Experiences in UK
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2005年07月25日(月) 第102週 2005.7.18-25 貧困問題とテロの因果、14番バスが新型ダブル・デッカーに移行

ロンドンの街もなかなか平常どおりと言っていられないような状況になってきました。
21日に二度目の同時多発テロ(未遂)があり、翌22日朝には地下鉄で自爆テロを実行しようとした人物が警官に射殺されるという殺伐としたニュースが伝えられました(通常のロンドンの警官は銃を持っていないので、特殊部隊といわれる。後にテロと無関係の人物だったことが判明)。
先週木曜・金曜のロンドン中心部は、一日中パトカーのけたたましいサイレンの音が鳴り止まない感じで、緊迫した雰囲気を感じずにいられませんでした(もっとも、普段からロンドンでは比較的パトカーのサイレンの音が耳につくのですが)。

(貧困問題とテロの因果)
今回(7月7日)のテロ攻撃で、実際に被害に遭われた方々を除くと、最大の被害者はパキスタン系イスラム教徒の方々でしょう。実行犯と目されている四人のうちの三人が該当し、パキスタンという国がムスリム過激派の本拠地として脚光を浴びる結果になっています。
英国内に多数いるパキスタン系の方々は、比較的貧困な人達とされています。よく比較されるインド系ブリティッシュが、全体として経済的に成功している一方、多くのパキスタン系はいぜん経済的に厳しい状況に置かれていて、ロンドンのみならずイングランド内の多くの地域で固まって生活をしているそうです。

このため、今回のテロ攻撃の背景には、パキスタン系ブリティッシュの貧困問題があり、英国(西欧)社会にうまく適応できないことに発する不満が、彼らを過激思想に走らせる原因となっているという分析がしばしばなされています(7月16日付エコノミスト誌のLeadersにもそのような見解が紹介されている)。
実は、私が英語のレッスンを受けている女性がまさにパキスタン系二世のイスラム教徒です。彼女に対して上記のような見方をどう思うかと聞いてみたところ、断固とした口調でdisagreeと否定されました。彼女曰く、「英国は機会の平等が保障されている社会であり、この国に貧困問題なんてありえない。人種差別的なこと?そんなことどこにでもある話じゃない。ただ、自分たちのような移民は、出身国と英国の間の二重のアイデンティティの狭間で揺れていることは事実。今回の件に限らず、イスラム教の名を借りて、そのようなアイデンティティの分裂で不安定な精神状態にある若者を洗脳し、過激思想の持ち主を輩出しているカルト集団の存在は、イスラム教徒として本当に許せない」とのことでした。

この話を聞いた際に思ったことは、95年に日本が経験したオウム真理教による一連の事件と同じ構図があるということです。受験戦争や競争社会の中でアイデンティティ喪失の状態に陥った人たちをカルト集団がすくいとって洗脳し、反社会的な行動に駆り立てるというパターンが酷似しているように思えたのです。
当時の日本でも、オウム事件と競争社会の間に因果を求めるような筋違いな議論が一部であったような気がします。今回、私が話を聞いた女性は、パキスタン系移民の中では西欧社会にうまく適応できている数少ない成功者であり(と言っても特段裕福なわけではなく、経済的にはごく普通の中間層)、貧困の実態を必ずしもよく知らないのかもしれません。ただ、本人としては、努力をすればある程度報われる英国社会において、将来に絶望して自爆テロに走らざるをえないような貧困問題などありえないという立場であり、パキスタン系イスラム教徒の貧困問題と今回のテロを結びつける議論は、本筋を見誤る議論だと言いたいのでしょう。至極もっともな見方のように思えます。

(バッキンガム・ガーデン・パーティ)
二度目のテロ事件が発生した21日の午後、バッキンガム宮殿での女王陛下主宰ガーデン・パーティに出席する機会がありました。地下鉄テロのニュースが12時半頃に流れ始めたのですが、午後3時に始まるガーデン・パーティは、当然のように予定通り執り行なわれました。

