風紋

もくじ / この前 / この後


2003年07月11日(金) 今日の天気 / 打開策が見えたか? / 月下美人の花 / 「週末フリーズ」現象

晴れなのか曇りなのか雨なのか、よくわからない1日だった。別に外を見なかったということではなく(いや、でもほとんどの時間を部屋の中で過ごしたのでほとんど外に出ていないのは確かだが。不健康だよな…)、今日はどういう天気だったのか、定義しにくい1日だった。


今の私の状況を比喩的に現すならば、「“私は大丈夫だから。心配しないでね”とだけ言い残して、周りをよく見ずに走り出して、案の定、すぐに何かに思いっきりぶつかって、身体の一部を思いっきりぶつけて、“いたたたた…”とぶつけたところを撫でさすって蹲っている」という感じかな、と思う。何だか、そういう感じのことをいろいろなところでしてしまっている。ありがたいのは、“走り出す”前に助言をくれる人や、“ぶつけたところを撫でさすって蹲っている”時に助けてくれる人…つまり、例えて言うなら、どうやったら痛みが治まるか一緒に考えてくれたり、湿布を持ってきてくれたり、ただ一緒にいてくれたりする人…がいてくれるということだと思う。ありがとう、ごめんね…と思っている。

4月以来、ずっとずっと悩んでいたことの1つであった、とある勉強会の進め方について、担当の先生に呼び出されて話を聞いて頂く。というか、近々私の方から相談に行くつもりではあったので、今日呼び出されたのは好都合ではあった。正直なところ、私自身が限界に近くて、もう続けられない、やめたいとさえ思っていたから。恥ずかしい話なのだが、耐え切れなくなって、同僚の前で弱音や愚痴を言ったり怒鳴り倒すことも随分多くなっていた。一方で、愚痴や弱音を表に出してしまう自分自身の弱さが嫌で嫌でならなかった。その状況は先生もある程度把握されていたようだった。

先生がおっしゃることには、中心になって引っ張っているあなたは随分難しいだろうなとは薄々は思っていた、とのこと。ただ、本当に個性的でいいメンバーなので、それがうまく生かせるように、方針を変えてみてはどうか、それはあなた自身のためにもなるだろうし、やり方によっては随分面白いものができるだろう、別のグループとは違った風になるかもしれないが、従来のやり方にこだわることはないから…とのことだった。

正直、びっくりした。そういうやり方もあるのか…と。“従来の枠”“従来のやり方”“ここで許容される方法”といったものを勝手に想定して、それにとらわれて自縄自縛という状況を作り出していたのは、他の誰のせいでもなく、私だったのかもしれない。以前に書いたことがあるかもしれないが、私の研究室には私のテーマと近いことをしている人がほとんどいない。問題意識の組み方から、方法論、アプローチの仕方に至るまで、他の人達が取っているスタンスと私の取っているスタンスは、微妙に違うし、事によっては全然違うこともあると私自身は思っている。ただ、それにこだわっていたのは私だけかもしれない、と。私が自分で勝手に壁を作っていたのかもしれない。

どうせ、“もう何もかも駄目”“もう何をやっても無理”という状況(と、私自身が感じている状況)まで落ち込んでしまっているのだったら、開き直って思いっきり別の方向に全力疾走してみるのもいいのかもしれない。結果的に無駄になるかもしれないけれど、それをしなくても“もう何もかも駄目”な状況ではあるのだから。

今は、私自身の状態があまり良くなく、完全に混乱してしまっているので、具体的にどうすればいいのかというところまでは考えが追いついていない。ただ、恥をかいても、批判されても、とにかくできるだけのことはしてみようと思う(もっとも、そこまで動く元気がないのも現在の状況ではある)。


近所のお宅で、月下美人の花が咲いたとのことだった。いくつか、切った花をいただいてきた。ペットボトルに挿して(というのがあんまり風流ではないが…)愛でていた。白くて堂々とした大きな花。

小学生の頃、百科事典で月下美人という花があることを知った時に、そこに書かれていた説明が他の花に書かれていた説明とかなり違っていたのが印象に残っている。夜に咲き、しかも一夜限りしか咲かないという。数時間でしぼんでしまうとも。一夜限りの、というのが、たまらなく悲しくもなる。

