風紋

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2004年07月16日(金) あつはなつい / 桜・紫陽花・過去・現在 / 向日葵のように / 追記(7月17日) / 追記2(7月18日、戻ってきた)

「あつはなついですね」という駄洒落を飛ばせるくらいの気力はぎりぎり残っているかなぁという感じ。ちなみにこの駄洒落を、親しい人の前で口に出すと、たいていの人が「つまらん!」と言って2〜3m離れていくが、どうやらこれが私の元気を測定する指標(?)であるらしく、たまに駄洒落を言わない時があると心配されたりする。久しぶりに会って駄洒落を飛ばすと、懐かしがられたりする。…たぶん(でもやっぱり「つまらん!」と思われていると思う)。

そうだ。あつはなついのだ…ではなくて、なつはあついのだ。


先日、「そよ風」の方で、「桜と紫陽花に対して人はずるいということと、過去が現在に位置づくこと」とだけメモ程度に走り書きをした(現在はだいぶ下の方に下がってしまっているけれど…)。その続きというか、補足。

私は、時々、人間は桜や紫陽花に対して随分とずるい態度を取っているのではないかしらと思い、桜や紫陽花に申し訳なく思うことがある。もっとも「人間」と言ってもいろいろな人間がいるので、「人間」とひとくくりにするのは随分と乱暴なのだけれど、私も含めて、大多数の人間は。

度々この日記でも書いていることのように思うけれど、例えば桜。春になって、桜の開花予報が出ると、そろそろ桜の季節だと思う。桜が咲くと、あぁ美しいと思って桜を味わう。お花見に行く。散ると寂しく思う。…で、それ以外の季節は? 桜がそこにあるということにすら気がつかないのではないの? もしかすると、春になって桜が咲いて、はじめて「ここにも桜の木があった」ということに気がついて、春が過ぎるとまた忘れて…。

紫陽花もそうだ。6月にさしかかって、紫陽花が咲いて、梅雨と夏のはじまりを感じる。紫陽花の美しさに心惹かれる。花が終わると、そこに紫陽花があるということにすら気がつかないのではないの? 忘れてしまうのではないの?

「私もだけど、私達はずるいよ。春も夏も秋も冬もずっと桜は桜としてそこにあるのに、春だけしか桜を見ないだなんて、桜に失礼だよ」と大声で怒る私に対して、静かに「でも1年に1度、晴れ舞台があるだけいいじゃないですか。1年中日の目を見ない草花もあるのですから」と優しく諭すように言ってくださった方がいらっしゃる。

話はここでがらりと変わる。

過去、いろいろなことがあった…と書くと、とても大雑把な言い方になってしまうが、過去には様々な災害や戦争、事件や事故もあった。

例えば、8月。過去、広島と長崎に原爆が投下され、戦争が終わった月。その頃になると、戦争にまつわる報道が増える。8月6日、9日、15日には、式典の様子が報道される。その時期だけでも、過去に思いを馳せ、現在とつなげて考えをめぐらせることは重要なことだと私は考える。しかし、本当は8月だけ思い出せばよいものではないのではないか? ずっとずっと考え、見つめ直す必要があるのではないか? 私はその必要があると考える。

1月。1995年1月17日午前5時46分。阪神・淡路大震災が発生した。1月になると「震災から〜年」という報道が増える。1月17日には各地の追悼の様子がテレビに映し出される。しかし、1月だけ思い出せばよいものではない。ずっと続いているのに。特に阪神・淡路大震災については、来年1月で発生から10年を迎える。10年で一気に「終わった。復興した」という方向に向かうのではないかと、私は気が気でない(ちなみに、私自身は震災の直接の被害はほとんど無いに等しい立場だが、「終わった。復興した」とは思わない)。

まだまだたくさんあるが、書ききれないのでこのあたりでひとまず止めておく。

私は、似たようなものを感じるのだ。春にしか桜に目をとめないこと、6月にしか紫陽花に目をとめないこと、8月にしか戦争を振り返らないこと、1月にしか震災に目を向けないことに、似たような「何か」を感じる。本当はその時期だけではない。ずっと続いていて、終わらない。

