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2006年06月30日(金)
上村愛子の「10秒」

「週刊アスキー・2006.6/27号」(アスキー)の「決断のとき〜トップアスリートが語る人生の転機」第5回・上村愛子(前編)より。インタビュー・文は、吉井妙子さん。

【今年2月に行われたトリノ五輪で、上村は表彰台が最も有力視されていた。しかも、モーグルは大会の序盤に行われたため、上村のメダル獲得は日本人選手たちの弾みになると、誰もが熱い視線を送った。上村も、そんな日本中の期待を十分に理解していた。大会直前に語っていたものだ。
「大丈夫です。色さえ問わなかったら、メダルは獲りますよ」
 長野、ソルトレイク五輪前には、「頑張ります」としか言わなかった上村が、ここまで断言するのは確固たる自信の表れでもあった。
 滑り終えた時点で、メダリスト用に用意された椅子の2番目に座った。笑顔はない。次の選手がフィニッシュすると3番目の椅子に移動した。そして、遂に椅子から立ち上がる。メダルがこぼれた。落胆の溜息が日本中のお茶の間に漏れる。当の本人にとっては、それ以上に受け入れ難い現実だった。やるせなさと息苦しさが身体を襲う。この4年間、一分一秒を惜しんで練習を重ねてきたことが、ほんの30秒で無に帰してしまったのだ。結局5位で、上村のトリノ五輪は幕を閉じた。
 歓喜を爆発させるメダリストの横を通り抜け、上村は大勢の報道陣が待ち受けるミックスゾーンに近づいてきた。絶対に獲りたい、いや、獲るべきものとして捉えていたメダルに背を向けられ、まだ現状を把握できないような、それでいて、とてつもない奈落の底に突き落とされたような絶望感と悲壮感を漂わせながら、背中をポンと押せば、途端に崩れ落ちてしまいそうな頼り気ない表情をしながら、報道陣の前で足を止めた。声をかけると心の表面張力が破れ、一気に涙が溢れてきそうな危うい場面だった。重い空気が流れる。
 上村は、第一声を待ち構えた報道陣に「ちょっとすみません」とクルッと背中を向けた。1秒、2秒、5秒……。10秒経って真正面を見据えた顔には、なんと笑顔が浮かんでいた。分水嶺まで高まった感情をほんの10秒間でコントロールしてしまった上村に、精神力の強さを見た思いだった。
 あれから4ヶ月。上村が振り返って言う。
「あの場面は、自分でも勝負だなと思ったんです。感情に負けて泣いてしまったら、スキーの話も五輪を戦い終えた気持ちも伝えられなくなってしまう。日本中が注目してくれているはずだから、ちゃんと喋らなければいけないと思った。ただ、気持ち的には”やべぇ、これは泣いてしまうぞ”というのがあったので、気持ちを切り替えるために”ちょっと待っててね”と思って背中を向けちゃった」
 自分の感情を必死にコントロールしつつ、場の空気も読んでいた。
「報道陣の人たちも、なんか緊張した感じで私のことを見ているのがわかった。瞬間に、場を和やかにしなくてはと思い、振り向いた途端『あ、どうも、やっちゃいました』と、ちょっとおちゃらけてみたんです。そうしたら記者さんたちが少し笑ってくれて、そこから普通に話せるようになった」
 感情が崩れ落ちそうな瀬戸際で、巧みに自己コントロールし、しかも相手の思いを瞬時に察知してその場の雰囲気をより良い方向に導き出す。26歳の上村の人間的度量が顔を覗かせた一瞬だった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この「上村選手の10秒」のエピソードを読んで、僕はもう、ひたすら自分のことが恥ずかしくなってしまいました。僕はけっこう自分の感情を抑えきれないことがあって、ちょっとしたことでイライラしたり、他人に冷たくあたったりしてしまうことがあるものですから。そんなのは、このときの上村選手の状況に比べたら、本当に些細なことだったはずなのに。
 4年間、いや、長野、ソルトレイクのことも考えれば、8年間以上かけて目指した「メダルを獲る」という目標に、あと一歩のところで届かなかった上村選手。彼女は、いままでの競技生活やオリンピックの経験から「メダルを取れないということ」の意味は、よく知っていたはずです。どんなに素晴らしい演技をしても、「メダリスト」と「入賞止まり」では、世間の印象は、ガラッと変わってしまうのですし。
 もしかしたら、彼女が報道陣の前で泣いたら、それはそれで視聴者は満足したのかもしれません。ああ、泣くくらい悔しかったのだな、って。
 でも、彼女はそういう道を選ばずに、「感情を抑えて、自分が伝えるべきことをちゃんと言葉にする」道を選んだのです。僕には残念ながら、このシーンの記憶がないのですが、テレビの前では「負けたくせにおちゃらけやがって!」と憤っている人もいたかもしれません。この「背中を向けた10秒間」の彼女の心のうちを想像するだけで、僕などはもう、涙が出そうになってしまうのですけど。

 世の中には、いろんな「勝負」があって、そこには「成功」あるいは「失敗」という結果がついてきます。もちろん、すべて成功できれば言うことないのですが、現実は、そんなに甘いものじゃない。
 そして、「うまくいかなかったとき」にこそ、「もうひとつの闘い」がはじまるのです。
 そういうときに、他人にやつ当たりをしたり、キレて自分を見失ってしまったりすれば、その「うまくいかなかったこと」に加えて、「アイツは、うまくいかないときは、他人のせいにする人間だ」というふうに見られてしまうし、そういう負のイメージというのは、いくらその後成功を積み重ねても、なかなか払拭できるものではありません。逆に言えば、「失敗したとき」にこそ、その人の「真価」が問われているのです。

 僕は第三者として、こんなことを偉そうに書いていますが、このときの上村選手の落胆は簡単に言葉にできるようなものではないし、いくら抑えようとしても、抑えきれなくても仕方がない状況だったと思います。
 それでも、上村選手は、自分に勝ってみせたのです。
 
 試合や勝負に負けたからといって、自分にまで負けるのは、あまりにも情けない。そして、負けてしまったときにこそ、周囲の人は、「真の姿」を見定めようとしています。
 たぶん、僕たちが「負けた……」と落ち込んでいるときに、「本当の勝負」がはじまっているのです。
 



2006年06月29日(木)
消えてゆく「図書館」

「ぢぞうはみんな知っている」(群ようこ著・新潮文庫)より。

(ちゃんと本を返却していたにもかかわらず「督促状」が図書館から送られてきて、その「督促状」は、パソコン上の情報だけで処理・発行され、書架での実際の本の有無は確認されていなかったことがわかった、という顛末を書かれた文章の一部です)