珍しい花だということは知っていたので、滅多にない機会なのかもしれないと思い、写真も何枚か撮ったのだけれど、うまく撮れているかどうかわからない。それよりも、私自身の身体全体で、この花が咲いた様子を覚えておきたいと思った。目で見て、耳で聞いて、手で触れて、鼻で匂いを感じて、この花のことを身体全体で覚えておきたいと思った。そしてそれを決して忘れるまい、とも。写真は撮ったのだけれど、写真で捉えられないことも随分たくさんあると思ったから。

目で見たところ、堂々とした、毅然とした、華やかな、自信に満ちあふれた…という感じがした。大きくて立派な花。“何があっても私は私なのよ”という感じで佇んでいるように感じられた。ただ、だからと言って、何者をも寄せ付けない冷たさのようなものはなかったと思う。そういうものは感じなかった。むしろ“私の方においで”と言われているような気がした。混じりっけのない、精いっぱいの白。花びらがたくさん。花の中も、ちょっと面白い。おしべやめしべのつき方が。

もっともっと近くで見ようと思って、花のすぐ近くに顔を近づけてみると、頬に花びらが触れた。くすぐったくて気持ち良かった。思わず、ふふ、と笑いがこぼれた。

手で触れると、花びらは厚くてしっかりしていて、でも触った感じはとてもとても気持ちが良くて優しい感じがした。少ししっとりとした感じがした。あまり強く触ると、ちぎれてしまいそうで、壊してしまいそうでもったいなくて、指先で撫でるくらいのことしかしなかったけれど。でも“私は触れられても絶対に壊れないから。大丈夫だから”というような意地?のようなものも感じた。

それから匂い。月下美人は匂いも特徴的だという。とても強い、でもいい香りがした。最初は少しきつい匂いかなと思わないでもなかったけれど、ふと、限りなく優しい匂いだな…と思った。少し懐かしい匂いだとも思った。初めて目にした花なのに。魅力的な匂いだった。

この花は優しいな…と思ったのは、花びらがたくさんあったからかもしれない。全部を包み込んでくれそうな優しさがあるな…と思った。

飽きるまでずっと月下美人の花の前に居たのだけれど、飽きても何となく去り難かった。ふと、前の家が解体になる直前に、前の家に行った時のことを思い出した。あの時も確か、デジカメでたくさん写真を撮ったのだけれど、写真を撮るだけでは足りないと思って、柱や壁を撫でたり叩いたりしていたんだっけ。名残は尽きなかったけれど、それでもいつまでも居るわけにはいかなかったのだけれど、立ち去り難かったということまで、似ている。

よく考えてみると、一夜限りの月下美人に対峙する時でなくても、同じなのかもしれない。人や物と対峙する時にも、ある程度の覚悟が要るのかなと思う。その時その時の自分や相手をよく見て、よく聞いて、体全体で相手の存在を感じようとすることが(もっとも、人によっては、そこまでされると気持ち悪いと思うかもしれない。私も、相手によってはそこまでされたくないと思うかもしれない)。

それはそれとして、明日、しぼんだ月下美人と対峙するのは少しつらい。胸が痛む。ただ、やはり最後まで見届けるべきなのかとも思う。私に見届ける勇気があるかどうか。きちんと見届ける勇気を持ちたい(もっとも、最近は朝起きるのがつらいので、ひょっとしたら私が起きる前に家族が処分しているかもしれない)。


最近、毎週金曜日になるとフリーズしているような気がする。パソコンでなく、私が(詳しくは6月28日の日記参照)。大学に着いた時には虫の息。ゆっくりとしか歩けないし、ゆっくりとしか話せない。人と話していても、何か重要なことを言われているのはわかるのだけれど、半分くらいは意味を把握できないまま、ぽけっと聞いていることもある(失礼だ…)。今日は午後3時頃から解凍(?)してきた。早めに帰った方がいいのかなと思いながらも、少しでも動けるうちにいろいろなことをしておきたいと思って、結局かなり遅くまで居残っていた(それが良くないのかもしれないが)。

今日の日記は、やたらと長くてごめんなさい。


もくじ / この前 / この後
浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)