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お客様が何人かお見えになることになっていたので(そして実際お見えになったので)、洗濯をしたり、お茶やお菓子を準備したり運んだり、お食事を用意したり片付けたりと、朝から夕方まで何かとばたばたしていた。今、振り返ってみると、やる気がない状態にならなかったのが不思議(というか幸い)なのだけれど、と言っても別にやる気があったわけではないのだけれど、それなりに動いていた。1日中食器洗いをしていたような気もするが。ガラスのコップを洗うときらきら光るのを見るのが好き。 ほぼ1年前の日記を読み返していて(Web日記ではない。その頃はまだWebという媒体には載せていなかった。自分が忘れたくないことを自分のためだけに書いてフロッピーの中に保存していた)、現在の自分が思い悩んでいることの中には、実は1年前から既に思い悩んでいることもあったということを知り、そのあまりの進歩のなさに愕然としてしまった。最近の日記と同じような記述をしているところが割と多くあって。 もちろん、1年前から変わったこともあるし、変わっていないこともあるのだけれど。 変わったこと、変わっていないこと、失ったもの、得たもの。 私は(私自身のこのことに関しては)、動く勇気がないというのを言い訳にして思い悩まずに、思い切って何かを壊すつもりで頑張ってみればいいのだろう(何かを壊す…って、それでも自分にとって大切なものだけは守りたいけれど)。 時間なんてすぐ過ぎてしまうし、いつまで生きられるかもわからないし(病弱であるというわけではない)。 昨日見た短歌 「水道をとめて思へばかなしみは叩き割りたき塊をなす」 出典は朝日新聞の一面の「折々のうた」で、大西民子氏の作、「雲の地図」(昭和50年)所収ということだった。 「叩き割りたき塊をな」した「かなしみ」とはいかほどのものだろう、と思うとそのあまりの重さに衝撃を受けて暫く茫然としていた。 そして、自分にも、「かなしみ」と名前をつけられるものなのかどうかわからないけれど、「叩き割りたき塊をなす」思いがあるような、ないような、あることを忘れているような。 今日聴いた音楽。 ピアノソナタ第23番ヘ短調作品57「熱情」(PIANO SONATA No.23 in F Minor, Op.57 "Appassionata")/ベートーヴェン 何故だかこの曲の第3楽章がとても聴きたくなって、久しぶりに聴いてみる。ベートーヴェンの三大ピアノソナタ(「月光」「悲愴」「熱情」)の中ではこれが一番好き。中でも第3楽章が一番好きで、自分でも弾けたらいいなと思って楽譜だけは持っているのだけれど、今の私には弾きこなす技量はない。 時々、この曲が弾けるようになった後でピアノをやめればよかったなと思う。ピアノのレッスンに行くのをやめたのは15歳の時で、高校受験を理由に何だかなし崩しにやめてしまった。ただ、本当に音楽を自分で演奏しそれを人に聴いてもらうことの楽しさがわかりかけてきたのはそれよりも後だったので(今でも完全にわかったとは言い難いけれど)、もう少し頑張って続けていたら、私とピアノとの関係ももう少し違ったかなと思う。 そういうわけで、私は莫迦だなと思いながらも、私は未だに「熱情」の第3楽章のメロディーを紡ぎだす指に憧れている。 というわけで、結局またまともに仕事をしない土曜日曜だった。大学に行ってしまえば良かったのかもしれない。
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