【家までの帰り道、昨年、その図書館であったことを思い出した。利用する人々に、「はい、また借りてくださいね」と職員のおじさんが大声でいっていた。
(うるさいなあ。どうしてそんなこと言うんだろう。放っておいてくれ)
 といいたくなったのだが、その話を編集者にしたら、
「図書館も大変みたいですよ」
 と教えてくれた。利用者が少ない図書館は予算が削られるので、とにかく回転をよくしなければならないらしい。だからベストセラーをどーんとまとめ買いして貸し出す。そのかわりに入手不可能な古い本はどんどん処分されていく。
「でもそれって、図書館じゃないじゃない」
 図書館までも、利害関係が発生するようになってしまったのかと失望してしまった。
 図書館というのは私にとっては、中に入ると恐ろしいくらいに静かな場所だった。歩くのにもおそるおそる足を前に出した。咳もくしゃみもしにくかった。小学校の図書館ですらそうだった。社会人になっても図書館に行くとなぜだか胸がわくわくした。本を借りるという目的もあるが、図書館という場所に身を置く楽しみがあった。新刊本書店にも古書店にもない本を見つけ、隅から隅まで見ていくと本当にきりがなかった。自分の手元に本がなくても、図書館には保存されているから安心と思っていたのが、そうではなくなってきた。おまけに静かどころか職員が、
「また借りてください」
 と大声でいう。中央図書館の保存庫にあるはずだからと、取り寄せの手続きをとったら、すでに処分されてなかったということも一度や二度ではなかった。場所ふさぎでもあるし、自分の手持ちの本を最小限にするために、図書館を最大限に利用しようと考えていたが、それも改めざるをえなくなった。
「だいたい物書きが物を減らしたいがために、図書館を利用しようという魂胆が間違いのもとだったのだ。借りずにちゃんと買うべきだったのだ」
 と反省した。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これを読みながら、「そういえば、僕も図書館にずっと行っていないなあ」なんてことを思いました。平日はなかなか開館時間内に仕事が終わるということはないですし、休日にわざわざ行くというのもなんだか勿体ないような気がするし。そもそも、借りるのは良いのだけれど、「返しに行く」というのは非常に面倒ではあるんですよね。そして、返しに行ったら、「返すだけというのは、なんだか勿体ない」というような気分になってまた新しい本を借りてしまいたくなりますし。所有欲もあって、「わざわざ借りて返しに行くくらいなら、買ったほうが手っ取り早いし……」というような結論に達してしまうのです。レンタルDVDくらい値段が高かったり、店が遅くまで開いていてくれれば、「レンタルにしよう」ということになるのですが。

 僕も昔は図書館大好き少年でしたから、ここで群さんが嘆いておられる気持ちはよくわかります。息が詰まるくらいの静寂に包まれていて、本屋には売っていない、あるいは高くて買えないような本がたくさん並んでいてこそ、「図書館らしい」と僕も思います。どこにでも売られているようなベストセラーばかりが図書館の棚を占拠するようになって、図書館にしか残っていないような貴重な本が捨てられていくというのは、とても悲しい話です。本好きの人間は、「ベストセラーは本屋で買うから、そういう本こそ、図書館に残しておいてほしいのに……」と考える人が多いのではないでしょうか。
 でも、その一方で、「公共の施設としての図書館」としては、その「社会的貢献度」を目に見える形で示すためには、「借りた人の数」とか「本の回転率」という「数字」で結果を出していくしかないのですよね。ほんと、世知辛い世の中だなあ。
 図書館員だって、別に好きで『Deep Love』とかを大量に入れている人ばかりではないはずです。「また借りてくださいね」なんて、言いたくて言っているわけでもないでしょう。にもかかわらず、そういうのが「サービス」だと思われがちなのが、今の時代なんですよね。「図書館員は愛想がない、サービスが悪い」なんて抗議した人が、いたのかもしれません。本来は、そんなお愛想よりも「静かに本が読める環境」こそが、図書館に必要なサービスだと思うのですけど。
 しかし、そんなふうに考えると、「ただ本を整理して、貸し出しの管理をするだけ」のようなイメージの図書館のスタッフで、実際はけっこう大変な仕事ですよね。群さんみたいな「読書フリーク」から、「なんで『恋バナ』いつも貸し出し中なの!」っていうような「ベストセラー派」まで、幅広く対応していかなければならないのですから。



2006年06月28日(水)
楽屋への「残念な差し入れ」あれこれ

「週刊SPA!2006.6/20号」(扶桑社)の「松尾スズキ43才、いい大人の絵日記〜寝言サイズの断末魔・第250回」より。

【舞台をやっていると差し入れをよくもらうし、もちろん差し入れは、「オールよかれ」であるのを前提として言っているのだが、正直残念なのが、楽日(最終日)にいただく生ものの差し入れである。芝居の楽日というものは役者もスタッフも後片付けに追われバタバタとしており、ものを食ったりする暇がない。ないし、全員帰りの荷物が多いうえ、飲みに行ってしまうことが多いので、楽屋の片隅で、その生ものは、次第に生乾きのものへと変貌し、生乾きの生ものというものは、多かれ少なかれすでに食べものではなくなってしまっているのである。なので我々は、静かにその生乾きの差し入れに敬礼し「よくがんばって乾いたね。もう、乾かなくてもいいからね」と、追悼の意を表明するしかないのである。
 感謝はしております。ただ、私は花の咲かない差し入れを、これ以上増やしたくないのです。
 あと、何度も書きますが、時折ファンのみなさまから送られてくる手作りの詩集。いらんです! 読めんです! 私は牡蠣の次に他人の詩が苦手なのです。はっきり言って他人の詩を読んでしまった感触は限りなくホラーなのである。あと、叶恭子さんは「もらえるプレゼントで一番嬉しいのは茶封筒であございます(土地の権利書などが入っているから)」と、著書でのたまってらっしゃるが、私のところに個人名で送られてくる茶封筒には、必ず履歴書が入っているのです。いきなり送り付けられる履歴書、および志望動機欄に書かれた「根拠のない自信や、いきごみ」もまたホラーなのです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 楽日というのは「舞台の最終日」ですから、おつかれさまの意味もこめて、かなり多くの人が、とっておきの差し入れをすることが多いのではないのでしょうか。役者やスタッフも疲れきっているから、この美味しいものでも食べて疲れを癒してください、なんて気を遣っている送り主の意図に反して、舞台というのは、「上演したら終わり」ではないんですよね。確かに、楽日が終わったら早々に後片付けをしなければならないし(会場のホールを翌日まで借りておけるような金銭的、時間的余裕がある公演はほとんどないようなので)、終わったら、楽屋でひっそりと差し入れを食べるよりは、外でパーッと打ち上げになるのは当然ですよね。でも、こういうのって、言われてみないと、「最終日だから、とっておきの差し入れをしよう!」なんて、漠然と思ってしまいがちです。
 それにしても、「手作りの詩集」なんていうのを、いくらファンとはいえ、「初対面の人」から送られるというのは、確かに気持ち悪そうです。たぶん送ってくる人も、松尾さんのことが大好きで、「ぜひ松尾さんに読んでもらいたい!」という熱意を持って送ってくるのでしょうけど、だからといってそれを読まされるほうとしてはたまりません。素人が書いた「詩」なんて、読んでいるほうが恥ずかしくなってしまいがちなものですが、とはいえ、受け取ったらすぐにゴミ箱にシュートしてしまうというのも、相手に悪気がないだけに、かなり後ろめたい行為のような気がしますし。
 やっぱり、差し入れというのは、「自分があげたいもの」よりも「貰う人の身になって」選ばなければいけませんよね。

