風紋

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2004年09月01日(水) 9月1日という日は / なぜか「さっちゃん」

やや疲れているので短めに、ということにする(後で付け加えるかもしれない)。

今日、9月1日は防災の日である。防災意識を高め、自然災害への備えを確認する日である(と思う)。各地で防災訓練なども行われたという。

しかし、そもそもなぜ「防災の日」なのかと考えた時に、1923年のこの日…9月1日に、関東大震災が起こった日なのだということを忘れてはならないと思う。

関東大震災について、私は直接は経験していない。知識としても「悲惨な災害をもたらした」ということは知ってはいるものの、どのように悲惨であったのか、その奥にある問題点まで深く考えることのできるだけの知識を、未熟な私はまだ持ち合わせていない(いずれ、少しずつ知って、考えていきたいと思う)。

「関東大震災が起こった日」というのが「防災」という観点にだけ集約されて欲しくはないと思うのだ。

防災訓練は確かに大切だと思う。いざという時に困らないよう「防災セット」を完備しておくことも確かに大切だと思う。

しかし、それだけで良いのか。

関東大震災という災害から、人間が考えていくことは、本当に「防災」という一言に集約していいのだろうかという疑問が残る。

それでは、どういう方向に広げていけるのか?と問われると、私自身もまだここに書ける形にはまとまっていないのだけれど、「防災」「危機管理」だけに集約してしまってはならないと思う。

当時の写真や記述資料なども残っている。あまり詳しくない私がこのようなことを述べられる立場にはないのかもしれないけれど、写真や資料に直面して思うことや感じることも、大事にしたいと思うのだ。たとえそれが「防災」という言葉になるものでなくても。

私自身の考えはあまりまとめられないのだけれど、この記事のこの言葉から考えさせられたことは大きかった。

「地震はもう絶対に起きてほしくない。でも、またどこかで起きたら、今度は何とかして助けてあげたい。その方法をみんなで考える」
「防災世界会議に向け、中学生らネット会議」(神戸新聞、9月1日、こちら…これも「防災」という言葉を使ってはいるものの、「防災」に広がりをもたせているように思う)

あまりうまくまとめられないけれど、防災の日は単に防災の日なのではなくて、関東大震災が発生した日なのだということも覚えておかなければならない…ということは、強く思う。


ここ数日、どうも体調がすぐれない。季節の変わり目だからか。だるさとふらつきがすさまじい。動けずに寝たままで仕事もさっぱりはかどらない…とか。焦燥感、寂寥感、孤独感…あ、ものすごく正直に書いてしまった。正直に書いて良かったのかなという迷いを抱えながら書いている。

せめて私が私を労わってやろうと、ぼーっと心を落ち着かせようとしていると、なぜか頭の中で「さっちゃん」の唄が回る。

♪さっちゃんはね さちこっていうんだ ほんとはね〜

なぜ「さっちゃん」…(注:私の本名は、どうひねりだしても「さっちゃん」という愛称は出てこない名前です。「さちこ」でもないし)。

季節の変わり目、皆様お体ご自愛下さい。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)