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昨日の「そよ風」で、「すっっっごく、幸せな日だった!!」とだけ書き残して、何がどのように幸せだったのかを詳しく書く体力がないまま、ぱったりと寝入ってしまったので、少しだけ書き残す。ちょうど、「そよ風」の方からこちらの方に転記しておきたいこともあったので、それも合わせて書く。 昨日、何をしたかというと、一言でいえば「人に会った」ということだった。 昼間には、大好きな場所に出向いて、今の私にとって大好きでとても大切な人々にお会いした。最近ちょくちょく出向いているのだが(2週間に1回の時もあれば、1ヶ月に1回の時もあり、さらに1週間に1回の時もあるが)、行くたびに“来て良かった。会えて良かった”と思う場所であり、人々である。同時に、毎回行くたびに心を動かされることがあるし、ひとりひとりに対して「あなたが好き!」という気持ちが大きくなるし、同時に大切で大きな宿題を抱えて帰っている。 夜には、大切な仲間と会った。5人で。久しぶりに会う人もいれば、いつも会っている人もいるという感じだったが、5人全員が揃ったのは2〜3年ぶりのことだ。5人ともかなり話した話した話した。食事の後にカラオケに行ったのだけれど、最初数曲歌っただけで、あとはほとんど3時間くらい部屋の中で話をしていた。全然遠慮もなく、言いたいことを言って、聞きたいことを聞いて、聞かれたくないことを聞かれたら真剣に答えたり適当にめちゃくちゃな方向にそらしたりして、結果的に話の流れがわけがわからなくなるとかいうことを延々繰り返して、ということを全員がして、いや〜楽しかった。ちなみに私は「ぼくドラえもん」を1回歌った。歌詞を暗記するまでには至りませんが、3番まできちんと歌えますよ。はい。 以前は「大切な人が突然私の前から二度と会えないところに行ってしまったら…」という不安を感じるだけだったが、今はそれに加えて「私自身も、いつまで生きていられるかわからないんだ」ということを感じるようになった。いや、私は別に大病を抱えているとかいうわけではないけれど、いつどうなるかわからないものだし。 本当に、生きていくということは、大変なようで簡単、簡単なようで大変なのかもしれない。今の私は、生きていくということを「大変であること」「決して当たり前のことではないこと」と思っている。前回の日記にも書いたけれど、人に支えられることもあるし、人に傷つけられることもあるし、いろいろ悩むこともあるし。 それでも何とか生きているのがすごいと思う。それは、いろんな人やものに支えられているからだろう(というところで、前回の日記とちょっと関連する)。そうしてひとつひとつ乗り越えたり、乗り越えられなくても、自分の中で少しずつ消化しようとしながら、ちょっとずつ成長していって、ある時にふっと、成長を実感できるからかな、と。 でも、心と心を通い合わすって簡単なようで難しいようで。たとえ仲の良い親密な人とでも、時と場合や方法が少しすれ違ってしまうと、傷つけたり傷つけられたりということが起こってしまう。「仲の良い親密な人」であるからこそ、つけた傷やつけられた傷を深く感じたりもする。場合によっては傷が長期にわたって痛み続ける。でもやはり、衝突もしながらもそうやってコミュニケーションを諦めずに繰り返すことを通じて、さらに「あなたが大切!」という気持ちが深まると思う…というか、多少の衝突はあるだろう。その時にどうするかも、人それぞれで、場合にもよるだろう。今は私は、1回1回1人1人の出会いを私の中で大切にしたいと思うのだ。 長崎県佐世保市の小6女児殺害事件で、亡くなった女子児童のお父様である御手洗恭二さんが、お別れの会を開くことを決められたそうだ。そして、2004年7月10日の日付で発表された手記を読ませていただいた。 「名称は「お別れの会」ですが、私自身は「お別れ」とは思っていません。私の中ではこれからもずっと怜美が生き続けます。」 という最後の言葉が、ずしんと心に響いた。そうだろうな、と思った。私もそうだから。 私には「そう遠くない昔のことのような気もするし、ずっとずっと昔のことだったような気もする、そんな過去のある時に、もう二度と会うことのできない遠いところへ見送った友人」がいる。形式的には「もう会えない」し「お別れ」もしたが、私自身は「お別れ」したとは思っていない。だったら何だ?と問われると答えに詰まるけれど。“いつも一緒にいる感じ”でもないしなぁ…何だろ。 昨日、自転車をこいでいる時に、不意に小学校時代の恩師の言葉が聞こえたような気がした。その先生にも、今はもう二度と会うことはできないし、「お別れ」もした。「『そう遠くない昔のことのような気もするし、ずっとずっと昔のことだったような気もする、そんな過去のある時』よりも、もう少し時間の経った時」に、「お別れ」した。 先生が、私の学校に転任してきて1番最初に受け持ったクラスが私の在籍するクラスだった。私は小学校4年生だった。慣れない中で先生も随分苦労されただろうと今となっては思うが、ご自身の思うことを精一杯伝えようとされる先生だった。ゆえに、先生を嫌っていた生徒も多かったのだが、私はとても好きだった。先生は、なぜか当初から私に「他の人にはない何か」を見つけて下さったようで(それが何かは未だにわからないが)、随分と私を可愛がってくださった…というと語弊があるかもしれないが、あたたかく見守って励ましてくださった。それは卒業後も変わらなかった。また、縁があって私の妹も数年後に先生に担任していただき、姉妹ともに随分あたたかく見守ってくださった。 年賀状のやり取りはしていた。ある時、先生が私の学校のある自治体から少し離れた自治体に転任されたと知った。それでも変わらず見守ってくださり、私が大学に入学した時にも妹が大学に入学した時にも、とても喜んでくださって、可愛いお人形を贈ってくださった。 「『そう遠くない昔のことのような気もするし、ずっとずっと昔のことだったような気もする、そんな過去のある時』よりも、もう少し時間の経った時」に、不意に先生が亡くなられたとの知らせを受け取った。癌だったとのことだった。まだ亡くなるには早すぎる年齢であった。知らせを受け取った経緯も、すごくややこしい手続きを踏んだ覚えがある。先生が生前伝えておられたらしく、先生が在籍しておられた学校から、私の在籍していた学校に通知があり(2つの学校は決して「近くの学校」ではない)、私の在籍していた学校から私の自宅に連絡があった、と。 父・母・私・妹で、お通夜に伺った。先生の奥様と少しお話もさせていただいた。奥様によると、旅立つ数日前まで私たち姉妹のことを気にかけてくださっていたという。2人ともこれからどんどん活躍するんだろうなぁ、元気で頑張ってほしいなぁ…と。 なぜ、そんなにも私達のことを…。そして、なぜそんなに私達のことを気にかけてくださっていたのに、なぜ私は1度も先生に会いに行こうとしなかったのだろう。 だめだ。思い出すと泣ける。そして、本当は大切な人なのに、いま会おうとしていない人、いま思い出せない人がどれだけいるかを思い出す。同時に、先生に恥ずかしくないような生き方をしているだろうかと思う。 なんだかどう締めくくればよいのかわからなくなったが、ひとまず今日はここまで…。
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