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風紋 もくじ / この前 / この後
夜明け前、机の前に座って窓の外を見つめ、南の空が急速に明るくなっていくのをじっと眺め、その後に少しだけ眠りの海の中に沈み込み、また起きて、机の前に座って、太陽が現れたり隠れたりしながら東から西へ移り行くのをじっと眺めていたら、いつの間にか空は真っ暗になっていた。 「テレプシコーレ」(Terpsichore)(Praetorius/Margolis)をまともに全部聴いてみた。 I(Bransle Gay - Bransle double de Poictu)とII(La Robine - Spagnoletta - Ballet des Amazones - Volte)は、文字通り、身を切られるような切なさを感じた。追いかけても追いかけても、手を伸ばしても伸ばしても、憧れのものに手が届かないかのような。それがIIIを経てIV(Gaillarde - Reprinses - Gaillarde - Volte)に入った時に、希望の芽を大切に大切に育てているという感じを窺うことができ、一番最後の部分で一気に飛翔するという感じがした(元々はこんなストーリーを持つ音楽ではない。あくまで私の勝手なイメージである。この曲の詳細は…また調べます)。 かなりの難曲であることは間違いないようだ。今、このような状態にある私が、他でもない今、この曲を演奏することになったのも、何かの運命かもしれないと思った(大袈裟かもしれないが)。これからこの曲と向き合う中で、私は何を失い、何を得ていくのだろう。 新井素子「ハッピー・バースディ」(2002年,角川書店)より。 「“書かない”のは確か、“書けない”のも、多分そうだろう、けれど……けれど、“書きたくない”のか? 違う。 おそろしいことに、それは、“違う”。」(p.276) 「うん。そうだ。 結局、判ったのは、たった一つのこと。 “自分がしたくないと思っていることをするのは、変だし、自分がしたいと思っていることを、しないのは、変だ”。 そう。 うん。 そんなくくりで言うのならば。 “書きたい”と思うことをやめる必要はないのだし、“書きたい”と思わない場合、何も書く必要は、ない。」(p.280) 「たとえどんなにそれが辛くとも。 実際、全然文章が書けなくとも。 “書けないし”、“書かなくとも”……それでもそれは、“書きたくない訳ではない”。 それは、言い換えれば、こういうことになる。 たとえどんなにそれが辛くとも。 実際、もう生きている必然性がなく、“死んだ方がずっといい”って状態になったとしても。 “生きているのが辛いし”、“生きている必要はないって思っていても”……それでもそれは、“生きているのをやめたい訳ではない”。−−言い換えれば、“死にたくない”。“死ぬのは、嫌だ”。」(p.281〜282) 私も書きたい。生きたい。書かない方がいいのではないかと思って、書くことを徹底的に避けていた時期も昔あったけれど、それでも書きたかった。だから書く。血を吐くような思いをしても(論文が書けたらもっといいのだけれど、ということで2月は頑張る)。 誰が何と言おうと、私は、自分が見、自分が感じたところの、自分の目の前にある真実を見据えて、それを大切にしていこうと思った。 自分が大切だと思うものは、それが何であろうが、誰に何と言われようが、大切だし、だから大切だという思いを守り続けるだけの気概を持ちたいのだ。
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