 ちなみに、今回の公演中で楽屋を騒然とさせた差し入れナンバーワンは、「TENGAという会社から発売されているオナニーグッズ5セット」だったそうです。いや、差し入れするほうもされるほうも、なかなか一筋縄ではいかないみたいです。



2006年06月27日(火)
「結末ナシ」の小説は許されるのか?

『ダ・ヴィンチ』2006年7月号(メディアファクトリー)の京極夏彦さんと高橋葉介さんの対談記事「『幽』怪談文学賞を目指す方へ〜怪談之怪は、こんな怪談を待っている!」より。

【京極夏彦:僕の長編小説なんかは、ネタ的にはどれも4コマですからね。起承転結というか、まず構造ありきではあるわけで、だから僕は怪談が書けないのか(笑)。ただ、「この人一体何を考えて書いてるんだろう。書いた奴がいちばん怖いよ」という作品も、長編怪談の場合はアリなのかな、と思いますけど。

高橋葉介:ああ、そういうのも読みたいですね(笑)。

京極:投稿作品を読んでると、たまにあるんですよ。これ書いた人には会いたくないなあって作品が。

高橋:しかし短編の場合は『猿の手』のように「よくできていること」が重要です。

京極:そうですねえ。一方で、長編の場合は破綻が魅力になることもありますね。以前、筒井康隆先生とお話させていただいていて、「読んでる途中がおもしろいならそれでOKじゃないかと思う」と申し上げたら、筒井先生は「結末を思いつかないなら結末なんかナシでいいんですよ」とおっしゃられた。『この小説がおもしろいのはここまで、後は責任持てないから終わり』というのもアリだなと(笑)。全くその通りなんですよね。もちろんミステリーでそれをやると石を投げられるんだけど、怪談なら尻切れトンボでも成立するかも。

高橋:小泉八雲の作品の中には尻切れトンボもありますね。怪談じゃないけど『新世紀エヴァンゲリオン』も(笑)。そうそう、水木しげる先生の作品もそうだった。

京極:うちの師匠!! いや、水木大先生には理にかなった結末なんか必要ありません(笑)。そういえば、かつて怪談ものを売りにしていたひばり書房や曙出版あたりの作品群も、ストーリーよるもその不整合さがコワイみたいなものがたくさんありました。ああいうノリは、いまはもうないですが、案外リサイクルできるかもしれない。大蔵映画のような一種見せ物小屋的な空気ですよね。

高橋:すごく納得できる(笑)。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「怪異」をテーマとする文芸作品を対象とした「第1回『幽』怪談文学賞」の審査員のお二人による対談です。「長編の場合は、破綻が魅力になる」という京極さんの言葉に、最初は、「えっ?破綻している話を長々と読まされたら、腹を立てたりする人も多いんじゃないかなあ」と僕は思ったのですけど、確かに、そう言われてみれば「短編」のほうが、ちゃんとまとまっていないと居心地が悪いものかもしれませんね。短編の「傑作」って、読み終えたあと「巧い!」って言いたくなるような作品が多いですし。
 ここで語られている、筒井康隆さんとか水木しげるさんの作品の「破綻の魅力」というのは、僕にもわかるような気がします。「完結しているけれどもつまらない作品」よりは、「尻切れトンボでも読んでいる最中は面白い作品」のほうがいいですよね。正直言うと、「ちゃんと結末があって面白い作品」のほうが、僕のとってはベストではあるのですが。
 そして、その「結末ナシ」が許されるのかも小説のジャンルによるみたいで、確かに「ミステリーでそれをやると石を投げられる」可能性は高いと思います。肝心の犯人が明かされる直前で「結末を思いつかないからおしまい!」なんてやられては、「もうこの作者が書いたものは二度と読まん!」なんて憤りつつ、本を放り投げてしまいそう。そこまでのストーリーが面白ければ、なおさらのことです。
 「答え」が書かれていないクイズ問題集みたいなものですからねえ。

 逆に、怪談のようなジャンルだと、かえって読者に「この先を想像できる余地」を残しておいたほうが、かえって余韻が増すような気がします。ただ、「新世紀エヴァンゲリオン」の「尻切れトンボ」が、どこまで狙ったものかは、なんともいえないところですけど……
 まあ、そういう「尻切れトンボ」が許されるためには、そこまでのプロセスがよほど面白くないとダメでしょうから、それを成立させるというのは、「普通に完結する物語」よりも、はるかに難しいことなのかもしれませんね。



2006年06月26日(月)
寺山修司の「伝説の舞台」

「名言セラピー」(ひすいこたろう著・ディスカヴァー)より。

(「伝説の舞台」という項から)

【舞台を観に行きました。
しかし、5分経ってもはじまらない。
15分経ってもはじまらない。
「どうなってるの?」
開演になっても役者は誰もステージに上がりません。
会場がざわつきはじめました。
「なにしてるんだっ!」
文句を言いはじめる人も出てきました。