幸い好天に恵まれた爽やかな午後、バッキンガム宮殿の裏庭に大勢の紳士・淑女が集まりました。ガーデン・パーティなのでドレスコードはさほど厳しくありませんが、女性は民族衣装あるいはデイ・ドレス(帽子着用)、男性は民族衣装、モーニングあるいは平服/制服となっています。男性は、概ねダーク・スーツで大丈夫ですが、女性はそれなりの格好が必要であり、着物を選択しなかった日本人女性にとっては「帽子」が厄介な問題となります(英国で女性が野外で正装する際、帽子は必須)。
今回、妻は洋風ドレスを選択し、一ヶ月以上もああでもないこうでもないと悩んで決めたドレスに、サーカス団員のような帽子を頭にくっ付けての参加でした。

広大な芝生の庭園には、西洋映画さながらに華やかな衣装で着飾った老若男女と各国の民族衣装を誇らしげに着込んだ人々が集っていて壮観でした。暑い中、モーニングを着用し、山高帽をかぶり、手には(素晴らしい晴天なのに)細く巻いた黒い傘を持って闊歩している伝統的な英国紳士スタイルの男性もけっこういました。
多くの女性が洋風ドレスを着用する中で、着物でしゃなりしゃなりと歩く日本人女性はかなり目立っており、周囲の注目度も高かったように思います。贔屓目があるかもしれませんが、どの国の民族衣装よりも着物の魅力は際だっていたように感じました。

午後四時ちょうど、女王陛下のご登場です。音楽隊が英国国歌“God Save the Queen”を奏でるなか、全員が起立してお出迎えしました。促されるままに出席者たちによる人垣の通り道が形成され、そこをエリザベス女王がゆっくりとロイヤル・テントまで進まれます。
途中、お付きの人たちによって選ばれた幸運な人が人垣から引っ張り出されて、女王陛下の通り道に十メートルおき位に配置され、女王は彼らと会話をしながらゆっくりゆっくりと進んでいました。声をかけるというよりも会話をするという感じで、各三分程度じっくりと話をされていきます。
人垣の最前列で待ち構えていた我々は、(幸か不幸か会話要員には選ばれませんでしたが)ほんの一メートルくらい先で会話を交わしているエリザベス女王のご尊顔を拝し、その言葉に耳を傾ける機会に恵まれました。もっとも、妻の真後ろにいた私の視界前方は、彼女のでっかい帽子によって八割方占拠されてしまっており、女王陛下のご尊顔はほとんど見えなかったのですが・・・。

(14番バスが新型ダブル・デッカーに移行)
私の通勤の足は14番のバス(ダブル・デッカー)なのですが、今では数路線しか残っていない旧型ダブル・デッカーでした。昔からロンドンのシンボルとして知られているオープン・デッキのバスで、ルート・マスターという愛称でロンドナーにも親しまれてきたのですが、これが諸事情により今年中にすべて新型に切り替えられるということは既報の通りです(04年9月27日、参照)。

先週金曜夜、帰宅の際にバスを降りると(私が降りるのは終点です)、カメラを持った多くの人々が集まっていました。どうやらこの日が14番の旧型ダブル・デッカー最終日だったようで、最後の姿をカメラにおさめようという人たちが集まっていたようです。
私も二年間毎日利用していたバスであり、感慨深いものがあります。車内はビックリするくらいに汚いのですが、いつでも自由に乗降できるオープン・デッキの自由さと車掌が相乗りしている前時代的な雰囲気は、新型の快適な乗り心地と比較してもはるかに魅力的なものでした。
いかにも暇そうではあっても車掌がいるというのは、テロ対策という意味でも安心できる要因だったのですが。車掌のいない新型ダブル・デッカーの二階は、ちょっと当分乗る気がしません。


2005年07月18日(月) 第101週 2005.7.11-18 ジョン・ブル、英国人がテロ攻撃にどう対応しているか

先週、スコットランド出張時の新聞をまとめて見ていたのですが、オリンピック開催決定を伝えて喜びがはち切れんばかりの木曜朝刊とテロ攻撃を伝えるショッキングな金曜朝刊のコントラストが、小説よりも奇なる現実をよく映し出していました。

