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沈丁花の蕾が開きかけているのを見つけた日。 少し駅前で買い物をしてから大学に行くことにした。大勢の人に囲まれて交差点で信号待ちをしていると、ふと、“こんなに距離(物理的な距離)が近いところにいても、考えていることも、感じていることも、見ているものも、みんな違うのだろうなぁ”と思った。 知らない人達の中に居たから余計にそう思ったのかもしれないのだけれど、知り合いであるところの人達の中にいても、それはそうなのだろうと思う。似ていることはあるだろうけれど、でも全く同じだということは…あるんだろうかな。 それはある意味とても寂しいことで、反面とても嬉しいことだと思った。 最近、レピシエのテイスティングカップを使って、大学で葉っぱから紅茶を淹れている。不器用なので、注ぐ時にこぼしてしまうことも相変わらずなのだけれど(どれだけ不器用なんだという感じだが…)。と言っても、それほどたくさんの葉っぱを持っているわけでもないことと、持っていても変に勿体無いと思ってしまって(飲まずに品質を劣化させる方が勿体無いに違いないのだけれど…)、今はレピシエの854 キャロルと191 ダージリン・セカンドフラッシュ 2002を交互にいただいている。 「キャロル」の方は、昨年末にたまたま店頭で試飲をさせていただいて、いい香りだなと思って思わず衝動買いをしてしまった。今、改めて飲んでみると、この甘い香りが、時によってとても快く感じる時と、ちょっと重いなぁ…と感じる時があることに気がついた。それは自分の状態によるのかもしれないけれど。どちらにしても、ストロベリーとバニラの香りがかなりきつく出るので、苦手な人は苦手だろうと思い、なるべく誰もいない時にこっそり飲むことにしている。 「ダージリン・セカンドフラッシュ2002」の方は、繰り返しいただいていると、ダージリン(の、セカンドフラッシュ?)はこんな感じだというのがだいたい掴めてきた。美味しく淹れることができているかどうか未だにわからなくて申し訳ないのだけれど。多少渋く出たり薄く出たりしても気がついていない可能性がある…。 最近、度々頭の中に浮かんでくる言葉。 「どーんと胸はって、プライド持って、わらうときは声だして!」 (「さよなら十二歳のとき」(薫くみこ:著/中島潔:絵,1986年,ポプラ社。(詳細)。p.216) 昨日日記を書かなかったからなのか、今日は疲れているからなのか、今日は書いていて言葉がするっと出てこないというかひっかかるというか、実はさっきから書いたり消したりしている。 別に、きれいな言葉や上手な言葉を綴らなければならないと思っているわけではないのだけれど。想いを言葉にするのが難しい時期も私にはあったから、今はとにかく書いてみよう言葉にしてみようと思っている。誰のために、なのかはよくわかっていないのだけれど。 いつもいつもするすると言葉が出てくるわけではなかろうとは思う。言葉にならないこともあってよいのだろうし、それはそれとしてそのへんを漂ったままにしておいていいのだろうと思う。思うのだけれど。 ただの通りすがりの人としてだけではなくて、ある程度の知り合いになると、助けられたり助けたり、支えられたり支えたり、元気付けてもらったり元気付けたりといったことも多くなるけれど、反面、迷惑をかけたり迷惑をかけられたり、振り回してしまったり振り回されたり、傷つけてしまったり傷つけられたりということも起こってしまって、それは哀しいことでもあり、それで「あなた」を哀しませてしまうのは私の本意ではないから、ますます哀しくて申し訳なくて、どうしたらいいのかわからなくなって、いっそ私などいなくなればいいんだとも思い、頭を抱えてしまうこともあるのだけれど、それでも私は、私の方は、「あなた」とお知り合いになれて良かったと思うし本当に幸せなんだよ、…と思うことがある。
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