ただ、その方がおっしゃったことを思い出すと「日の目を見ない草花がある」のと同様に、「日の目を見ない過去の出来事」も、たくさんあるかもしれない。その方が、もしかするとこわいのかもしれない。

私自身、過去の全てを知っているわけでない。私自身が生まれてから起こった出来事についても、私なりの視点でしか捉えられない。過去のある出来事について、忘れてしまいたいという人もいるだろう。何か伝えたいとか残したいという思いはあっても、語れないという人もいるだろう(私にも語れないことがあるが、伝えたいのだが、語るのがつらすぎるのだ)。ただ、私は、私なりの視点でしっかりと世界を見て、聞いて、身体を総動員して感じ、考え続けたいと思うのだ。私など、ちっぽけな存在ではあるが。

それでも、春も夏も秋も冬も桜は桜としてそこに在り、紫陽花は紫陽花として、ただそこに在る。すごいと思う。花を咲かせるのは一時期だけだけれど、私は四季を通じてずっと見守っていきたいと思う。

この日がはじまりでも、終わりでもない。“いつもと同じようで、少しだけ違う日々”が続いており、朝になれば太陽が昇り夜になれば太陽が沈んで暗くなり夜空に星が見えるというのも変わらない時の流れが続いていって、その中で1年に1度この日がある。2004年1月17日の日記より)。


そんな毎日を重ねて、今日、ひとつ歳が増えました。ここまで生きることができたのが不思議で、でもありがたいと思っています…と昨年と同じことを書いてしまいますが、本当にそう思います。

これからの目標は、私は他の誰でもない私になること。私の人生の主人公は私であること。私の幸せは私が決めて、それを手に入れられるだけのパワーを身につけること。それと、体調管理に気をつけて、もうちょっと元気になること。

向日葵のように生きたい。いつも日の方向を見続ける。転んでも倒れても、私は私の向日葵を咲かせたい。また、恥ずかしい言い回しをしてしまった…。ちなみに「日の目を見ない草花にも目を向けたいと書いているのに向日葵という有名な花の写真を…」というのは、今回は勘弁してください。私自身の決意表明も兼ねているので。




絶対に今日は日記を更新したいと思っていたのに、パソコンの不具合で手間取りこんな時間に…(2004/07/17,1:15記)


追記:私自身のパソコンの調子が少しおかしいので、数日間預けて様子を調べてもらっています。別のパソコンがあるので、メールのチェックなどはできますが、日記の更新は難しいかも。と言いつつ、現時点で7月は3回しか日記を書いていないことが判明し、“宣言するほどのことでもないなぁ”と思っては、いる。


追記2:
日付を変えようかどうか悩んだが、話の流れでこちらに続ける。

…と追記を更新したのが確か昨日の午後(2004年7月17日の15時30分頃)であったのだが、なんとさっき(7月18日正午)にはパソコンを最適の状態にしてもらってきて、さらにメモリも増やしてもらって、無事戻ってきました。

…さすが餅は餅屋、魚は魚屋、果物は果物屋、パソコンはパソコン屋だ。早っ。ついでに対応も親切っ。ありがとうありがとうパソコン屋のお兄さん本当にありがとう。

しかし、「そろそろ新しいものを買うことも視野に入れた方がいいかもしれませんね。もって今年中…くらいですね」とは言われた(これ、使い始めて4年になる。Windows98)。…うーむ。私のハードコンタクトレンズの買いかえ時と重なるかな(←いや、コンタクトレンズの方が早かったはず。だましだまし使っているが)。というわけで、違う電器屋さんをぷらっと覗いて「そろそろ買いかえ考えてるんですけど、別に今日というわけでもないんですけど…」と言いつつ、おじさんとお話してアドバイスをいただき、いくつかパンフレットをもらってきた。

とりあえずパソコンを少しでも楽にしてあげるために、メールの中で不要なメールや不要な文書などを消していってあげよう…と思いつつ(捨て下手の私はメールデータもほぼ4年分捨てずに蓄積しているのであった…)、今は「寝てもつらい。起き上がっているのもつらい」というくらい気力体力を消耗しているので、また少しずつすることにしよう。

(2004/07/18,14:15記)


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)