この雰囲気やばいよ。

僕の後ろの席にいた人たちは、こんな話をしはじめました。
「前、雑誌で、この劇団の主宰者のインタビューを読んだんだけど、ある女性に恨まれているらしくて、ときどき金縛り?みたいなので突然動けなくなるんだって。
ひょっとしていま、金縛りにとかになって出てこれないんじゃない?」
「んなわけねえだろ」
僕は心の中で思いました。
そのときです。会場の照明が消えました。
会場が真っ暗闇に。
すると、僕の隣の女性が
「キャー!!!」という大きな叫び声を上げたのです。
「キャー、チカン!!!」
「おい、俺じゃねえぞ」
しかし、後ろの人が「お前か!」と僕の首をつかんできたのです。
「俺じゃねえって」
大変なことになりました。会場騒然。
実は、すでに舞台は、はじまっていたのです。
観客席に役者が最初から混じっていて、
「チカン」と叫んだのも役者。
真っ先にさわぎだした観客も役者。
なんではじまらないのか、隣の人に勝手な噂を流していた観客も実は役者。

現実と舞台が混じり合う。

なにが演技でなにが現実なのか、まったくわからない世界へ誘い込む。

これが伝説になった寺山修司の舞台「観客席」です。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この『観客席』の初演は1978年ですから、今からもう、30年近く前の話になるのですね。寺山さんが、演劇実験室「天井桟敷」を結成したのは、1967年だそうですから、寺山さんが31歳のとき。確かに、この『観客席』のアイディアは「凄い!」としか言いようがありません。ミュージカル「キャッツ」などでは、猫(役の役者さんたち)が観客席に入りこんでくるという演出があるのですが、この『観客席』の場合は、ほんとうに「巻きこまれてしまう」という感じですし。
 しかしながら、このアイディアが「斬新」であり、演劇の歴史上、非常に大きな作品であるというのはよくわかるのですが、僕がもし1人の観客として、この「現場」にいたらと思うと、正直、「こんな怖い目に遭わされるのはツライなあ……」という気がします。やっぱり「当事者」にとっては、「新しい!」というより「なんなんだこれは…」という困惑のほうが大きいのではないかと。後世の人からすれば、「素晴らしいアイディア」なのかもしれませんが、「前衛」って、その場にいる人にとっては、災害みたいなものなのかもしれませんね。
 ちなみに、寺山さんの「作品」には、【劇場の小空間だけでは満足せず、出会いの場を市街へと求め杉並一帯で行われた三十時間市街劇「ノック」】なんていうのもあり、当時は社会的にさまざまな論議を巻き起こしたそうです。そりゃあ、いきなり自分の近所でなんだかわけのわからないものを「上演」されたら、普通の人は驚愕してしまうはずです。少なくとも劇場で「寺山修司の劇団」を観に来た人は、それなりの「覚悟」ができていたのだとしても、杉並の一般市民にとっては、まさに「意味不明」だったはず。
 今、これを読んでみると、寺山さんの発想のすばらしさに感動しますし、これを演じる役者さんたちにとっても「熱い時代」だったのだろうなあ、とは感じるんですけど、僕は、この作品に「参加」するのは辞退したいところです。



2006年06月24日(土)
「英会話スクール王国」の恐怖!

「英語ができない私をせめないで!」(小栗左多里著・だいわ文庫)より。

(「英会話スクール初体験!」という項の一部です)

【さて衝撃の学校を、もう1つ。ここは一軒の洋館まるごとが教室として使われている優雅な学校。
 しかし!経営者でもある、英国人の校長先生が厳しいことでも有名なのだ。しかも、この館に一歩でも入ったらすべて英語で話さなければならないという、初心者としては、かーなーりー(フラットめの発音で)緊張せざるを得ない環境。
 私もドキドキしていた。
 というか仕事とはいえ、行くのはイヤだった。だって私、何が嫌いって、「怒鳴る男の人」くらい嫌いなもんはないんである。
 しかし行きましたよ。そして、帰る頃には、「やっぱ無理!」と思う私がおりました。でもそれは、「スパルタ方式」だけが理由ではなかったのです。
 その授業は吹き抜けになっているリビングで行われ、パーティを想定して、英語とともに立ち居振る舞いも身につけられる、というものでした。生徒は私以外に5〜6名、校長と補助の先生2名がついて、パーティのときと同じように全員立って授業は行われます。
 パーティ……。
 恥ずかしがり屋な日本人にとっては苦手なイベント。
 堂々としていたいところですが、英語も不得意だとくれば、控えめにしておくのが無難ではありませんか。「余計なことはしゃべらない」というのは日本人にとっては美徳ですしね。「そんでオレ、こう斬ったらあいつ、こうきやがってよぉー」なんてベラベラしゃべる武士、カッコよくないですもんね。
 でもやっぱり、英語圏の人には許せないらしいのです、しゃべらない日本人。厳しい目で生徒を見渡しながら、校長は言います。
「パーティのとき、日本人は壁の前にズラ〜っと並んでしまっている。それは本当にいけないことなんだよ!」
 実際は英語なので細かいニュアンスはわかりませんが、とにかく怒っているということはビシビシと伝わってくる。