(テロ攻撃から一週間)
先週は夜の街に繰り出す機会が多かったのですが、地下鉄が寸断されているからでしょうか、タクシーが捕まりにくい印象があります。
テロから約一週間後の15日(金曜)夜遅い時間にロンドンの目抜き通りであるオックスフォード・ストリートを歩いていると、深夜零時のハリー・ポッター新刊発売を待つ人々の長い行列が書店を取り巻いていました。ハリポタのキャラクターに扮した人々やそれらの賑わいをカメラに収める報道関係者で店の周囲はごった返していました。
当然のことながら、こうしてテロとは無縁の日常が流れているわけです。

(ジョン・ブル)
どこの国に関することであれ、国民性に関する説明はステレオタイプ(紋切り型)になることを免れないでしょう。例えば、「日本人は勤勉で時間に正確な国民だ」というよく言われる日本人像がありますが、日本人自身の率直な感想として、このような日本人像の適否はよく分からないところです。
それでも、過去に自分が受けた教育などを振り返ってみると、勤勉であることや時間を守ることを重視するような風潮が日本にかなりあったことは確かだと言えます。日本人の中には、二宮金次郎とか“おしん”の話に共感を持つ人が多く、ことあるごとにその類の〈物語〉を聞かされることで、日本人としての一定の価値観や思考パターンを教え込まれてきたということなのでしょう(それらを個々人がどの程度受け入れているかは別にして)。
つまり、人口に膾炙しているステレオタイプの日本人像が、実際に日本人に当てはまるかどうかはともかく、日本で相対的に重んじられてきた価値観を示すということはかなりの確からしさで言えるのだろうと思われます。

ところで、英国人の国民性に関する説明で、よく紋切り型に引き合いに出されるのが「ジョン・ブル」です。
ジョン・ブルというのは、風刺画などで英国人の象徴として描かれ続けてきた人物の名で、十八世紀後半くらいを起源とし、現在に至るまで新聞などに登場する息の長いキャラクターです。ジョン・ブルは、重荷に耐えるキャラとして描かれてきたそうですが、「隠忍自重こそがイギリス人の精神として望ましいと考えられたから」(小林章夫「物語 イギリス人」文春新書)、それが英国人の精神を象徴していると言われているようです。苦しい時にこそぐっとこらえて頑張る精神を指して、しばしば「ジョン・ブル魂」などという言い方がなされます。

通底する話ですが、英国人が子供を叱る際によく使われる文句の一つとして、「ドント・パニック」というフレーズがあるそうです。危機に直面した時やままならない状態に置かれた時こそ冷静さを失うなという教えなのでしょうが、これも親が子供にジョン・ブル魂を注入する意図によるものといえましょう。
「苦しい時にパニックに陥ることなく、ぐっとこらえて冷静さを保つ」というのが、現代まで継承されてきた英国人の国民性の一つのようです。

(英国人がテロ攻撃にどう対応しているか)
今回のテロ攻撃に対する英国人の反応に関する日本のメディア記事で、ジョン・ブルに象徴される英国人の国民性を指摘するものが散見されました。以下、一例として、たまたまネットで見つけた読売新聞のコラムを引用します。

〈非常時こそ平常であれ〉――今、ロンドン市民の冷静さの根底にはこの行動原理がある。〈いつものように〉――これがテロに屈しない市民の合言葉になった◆本紙国際面の「季節風」欄にロンドン特派員がそう伝えてきた。爆破現場の立ち入り禁止のロープが見えるカフェが結構繁盛している。事件3日後の第2次大戦祝勝パレードも予定通り行われた◆週末の歓楽街もにぎやかだったし、週明けにはラッシュも戻り、株価も回復。このロンドンのスケッチを読んで、ロンドン市民に拍手と声援を送りたくなった◆〈ジョン・ブル〉という言葉も思い浮かべた。英国人の代名詞。ジョン・ブル魂は幼時から「うろたえるな」で育てられる。〈隠忍自重〉はその代表的な資質の一つであろう◆初めは〈やせ我慢〉でも美徳は美徳。忍耐は一朝一夕で身につく資質ではない。ジョン・ブルの忍耐には長い歴史がある。第2次大戦のロンドン大空襲、IRA(アイルランド共和軍)の連続テロ……◆かつてかのイートン校などでは真冬も窓を細く開けて寝たと伝えられている。
(2005年7月14日14時5分 読売新聞)

