風紋

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2004年07月24日(土) 何の料理でしょう? / 残ったもの・なくなったもの / 不思議と支えはあらわれるのだ / 近況報告のしかた

「そよ風」の方でクイズとして出題(?)しているが、先日、スーパーマーケットか何かのチラシ広告の「料理の作り方」コーナーを見ていて、何となく違和感を感じた。

…よく見ると材料欄の「コショウ」が「コシュウ」となっていた。

しかも「作り方」欄には「コショウをする」と書いてあった。よく考えると「塩・コショウをする」と読むとそんなに違和感はないのだが、「コショウをする」と単独で読むと何となく違和感がないでもない(=ある)。

…さらに作り方の欄を見ていくと、「材料」のひとつとして「ピーマン2〜3個」と書いてあるのに、「作り方」欄で1度もピーマンという記述が登場しないのであった。


残った・残された・残ってしまったものと、なくなった・なくされた・なくなってしまったもの…あるいは、うしなった・うしなわれた・うしなってしまったもの、について考えさせられた。

「うしなう」に「失う」という字をあてても「喪う」という字をあててもよいような気がするので、一応どちらにも対応できるように、ひらがなの「うしなう」をあてておく。差し当たり、今日の日記の中では、考えやすいように、「なくなった」で統一する。また、「ない」というのは、今日の日記の中では、「物理的にはこの世に存在しない/しなくなったもの」と考える。

というわけで、本題。すごく抽象的な書き方になるけれど。

残ったものを残し続けようとするのは大切なことである、と私は考える。時間が経つにつれて変化あるいは風化することは避けられない。それをも含めて、その時々で何かを残し続けることは大切なことだと私は考える。例えば、子どもの時に大切にしていたおはじきやビー玉、…も、そうであるし、この日記についてもそうであるし、話を大きくすれば、ある風景や、ある災害の痕…崩れた建築物(の一部)など。

一方、なくなったものについては?と、今日は考えていた。なくなったものは、物理的には、もうこの世の中には存在しない(と、今日の日記の中では考えるというのは先述の通り)。なくなってしまってもう戻ってこないものについて考えることは、正直なところ、つらい。少なくとも私は、なくなったものについて考えることは、胸が本当に痛くなるほどに、あるいはどこかを刺されたかのように、つらい。考えるだけで、思いを巡らせるだけで、つらい。それを大切に思う気持ちが強ければ強かったほど、つらい。例えば、子どもの時に大切にしていたものさし、たった100円だったけれどお気に入りだったシャープペン、話を大きくすれば、私にとっては「そう遠くない昔のことのような気もするし、ずっとずっと昔のことだったような気もする、そんな過去のある時に、もう二度と会うことのできない遠いところへ見送った友人」、あるいは、この日記を書き始めて間もなくの頃に解体された自分の家。

ふっと思いにのぼるだけでもつらい時があるのだ。落ち着いて直面するにはしばらく時間がかかるのかもしれない。「しばらく」どころではないのかもしれない。5年や10年経ってもまだ無理なのかもしれない。そのあたりは、人によっても状況によっても異なるであろうけれど。

それでも、いつかは、なくなったものと心から直面する必要があるのかもしれないと、今日思った。時間はかかるかもしれないし、苦しいことでもあるだろうし。それでもやっぱり「それがない」という事実は変わらないのだ。直面する「その」時や方法がどのように訪れるのかは、私は、私の場合と私の知っている人の場合の一部しか知らないので、ここでは何とも言いようがないのだけれど。

しかし、なくなったものと心から直面して、自分なりの方法でなくなったということを自分の中に溶かしていったならば、「それ」そのものは物理的にはもう1度復活・再現することはないとしても、別の形で何かすごく大切なものが生まれるのではないだろうか、そう希望を持ってもいい場合もあるだろう、と、考えた。ものすごいエネルギーと時間が必要であろうけれど。

そう考えると、「なくなった・なくされた・なくなってしまったもの」に目を向けていくのも、苦しい場合もあるだろうけれど必要だと考える。「なくなった・なくされた・なくなってしまったもの」が形を変えて、存在し続けるということもあるだろうから。

そして私は、「なくなった」ということ自体を忘れてしまっているのではないかと時々不安になり、時々後ろを振り返る。振り返って考える。

ちなみに私は、喪失は乗り越えるものでも克服するものでもないと思っている。あくまで私見だけれど、どこまでいっても乗り越えたり克服したりはできないだろうと思う。むしろ、哀しみが自分の中に溶けていくような感じだろうと思うので、あえて「乗り越える」という言葉は使わなかった。

「ある」ということと「ない」ということについては、当分、私が考えるべき宿題になりそうだ。


今日、耳にしたいい言葉。

「自分が何かをしたいって強く思って、手さぐりでも不安でもその方向に向かって進んでみると、不思議とそれを支えてくれる人やものがあらわれたり、それを手助けしてくれるような状況になったりするものだ」

私の幸せは私が決めて、私が作る。私が一歩一歩踏み出す。それで何か不利益が起こったとしても、私はその責任を全て負うし、不利益を逆に利益に変えてみせるんだ…と、最近思っている。ただ、最初の一歩が踏み出せずにいるところだ(というか、なんだかあっちこっち混線してわけがわからなくなって糸がこんがらがっている感じ)。そんな今の私を勇気付けてくれるような言葉だった。


帰りに、所属している楽団の練習場に楽器を持たずに寄って、手続きや事務連絡の受け継ぎや申し込みを済ませてきた。ついでに近況報告もしてきた。「夏バテまっさかりなんです。夏は体質改善につとめます」と、今日1日で何回言ったことだろう。…ほんとに、体質改善すればいいなぁ。してほしい。するんだ。何とか体調が回復してほしい…。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)