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私が育ってきた環境においてのみ、そうだったのかもしれないけれど、人前で…例えば学校などで泣いてしまった時、大抵は、泣いてはいけませんとか泣きやみなさいと言われたものだった。直接言われなくても、暗にそうすることを求められているような気持ちを味わったものだった。それで私は、人前で(私が)泣くのは罪悪だと思うようになった。実際に泣いてしまった時は、とてもとても罪悪感を感じたものだった(今でもそうだ)。でも、冷静に考えてみると、泣いている人に泣くなというのは随分むちゃくちゃな話なのではないかしらと思う。 前の家があったところを見ることができる道を通って帰って来るのが習慣化してしまったというのは昨日書いた。そして、今はここはこういう風景の場所なのだ、何にもないのだと自分に言い聞かせるために、私はこの道を通って帰ってきているのかもしれないと思っていることも昨日書いた。でも、今日改めてこの道を通って帰ってきて、少し違うような気もした。 前の家は私が生まれてから昨年秋までずっと暮らしていたところだ。今はこの場所から離れていても、私はこの場所と結びついているということ、この場所が自分にとって大切な場所であることを確認したいのではないかなと思った。うまくは言えないけれど、自分の存在の根っこになっているというか…。 それと、懐かしさ…からかもしれない。以前当たり前のように毎朝毎夕見ていた家の回りの風景を確認したくて。それも自分の根っこを確認しに行っているようなもののような気もする。 こだわりすぎだとは思う。早く忘れた方がいいのにとも思う。早く今の家に慣れるべきであるとも。わかってはいるけれど、今の家の住所表記にまだ馴染めなくて、前の家の住所表記で届く郵便物があるととても嬉しかったりする(郵便屋さんごめんなさい)。 そのうちに…とは思います。 過ぎ去ったことに対して、“もし”ということはあまり考えたくないのだが。 昨年9月に私はこの日記をはじめた。が、もし日記を書いていなかったら、あの時に日記をはじめていなかったなら、今の私はどうなっていただろうか…ということを、今日の帰りの電車の中でふと考えた。 考えて、別にどうにもなっていなかっただろうよ、と苦笑した。もしあの時日記をはじめていなかったとしても、やっぱり私は今と同じ生活をしているだろうし、こうやって普通に電車にも乗っているだろうと。そういう意味では、日記をはじめたことで別に何が変わったわけでもない。ちなみに生活にめりはりがついたわけでもない。 意識しないところでは、何らか変わっているところもあるのかもしれない。が、意識していないだけにわからない。 もし日記を書いていなかったとしても、普通に私の生活は流れているだろうというのが最初に挙げた問いへの答えだ。だから、その意味では書いても書かなくてもいいものだろうとは思う。でも、私は書きたいから書いている。書くことで何かが変わるのを期待しているのかもしれない。それはわからない。でも期待がかなえられなくても書いているだろうなとは思う。 セ氏2度の凍った空気を突き破り優しく響くあなたの声 …字足らず? 勢いで掲示板(こちら)をつけてみました(どんな勢いだよ)。
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