さて、この記事の内容、英国人の国民性に関するステレオタイプの説明をテロ後の現実に強引に結びつけて捏造された「お話」(新聞・雑誌のコラムなどでよくあるパターン)として見過ごすべきものでしょうか。
驚くべきことに、私が実際に当地で見聞したところでは、そうでもないようです。
最も象徴的な事例として、テロ翌日にリビングストン市長があえて地下鉄で通勤して、ロンドン市民に対して平静を取り戻すよう呼びかけている様がニュースで流れていました。市民レベルでも、こういう時だからあえて普段どおりの生活を送るべきという考え方を身近な人々の口から頻繁に耳にしました。時には、また考え方によっては、「痩せ我慢」とも取れるほどに隠忍自重を尊び浮き足立つことを避ける行動原理が、この国には今も根付いているようです。
「非常時こそ平常であれ」は、必ずしもメディアの見出しを飾るお題目ではないというのが、今回、テロ後のロンドン市民の様子から感じたことでした。

(痩せ我慢の精神)
ついでに。テロの話から離れますが、上記のような英国人の国民性に関して、個人的に心に残っているエピソードがあります。ロンドン屈指の古美術商スピンクで働いていた日本人女性が、自らの経験を綴ったエッセイ「ロンドン骨董街の人びと」の中で紹介されていた話です。
以下に該当箇所を引用します。ロンドンの名門ホテル、グロヴナー・ハウス・ホテルで毎年六月に開催されるグロヴナー・ハウス・アンティックス・フェアという世界で最も権威ある古美術フェアの場で、実際に起こった話とのことです。

 落ちる、落ちる、・・・・・・落ちた!
 悲鳴は、スタンド・ワンのスピンクからだった。目玉商品の一つとして陳列されていた五万五千ポンド(1,260万円)の唐三彩の馬の像が台の上から転落し、首と足を“骨折”したのだ。犯人はどうやら、その側に呆然と立ちつくしている婦人らしかった。顔を真っ赤にして、どうしてこうなってしまったのかもわからない様子だ。
 「ポーター、ご婦人に紅茶を」
 ロジャー・ケヴァーン(スピンク東洋美術部の責任者で著者の上司−筆者補注)の声がした。すみやかにポーターに椅子を勧めさせ、アールグレイ・ティーを持って来させた。
 内心では大損害に泣きたくなったはずだが、彼は英国紳士的な「痩せ我慢」を貫いたのである。つまりそれは、いかなる時にもうろたえてはならぬ、いかなる時にも弱者を庇うべし−という英国紳士のマナーである。乳母やパブリック・スクールの師の教えが、あるいは母の声が、彼の耳に咄嗟に蘇ったのだろうか。

(六嶋由岐子「ロンドン骨董街の人びと」新潮文庫、pp.231-232)

古き良き英国紳士の精神の形を示す美談なのでしょう。なかなか格好いいと思いませんか。


2005年07月11日(月) 第100週 2005.7.4-11  Live8雑感、同時多発テロ発生、えっ?

ロンドンに来てから100週目に当たる先週は、色々なことがありました。テロ攻撃に関しては、家族・知人を含めて幸い難を逃れました。

(Live8当日のロンドン)
2日(土曜)、ロンドンのハイド・パークでLive8が開催されました。当日はこの影響で午後三時から九時までハイド・パーク周辺の道路が封鎖され、加えて同じ日にロンドンのピカディリー周辺でゲイの大規模なパレードがあり、こちらの影響で午前八時から午後二時までピカディリーなどの道路が封鎖されるという事態になっていました。
この日、仕事の関係で車を使ってオフィスに来る必要があったため、早朝に家を出て午後に帰宅したのですが、ハイド・パーク周辺には延々と人の波が続いていました。中心部の道路はどこも大渋滞しており、帰りのカー・ラジオで流れていたロンドン市街の交通情報が、”The main streets are chaos”と言っていたのが印象的でした。