 先生として怒るのもわかるが、問題は続いて言った言葉。
「それは、”ゴキブリ・アイデンディティ”だ。”ゴキブリ・アイデンティティ”は捨てなければいけない」
 んん?今「ゴキブリ」って言った? 言ったよね。それはちょっとひどいんじゃない?
 確かこの人、ちょっと前までは同じことを「忍者アイデンティティ」と言っていたはず。
忍者」は許そう。バカにしている感じはそうないから。いや、あるのかな。
 わかんないけど、とにかく「ゴキブリ」は明らかにダメ。だって私、「ゴキブリ」くらい嫌いなもんはないんである。そして多くの人もそうではないだろうか。もし校長が日本語を習って、日本語の先生に、
「あなたの身ぶり手ぶりは大きすぎて、死にかけのゴキブリみたいよ。そのゴキブリ・アイデンティティ、捨てなさい」
 と言われたら、どう感じるんだろう。やっぱり怒るでしょう。人にされてイヤなことは人にもしちゃダメって、お母さんに教わったはずだよ万国共通! と私は思ったのだが、この学校、恐ろしいことに、
「校長が日本文化などに対して批判しても、言い返してはならない」
 という規律があるのだ。なんでも、
「語学を学ぶために授業であって、文化衝突の場ではないから」
 だそうである。
 じゃ、校長を止めろ。と、私なら思うけど、ここは校長の王国。彼が王様だから、何でも許されるし、それがイヤなら「帰ってくれ」と言われるだけなのだ。
 そもそも入学するときに、こういった禁止事項などが書かれた分厚い入学願書にサインをしなければならない。だから入ると決めたのなら、彼の攻撃的なジョークを素敵と思ってついていくしかないのだ。まあそういう人しか、入ってないのでしょうね。
 最初から「おや?」と思っていた私だったが、校長の日本批判はその後も随所に現れた(電車での酔っぱらいがみっともない、汚いなど。私もそうは思うけど)。
 ここで討論になるのなら、主張する術が身につくとかまだ実りはあるが、規律のもとでは、ただ苦笑しつつ彼の怒りに耳を傾けるだけだ。感情的な人の話も聴き取れるようにはなるかもしれない、けれど。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕が「語学が苦手な理由」のひとつに、「別にしゃべりたくもないような人と、しゃべりたくもないようなことをしゃべるのが気まずくて辛い」というのがあるのですけど、この「恐怖の英会話スクール」の話を読んで、なんだか、よりいっそう「語学の勉強なんて、しなくても死ぬわけじゃないし……」という後ろ向きな気持ちがさらに増してきたのです。本当は、「できたほうが良いというか、英語ができないと、キャリアアップは難しい」のは間違いないのはわかっているのですが。
 もちろん、日本にある英会話スクールが、みんなこんな酷い状況にあるわけではないと思うのですけど。
 しかしながら、僕も外国人の先生に英語を習った経験が短期間ながらありますが、確かに、彼らの「西欧文化絶対主義」には、閉口させられることもありました。「歌舞伎」とか「寿司」というような「個々の(物質としての)日本文化」に対しては、それなりに敬意を払っている人も多いのですが、話が「日本人」となると、かなり辛らつな批判をする人もいたのです。このパーティの話にしてもそうなのですが、「本当にあんなパーティとかでにこやかに会話するのが『正しいこと』なのか?」「そんな機会が、一般的な日本人にとって、一生に何回あるのか?」と考えると、本当に、そこまでして「英語を信仰する」必要なんてあるのか?と言いたくもなってしまいます。そもそも、英会話の先生というのもピンキリで、「英語という文化を知ってもらうための情熱を持ち、日本人にも敬意を払ってくれる人」がいる一方で、「お前なんて、単に英語圏で生まれたっていうだけじゃねーか!」と言いたくなるような薄っぺらい人もいるんですよね。そして、ここに出てくる校長なんて、まさに後者の典型。
 にもかかわらず、こういう「校長が日本文化などに対して批判しても、言い返してはならない」なんていうような「英会話教室」が潰れないで存続しているほど、日本人は、「英語を教えてくれる人」に飢えていて、寛容なのです。この本のなかには、「日本人批判をする英会話教師に、にこやかに同調する日本人の生徒たち」の姿も描かれていて、なんだかそれは、本人にとっては「自分はわかっている人間」のつもりでも、客観的にみれば、「プライドのかけらもない、情けない人」にみえるような気がします。

 「嫌な目に遭うかもしれなくても、それでも積極的に他者とコミュニケーションしていこうという姿勢」がないと、言葉って身につかないものだと、理屈ではわかっているのですけど……
 



2006年06月23日(金)
『ルパン三世 カリオストロの城』の功罪

「BSアニメ夜話 Vol.01〜ルパン三世 カリオストロの城」(キネマ旬報社)より。

(名作アニメについて、思い入れの深い業界人やファンが語り合うというNHK−BSの人気番組の「ルパン三世 カリオストロの城」の回を書籍化したものです。この回の参加者は、岡田斗司夫さん(作家・評論家)、乾貴美子さん(タレント)、大地丙太郎さん(アニメ監督、演出家、撮影監督)、国生さゆりさん(女優)、唐沢俊一さん(作家・コラムニスト)です。

【岡田:あの、原作者のモンキー・パンチさんは、やっぱり、この『カリオストロの城』を、すごい評価しているんですけども、この後ですごくやりにくくなったと言っているんです。

国生:そうだと思う。

岡田:だってモンキー・パンチの原作版のルパンって、女を裏切るし後ろから撃つんですよ(笑)。

国生:そうそうそう。

大地:そうなの?

国生:そうなんです。

乾:いい人ですよね? この作品だと。

唐沢:悪人ですからね、もともとは。

岡田:この作品になったら、急に目がつぶらで、いい奴になってるんですよ。

唐沢:だからルパンではないんですよ、だから。

岡田:そう、はい。

唐沢:あの、はっきり言うとコナンなんですよね。

岡田:コナンです!

一同:あぁ〜。

岡田:『未来少年コナン』。

唐沢:この作品を語るときには、絶対にその前に、宮崎駿という人間は本当に無名っていうかね、よっぽどのアニメ好きでないと名前を覚えられていなかった、宮崎駿の名前は、あのコレ(『カリオストロの城』)でどんと出たんだけれども。実はその前に『未来少年コナン』という、NHKでやっていた作品があって、それで、そのファンたちがもっと宮崎駿を見たいと。あの、その後(『未来少年コナン』の後番組)で始まっちゃったのが『キャプテン・フューチャー』だったから。その宮崎駿の、あのコナンをもういっぺん観たいというような声に応えて、その『コナン』を作っちゃった。だから、そのルパンファンは、特に最初のファースト・ルパンの、特に前半の大隈正秋演出のルパンが好きだった人間とか、あるいはモンキー・パンチの原作が好きだったルパンファンにとっては、これは、もうルパンではない、と。女の子を抱かないルパン、最後にキスをおでこにするだけで帰るルパンは、これは原作を否定しているじゃないか、という声があったんです。

岡田:はいはい。

乾:大地さんは、このルパンをどう思います?

大地:いや、これがルパンなんだよ!

一同:(笑)。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕もはじめてこの『ルパン三世 カリオストロの城』をテレビで観たときには、「世の中にはこんなに面白いアニメがあるのか!」と感動したのをよく覚えています。ルパンのアクションの面白さ、ドラマチックで人情に溢れたストーリー、ロマンチックな風景、そして、クラリスの清楚さ……
 もう何度も観ていて、DVDまで持っているにもかかわらず、テレビで放映されるたびに、ついつい最後まで観てしまうのです。
 その一方で、原作者のモンキー・パンチさんにとっては、この、あまりに一般に浸透してしまった『カリオストロの城』のルパン三世のイメージは、ときに、重荷になってしまうこともあるようです。それはもう当然のことで、本来モンキー・パンチさんが描かれていた『ルパン三世』という作品は、もっと大人向けのピカレスク・ロマンの要素が強いものだったのです。
 しかしながら、この『カリオストロの城』でルパンを知ったという人があまりに多くなってしまったために、モンキー・パンチさんが「本来のルパン」を描こうとすると、「ルパンはそんな酷いことはしない!」なんていう批判を浴びるようになってしまったのだとか。
 確かに、そこまでキャラクターが愛され、知られているというのは漫画家冥利に尽きることなのかもしれませんが、それが、自分が本来描いていたものとちょっとズレてしまっているというのは、内心複雑なものもありそうですよね。「ひとつの作品」としては、もちろん評価しているのでしょうが、その作品の影響力のあまりの大きさを考えると、「俺が作ったキャラクターのはずなのに……」と不満だったりもするのではないかなあ。
 でも、『カリオストロの城』から入ってきた人たちにとっては、やっぱりこの傑作での優しいルパン三世のイメージから抜け出すというのは、非常に難しいことなのですよね。

