しい思いをしたことは本当のことだ。「悲しかったし、今も悲しいんだよ」と大声で言いたい思いを持っている。でも「悲しい」だけではない。現にこうして普通にけろっと生きているし。時々(というか頻繁に)おっちょこちょいなこともする。「トリビアの泉」で大爆笑したりもする。でも、「そのこと」については悲しかったし、「悲しい」という内容は異なってきたとしても、今も言葉にできないほどの想いを抱いている。

私の遭遇した「そのこと」を「悲劇」「不幸」「かわいそうなこと」ととらえる人も世の中にはいるかもしれない。でも私は悲劇の主人公ではない。でも悲しい思いを抱えているのは事実。

…ひとくくりにされたくないだけなのか??…


楮のように生きたい。できれば、そこに山椒のように一味ピリッとしたものを加えて生きることができれば、もっと嬉しい。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)