(Live8雑感)
当初あまり見るつもりがなかったのですが、夕方に始まったマドンナの演奏から終了まで、Live8のテレビ中継を見てしまいました。印象に残ったのは、マドンナの貫禄たっぷりのパフォーマンスとトリ近くに登場した超ベテラン二組The WhoとPink Floyd(今回、最盛期のメンバーが集結)の演奏でした。
とくに、若い時分にLPからダビングしたテープを擦り切れるほど聴いていたPink Floydの演奏には、個人的に深い感銘を受けました。選曲もオールド・ファンにとって十分に満足のいくものだったと思います。
バンドの性質からして、Pink Floydの楽曲は大規模コンサートのトリをとるようなものではないのでは?とも思ったのですが、テレビに映し出された聴衆は1970年前後の英国が生んだロックの古典的名曲と独特のPink Floydワールドを楽しんでいるように見えました。大トリのポール・マッカートニーによるビートルズ・ナンバーの演奏は個人的にはいかがなものかと思いましたが、それは趣味の問題として、この国には国民的な財産としてロック文化が継承されているのだなと思いました。

演奏を離れた感想として、ロック・ミュージックという全世界に通用する文化を持つ英国の凄さを思い知った気がします。全世界で展開される大規模ロック・コンサートを英国が組成して、その中心を担うことができるのは、英国が現代世界にあまねく普及している文化(ロック・ミュージック)を生みだし、普及させ、継承しているからなのでしょう。
経済とか外交によるパワーとは違うもので世界を一つに束ねることができる英国の奥深さや底力を実感しました。

(ダンブレイン)
翌3日(日曜)から、スコットランドのグレンイーグルズで開かれたG8サミット関連の仕事で出張に出ていました。3日にエディンバラで一泊した後、4日(月曜)、グレンイーグルズの隣町であるダンブレインのホテルに入りました。

少し空いた時間にダンブレインの町を散策してみました。中心部は30分で歩いて回れるような小さな町でしたが、中心に川が流れているきれいな町でした。
町のシンボルである教会の隣に、ダンブレイン・ミュージアムという博物館があります。商売とか町の宣伝ではなく、一途な郷土愛だけで運営されている感じの、ザ・町の博物館といった風情に好感が持てました。暇そうな館長(?)のおじいさんは、日本のことを含めていろんなことをよく知っている人で、珍しい日本人客をつかまえてのお喋りに熱中し始め、立ち話が30分ほど続きました。

(ロンドン・オリンピック決定、えっ?)
6日(水曜)は、G8サミット開幕の日でした。正午を回ると、各国首脳を乗せた大型ヘリコプターが轟音とともに続々とグレンイーグルズの町に舞い降りてきました。

同日のお昼頃、2012年のオリンピック開催地がロンドンに決まったとのニュースが伝わってきました。ロンドナーを含めて誰もが結局パリに落ち着くだろうと考えていたので、この決定に驚かなかった人は少ないと思われます。ロンドンに住んでいる者としては、交通などのインフラがこんなにひどい都市でオリンピック開催が決定されるわけないと考えるのが自然です。

サミット開幕の日に朗報が舞い込み、議長のブレアとしては鼻高々だったことでしょう。今回のサミット期間中、グレンイーグルズはずっと好天に恵まれたのですが、そのことも含めて、つくづくブレア首相というのは運に恵まれた人だと思いました。
一方で可哀想だったのが、オリンピック開催候補都市の本命だったフランス(パリ)のシラク大統領です。先般の国民投票でのEU憲法否決のことなどに鑑みると、シラク大統領の運気が下がり目だということが好対照に印象づけられました。