 「いや、モンキー・パンチとかいうオッサンがごちゃごちゃ言ってるみたいだけど、これがルパンなんだよ!」と叫びたくなる気持ち、僕にもよくわかります。モンキー・パンチさんにとっては、理不尽極まりない話だろうけど。

 



2006年06月22日(木)
「朝型人間」として生きられないあなたへ

「日経エンタテインメント!2006.7月号」(日経BP社)の連載コラム「長谷川滋利のシゲキ的メジャーリーグ通信 Voi.62」(長谷川滋利著)より。

【現役中、シーズンオフになると、僕は毎日5時くらいに起きて、妻と息子が起きてくるまでの3時間くらいの間に、ゆっくり新聞や本を読んだりしていました。
 というのも、やっぱり朝が一番自分のために時間をとることができるからです。そこで自己啓発というか、自分自身のための時間に使うようにしていました。
 新聞の読み方も、犯罪とか事件じゃなくて、なるべくビジネスやスポーツの欄をじっくり読むようにします。朝は1日の始まりですから、できるだけ気分のよいニュースを読んで、いい気分でその日をすごせるようにしたほうがいいと思うんです。

(中略)

 日記を書くのも、朝がいいんじゃないでしょうか。普通は寝る前に、その日の出来事を書くのでしょうが、夜だと酒を飲むときもあれば、眠たいときもあるでしょう。寝る前に考え事をすると、「こうしよう、ああしよう」となって、なかなか寝つけなくなることもあると思います。

(中略)

 朝型の生活になったのは現役の最後の2年間くらいですけど、成績は別にしても、体の調子はずっとよかったですね。
 それができたのは、アメリカは日本よりもはるかに朝型の人が多い社会だということも影響しているでしょうね。ビジネスでは、早朝ミーティングも一般的です。
 その理由として、飲みに行く習慣がないことが大きいと思います。選手同士でも、遠征先のホテルのバーで飲むくらいです。そこも12時くらいには閉店になりますから、ナイターが終わってから1時間くらい飲んで、その後部屋に帰るという感じです。それから外の店に行く選手もいましたが、僕は行かないと決めてました。つきあいは大事ですけど、自分の中でここまでと線引きしていないと、きりがなくなります。
 選手は朝寝坊ですけど、裏方さんはビデオ係の人とかけっこう朝が早い人がいつので、そういう人たちと一緒に翌朝は朝食を食べていました。選手だと、今も活躍しているJ.J.プッツという投手が早起きで、よく一緒に朝食をとってました。
 早起きすると、練習の仕方にも余裕が生まれるというメリットもありました。例えば、僕は午前中にフィットネスジムでトレーニングを済ませてから、球場に行くことがけっこうありました。すると球場に行ったら、トレーニングは終わっているので、全体の練習のこととか、ミーティングのことだけに意識を集中すればいいわけです。
 要は、常に余裕をもって物事にのぞむということですが、それは時間のマネジメントでとても大事なことだと思います。】

〜〜〜〜〜〜〜

 典型的な「夜型人間」である僕としては、非常に身につまされる話です。確かに、早く起きて仕事を始めておくというのは、かなりのメリットがあるんですよね。僕も朝のうちにキチンと入院している患者さんたちの回診を済ませておいたときは、その日1日余裕を持って仕事ができるような気がしますから。突発的なアクシデントがあって、なかなかその場を離れられないようなときでも、「まあ、入院している人たちには、今日1回会っているし」と思えるというのは、かなりの心の余裕をもたらしてくれるのです。

 まあ、こんなに偉そうなことを書きながらも、実際は「前の日にお酒を飲んでいたり、ネットやゲームで夜更かしをする」ことが多いものですから、なんとなくやり残したことを抱えながら、ずっと外来で拘束されてしまう、というような状況もけっこうあるのです。ほんと、仕事を充実させることを考えたら、あまり夜更かしをせず、朝は早めに出勤して、「その日絶対にやらなければならないこと」を先にやってしまっておけば、その日一日を「優位に立って過ごせる」のだろうけどなあ。
 でも、ついつい「ああ、明日も朝から仕事だなあ…」とか考え始めると、「あと30分くらいゲームしておこうかな」というような欲望に負けてしまいがちなんですよね。逆に、朝に何かやろうと思っても「どうせもうすぐ仕事だし」ということになると、どうしても「なんだか憂鬱な気分」になって、ボーっと「めざましテレビ」とかを眺めてしまうのです。そこで一念発起して、「今日一日に先手を打つ」ことができれば、もっといろんなことが充実させられるし、新しいことをやるだけの余裕もできるかもしれないのに。
 というわけで、僕も少しずつ「朝型」にシフトしていこうと考えているのです。その一方で、「仕事帰りの一杯」はやっぱり捨てがたいものではあるのだけれども。

 しかしながら、朝から「犯罪や事件」しかも「猟奇系」を丁寧かつ大々的に放送している日本のワイドショーというのは、日本人の朝にとって、ものすごく悪影響を及ぼしているのかもしれませんね。あれで「朝からいい気分」になるのは、かなり至難の業ですから。



2006年06月21日(水)
「カツカレー」と呼ばれていた、人気お笑い芸人

「週刊アスキー・2006.6/27号」の対談記事「進藤晶子の『え、それってどういうこと?』」より。

(書き下ろし小説「陰日向に咲く」がベストセラーになっている、劇団ひとりさんと進藤さんの対談の一部です)

【進藤:コンビを解散するとき、ひとりでやるか、別の方を探すか、選択肢があったと思うのですが。なぜひとりでやろうと思われたんですか?

劇団ひとり:解散する前、お遊びでひとりでライブに出てたんです。キャラクターショーみたいな感じのネタで。それがエライ評判がよくて、プロデューサーの人からも、こういうほうが向いてるんじゃないかって話になって。それから2、3ヵ月後、相方が借金をつくって、夜逃げに近い形でいなくなっちゃったんですが。

進藤:ありゃ!