(同時多発テロ発生、えっ?)
7日(木曜)朝、「ロンドン某駅で爆発(explosion)があり、地下鉄が止まっている」という知らせが、ロンドンからの携帯電話を受けた英国人スタッフからもたらされました。ただし、この時点でBBCテレビではまだニュースが流れておらず、しばらく事故なのか事件なのかも確認することはできませんでした(当初は電力系統の大きなトラブルと伝えられていた)。断片的な伝聞情報が入ってくるたびに、事態の深刻度合いが増すものの、確たることが分からずじりじりとして過ごしていると、やがてBBCで第一報が報じられて、単なる事故を超えた異常事態であることが分かりました。
午後になると、ブレアが記者会見し、「同時多発テロ」だったとの見方が本人の口から発表され、急遽ブレアが一時的にロンドンに戻るとの決断がくだされました。これにより一部のサミット行事が変更され、同日夕方には日英首脳会談の中止が決まりました。

その後、テロの関連では様々な情報が伝えられており、犯人グループを含めて事件の全貌がはっきりしてきました。
本件で一つ私が感じているのは、ブレアの対応が911後のブッシュとは全く違っているということです。
テロ攻撃の規模や国の立場が異なるため、911と比較するのは必ずしも適切ではないかもしれませんが、911直後のブッシュが「米国vsテロ組織(一部のイスラム国家)」という構図のもとに「目には目を」という強硬なメッセージを打ち出して、国民に対して愛国心と敵愾心を煽ったのに対し、ブレアが国際協調路線でテロ組織包囲網を形成しようとするスタンスを取っているのは、ブレアの賢明さを示していると思います。

ブレアもロンドン市長のリビングストンも、テロ攻撃直後のコメントで「今回、テロリストが標的にしたロンドンの住人の中には、クリスチャンもいればムスリムもおり、純粋な英国人もおればアジア系、アフリカ系、その他諸々の民族の人たちがいる」ことを強調していたのが印象的でした。
実際、今回の標的となったエッジウェア・ロードという街はイスラム系の住民が多く住む街でした。なぜこの街が狙われたのかは不可解です(この点など今回のテロ攻撃には解せない点がいくつかあり、組織の中で錬られた計画という印象からかけ離れています)。

また、テロ翌日の金曜日に発売されたエコノミスト誌が、いち早く巻頭のLeadersでテロ攻撃に関して主張していた内容も、冷静でバランスの取れた意見だと思いました。
この辺り、この国の芯の部分にある良識みたいなものに感心させられるところです。

テロ攻撃から数日経ったロンドンは、依然として部分的に地下鉄がストップしているものの、街の様子は普段とまったく変わりなく、ユニオンジャックがやたらと掲げられるとかそういういきりたった雰囲気は微塵も感じられません。


2005年07月04日(月) 第98-99週 2005.6.20-7.4 ブレナム・パレス再訪、コッツウォルズ再訪

先々週のロンドンは晴天が続き、連日、最高気温が30度前後で推移しました。ごく一部のデパートやレストランを除いて、クーラーというものが存在しない世界で30度というのは、なかなかつらいことです。

(コッツウォルズ方面への小旅行)
そんな暑いなか、ロンドンを訪れた親類と一緒にコッツウォルズ方面への二泊の小旅行に出かけました。一定の制約のなかで英国の魅力を感じてもらうべく計画した旅程は、ざっと以下の通りでした。

初日、ロンドンから高速道路M40にのって北西の方角を目指し、オックスフォードを抜けて隣町ウッドストックにあるブレナム・パレスに立ち寄り、屋敷の内外を一回り見学した後、そのまま国道でコッツウォルズ地方へ進入。小川に沿った文字通り素朴な村アッパー&ローアー・スローターズを散策した後、「リトル・ベニス」と呼ばれる川辺の町ヴォートン・オン・ザ・ウォーターのB&Bに投宿。

二日目、ヴォートン・オン・ザ・ウォーターでのショッピング等の後、「コッツウォルズでもっとも美しい村」と言われるバイブリーまで車を走らせ、ハニーカラーの家並みが続くアーリントン・ロー近辺を歩き、トラウト・ファーム近くのパブでランチ休憩。その後、コッツウォルズ南東に位置するテトベリー、ケルムスコットという小さな村を回ってからコッツウォルズ地方を離れて高速道路M4にのり、テムズ河沿いの村ソニングの由緒正しきB&B ”The Bull Inn”(5月2日、参照)に投宿。

翌朝は、再びM4でウィンザー城に向かい、観光・ショッピングの後、メイデンヘッド・ロードをまっすぐに北上してマーローのこれまた由緒正しきホテル、コンプリート・アングラーでのアフタヌーン・ティの後、ロンドンへの帰路につくというコースです。

(ブレナム・パレス再訪)
ブレナム・パレスは二回目の訪問でしたが、今回、非常にお得な発見をすることができました(一度目の訪問は、3月7日、参照)。
ブレナム・パレスでは、追加料金を払うことなく、ガイドといっしょに屋敷の中を回れるツアーがあります。前回の訪問時は、屋敷の歴史やら美術品の来歴などのややこしい説明を英語で受けてもよく理解できなくて退屈だろうと思い、ツアーには参加しませんでした。ところが、今回、聞かれるままに入り口で日本人である旨を告げると、日本語が達者な女性のベテラン・ガイドによるツアーに案内してくれました。その結果、たまたま同時に入館したもう一組の日本人観光客といっしょに、丁寧な説明付きでくまなく館内を巡ることができました。
ガイドの方は、日本語も説明も非常に上手で(お人柄も素晴らしい方でした)、今回は屋敷の魅力をたっぷりと堪能することができました。

(コッツウォルズ再訪)
コッツウォルズも今回が二度目の訪問でした(一度目の訪問は、04年5月10日、参照)。
しばしば言われる「意気込んでやってきたけど単なる田舎だった」というコッツウォルズ評は、(田舎が好きでない方にとっては)まさにその通りなのですが、ヴォートン・オン・ザ・ウォーター辺りはかなり商業化が進んでいて賑やかになっています。広範囲な観光地コッツウォルズの中でも定番の町と言えましょう。我々も、この町で夥しい数の日本人観光客に遭遇しました。
ただそれでも、日本の軽井沢や(由布院もかな?)のように観光化が一定の矩を超えてしまうことがないところは、英国らしいといえるかもしれません。カントリーサイドとしての魅力はまだまだ失われていません。日英でなぜそのような違いが出るのかは、私にとって深いナゾです。

今回、個人的に楽しみにしていた訪問地は、観光化からまだまだ遠い距離にあるテトベリーとその隣村のケルムスコットでした。このような村々は、都会で暮らしている者にとって非日常を感じさせてくれるところにその魅力があるのだろうと思います。
テトベリーには、テムズの源流を示す場所があると聞いていたのですが、残念ながら時間の都合もあって、今回はそれを発見することができませんでした。
ケルムスコットは、20世紀初頭の有名なデザイナーであり、社会思想家としても名を残しているウィリアム・モリスが後半生を過ごしたマナー・ハウスがあります。モリス自体には、さして興味がなかったのですが、モリスがその自然環境を偏愛したというケルムスコットという村をみてみたいと思っていました。
細い田舎道を延々と進んだところに突然現れるモリスのマナー・ハウスは、運悪く休館日に当たり外観しか見ることができませんでしたが、ぽつぽつと農家は点在しているものの人をほとんど見かけることができず、ところどころで馬や牛が草を食べているという風景が続くケルムスコットという村は、人の生活感が希薄で、確かにここには非日常があるなと感じました。

(The Bull再訪)
前回、テムズ河ウォークの終着点としたパブ兼B&BのThe Bull Innに今回は宿泊してみました。パブ併設のB&Bにしては部屋代が高めですが、値段相応の素晴らしいB&Bでした。
前回も感じたとおり、ここの食事はなかなか美味しくて、かつ接客態度が英国にしては上々です。
英国の利用者によるB&Bレヴュー・サイトで、The Bullを賞賛するコメントともに酷評するコメントが掲載されていましたが、私としては賞賛するコメントの方に一票を投じたいと思いました。


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