劇団ひとり:それで解散することになった夜、先輩のデンジャラスの安田さんに「いい相方が見つかるまでしばらく考えます」って言ったら、「そういうヤツはたいてい、消えてく。なんでもいいから、明日から動いたほうがいいぞ」って言われて。その言葉は非常に僕にピッタリで、いままでもだいたいそうでした。様子を見て、待ってる間に「まあいいか」って、熱が冷めてなにもしなくなっちゃったり。だから、なにも決まってなかったけど、1歩目を踏み出そうと思って。それで、Yahoo!の掲示板に「スープレックス」というコンビをやってましたが、解散したんで芸名を決めてください」って書き込んでみたんです。

進藤:なになに、公募だったの?

劇団ひとり:そのときは結局、”カツカレー”って名前になりました。いろんな名前を出してもらったなかで、いちばん人気だったのがカツカレー。6票くらいでダントツ1位でした。

進藤:脂っこい名前ですね(笑)。

劇団ひとり:ええ、事務所にも「カツカレーじゃちょっと仕事を取ってきづらい」と言われて。それで、いろいろなキャラクターをひとりでやるから”劇団ひとり”ということに。】

〜〜〜〜〜〜〜

 このインタビューによると劇団ひとりさんは、パソコンが大好きで、今は"YouTube"にハマっているそうです。5年くらい前には、”2ちゃんねる”によく自分で「劇団ひとりっていうのが面白い」なんて書き込まれていたのだとか。なんだか親近感が湧いてくる(?)話ではあります。
 ちなみに、この"YouTube"に対する進藤さんのリアクションは「なんですかソレ?」というものなのが、パソコンマニアと世間一般とのギャップを痛切に感じさせてくれました。

 それにしても、劇団ひとりさんが、まさに「ひとりぼっち」になってしまったときの先輩のアドバイスというのは、本当に身につまされるものがあります。もしそのとき劇団ひとりさんが、「いつか良い相方が見つかるのを待って」いたら、確かに、そのまま消えてしまっていた可能性は十分あると思うのです。やっぱり、そんなふうに一度立ち止まってしまうことによって、いつのまにか「勢い」とか「情熱」というのは、失われてしまうのですよね。そして、一度失ってしまったものは、もう元には戻りません。
 でも、このときに劇団ひとりさんが実際に「動いた1歩目」が、「Yahoo掲示板で新しい芸名を募集した」というのは、いかにもパソコン好きらしいといえばらしいエピソードではありますが、なんとも微妙な「動き具合」のような気もします。そういう人を食ったようなところが、持ち味ではあるんでしょうけど、それってほんとに「1歩踏み出した」ことになるのでしょうか……

 残念ながら、実際にそこでトップになった「カツカレー」は、結局陽の目を見ることはなかったみたいです。まあ、僕が事務所の人でも「カツカレー」を売り込むのは、ちょっと辛いだろうなと感じますから、致しかたないところですが。
 もしかしたら、このインタビュー記事を読んで、あの「カツカレー」が「劇団ひとり」だったのか!と驚いている人も、どこかにいるのかもしれませんね。



2006年06月20日(火)
阪急と阪神が一緒になることへの「微妙な違和感」

「週刊SPA!2006.6/20号」(扶桑社)の「文壇アウトローズの世相放談・坪内祐三&福田和也『これでいいのだ』」第195回より。

(「村上ファンド」の阪神株買占めの話題から)

【福田:阪神株の買い占めだって、みんな共感持ってないでしょう。いまの阪神電鉄あるいは阪神球団の経営手法がいいか悪いかは別として――オレたちが愛して支えてきたものをカネ儲けの道具にしやがって! って、ファンたちが愉快じゃないのは当然だよね。

坪内:で、いま阪神が阪神株にTOBをかけて買ってるじゃない? でもさ、東京じゃわかりにくいけど、関西の阪急沿線の住民たちにすれば、それはそれで「冗談じゃない」ってことになってるわけ。阪神なんかと一緒にやるのはイヤだと。

福田:あーあ、阪神と一緒にされるのか……って、阪急沿線に住んでいる人たちは、やっぱりそう考えるよね。

坪内:東京にいるとわかりにくいけど、阪急と阪神が一緒になることって、「田園都市線」と「東武伊勢崎線」がリンクしたときの違和感以上のものがあるわけだからね。

福田:南北線と埼玉高速鉄道がつながったときとかね。シロガネーゼが「浦和美園から白金に人が来ちゃう」とか言っちゃってさ。

坪内:神戸あたりだと――たとえば同じエリアを走っている「JR」「阪神」に「芦屋駅」が、阪急に「芦屋川駅」があるんだけど、同じ芦屋でも、もう住民の意識の住み分けがぜんぜんちがうんだよ。

福田:関西は、まだそういう細かい地場の差に敏感だからね。この交差点からあっちとこっちじゃグレードがちがうとか。

坪内:もちろん、その差がどんどんなくなって、関西も徐々に東京のようなフラットな都市になっているよね。それで――「とにかく最短時間で大阪に到着すべし」と、地場に関係なく利便性とスピードを追求したのが、事故を起こした「JR福知山線」なんだよ。不思議だよね、村上という人は大阪出身で、阪神・阪急の微妙な土地勘、地域差による感覚のちがいを肌でわかっているはずなのに、まるっきり無頓着で。】

〜〜〜〜〜〜〜

 正直、この項のなかで、福知山線の部分は、「蛇足」ではないかという気がしてならないし、村上さんというのは、そういう感覚の違いに対して、あえてカネの力で挑戦状を叩きつけたのではないかな、と僕などは考えてしまうのですが。
 しかしながら、ここに書かれている「阪神」と「阪急」の話、日本でもこんなことがあるのだなあ、と、ちょっと驚いてしまいました。もちろん、僕が住んでいるような田舎にも「高級住宅街」なんていうのは存在しますが、ここまで「住み分け」されているような印象はありません。

 以前、アメリカのボストンに仕事で行ったときの話なのですが、そこに留学されている先輩に現地を案内してもらう際、その先輩は、地下鉄の路線図を指差しながら、「地下鉄の、この駅までは『比較的安全』だけど、この駅から先はちょっと危ない、そして、ここから先は、土地勘が無い日本人がひとりで行くのは危険だからね」と説明してくれたのです。僕にはその「危険度」を体験してみたいなんていう勇気はありませんから、先輩に言われた通りの駅から駅までしか利用しませんでしたが、「少なくとも線路が通っているようなところはとりあえず安全なはず」というような先入観を持っていた僕にとっては、そういう「東洋人は、車に乗っているだけでフロントガラスに石を投げられることもある」というような地域が現実に存在しているというのは衝撃的なことでした。そして、この地下鉄に乗っているだけで、そういう場所にたどり着いてしまうのだ、というのは、すごく不安な気持ちにさせられる「現実」だったのです。

 まあ、この「阪急」と「阪神」に関しては、そこまで切実な「危険性」はないのかもそれませんが、僕などからすれば「同じ京阪神」に住んでいて、甲子園球場で「六甲おろし」を熱唱しているようなイメージがある人々のあいだにも、こういう「一緒にされることへの違和感」があるのだなあ、とあらためて考えさせられたのです。もしかしたら、「阪急と阪神の融和」なんて、「村上ファンド」がいなければ、ありえない「夢物語」だったのかも。

 そういう意味では、東京の「フラットさ」というのは、確かにそんな「細かい地場の差」に疲れてしまった人たちにとっては、ものすごく魅力的な面もあるのでしょう。
 これだって、「東京人」に言わせれば、「いまの東京だってそんなにフラットなわけじゃない」と一蹴される可能性もあるんですけど……



2006年06月18日(日)
東海林さだおさんの「読まれるエッセイの書き方」

「もっとコロッケな日本語を」(東海林さだお著・文藝春秋)より。

(東海林さんと高橋春男さんの対談「文書の書き方、教えます〜高橋春男さん売り出し作戦会議開始」の一部です)

【高橋:東海林さんは雑文家であると同時に雑知識家でもあるんですよね。書くときは、いろんな引き出しから出して来て、パッパッパッと並べていくみたいところがあるんじゃないですか。

東海林:そんなことないよ。それとね、出だしは短く。一行で収まるように。

高橋:雑誌の一行って……。

東海林:13字から18字ぐらい。一行目は短くないと、読者は読むのがやんなっちゃうのね。

高橋:東海林さんは改行も多いですよね。あれは字数を稼ぐため?

東海林:そう(笑)。

高橋:まあ、ぎっしりで、おまけに漢字が多くて、ページが黒々としていると、それだけでゲンナリしちゃいますからね。

東海林:うん。ある程度、隙間があったほうが読もうって気持になりますね。

高橋:料理を並べたときみたいなもんでね。

東海林:楽だし、スカスカは(笑)。

高橋:でも、結局は東海林さんの人格が出てるんだと思うんですよね。あんまり詰め込まないで、あっさり行こうみたいな。

東海林:うーん、お肉屋さんのコロッケみたいな文章を書きたいなと思ったことはあるね。

高橋:ジャガイモばっかりの。

東海林:中に挽き肉の一粒でも入ってると嬉しい(笑)。

高橋:あ、それ、そのままやってらっしゃるじゃないですか。

東海林:意識としてそうなの。だから、エッセイストじゃない。

高橋:メンチカツみたいなのは書きたくないんですね?

東海林:いや、メンチでもいい(笑)。

高橋:トンカツはダメ?

東海林:う〜ん、メンチまでかな(笑)。】

〜〜〜〜〜〜〜

 エッセイの「名手」として知られる東海林さん。
 東海林さんのエッセイは、さらっと書かれているようで、実は、その「さらっと読ませる」陰には、さまざまな気配りがなされているようです。
 ここに「出だしは短く。一行で収まるように」と書かれているのを読んで、実際にこの文庫に収録されているエッセイで確かめてみたのですが、【人間に限らず、動物の世界にもドーダはある。】【突然ではありますが、人はなぜカバンに憧れるのでしょう。】【「次回は『冬山に挑戦』というのはどうでしょう」】など、18字以上のものも多いのですが、確かに、いずれもかなり短くまとめられているのです。東海林さだおのエッセイといえば、たくさんの固定読者がいる「優良ブランド」であるにもかかわらず、東海林さん自身は、あくまでも「読者の視点」それも、「その連載エッセイを初めて読む読者」を想定して書かれているのだなあ、ということが伝わってくる話です。
 単に短ければいいというものでもなくて、ここに取り上げた「最初の一文」は、いずれもその短い文章を読んだだけで「これはいったい、どんな話なんだ?」と興味を引かれるような内容でもあるんですよね。
 まあ、凝った表現が持ち味のエッセイストの人もいますし、こういう工夫は、必ずしも万能ではないのかもしれませんが、読む側としては、よほど魅力的な文章か、好きな作家でもないかぎり、「ぎっしりと文字が詰まった文章」はなんとなく敬遠してしまいがちではありますし。
 「他人に読んでもらうための文章」であれば、「自分でカッコイイと思う、凝った表現」をいきなりぶつけてうんざりされるよりは、「最初の一文は、とにかく短く、濃縮して」というのは、一度試してみる価値が十分にありそうです。
 しかし、実際にやってみると、「短いから簡単」ってわけでは全然ないんですけどね、こういうのって。



2006年06月17日(土)
日本人の愛した「円周率」

『ダ・ヴィンチ』2006年7月号(メディアファクトリー)の連載記事「一青窈のヒトトキ・第35回」より。

(一青窈さんとサイエンスナビゲーター・桜井進さんの対談の一部です)

【一青:数学は私が教わってた頃と何か変わりました? 一時期3.14を約3にするとかいう話がありましたけど。

桜井:それ語りだしたら大変ですよ。

一青:そうなんだ(笑)。

桜井:あの小数点以下を求めるのに人類が2000年も3000年もかけてきたわけで。まさに数学の歴史は円周率の歴史であり、円という最も単純で最も深い歴史を調べたのが数学だったんです。「とにかく3.14だから、約3ということで計算しなさい」というその性急さが、もう、数学の歴史を無視する暴挙ですよ。これはもう言語道断。そんなこと決めるなんて日本人は一体どうしちゃったの? 日本は円周率をこよなく愛してきた世界でも稀な国なんですよ。円周率に関する世界チャンピオンは全部日本人なんです。

一青:えーっ。そうなんですか。

桜井:暗記チャンピオンも歴代日本人だしね。最初に1万桁覚えたのも日本人でソニーの研究員。友寄英哲氏。次に1万桁を突破したのも後藤裕之君っていう当時慶応大学の文学部の2年生で、やることなくて暇だからって1日100桁覚えて結果4万2000桁覚えちゃったの。で、去年千葉県の原口さんっていうオジさんが8万3000桁を言ってのけた。

一青:スゴイ。

桜井:円周率の計算の世界チャンピオンも東大の金田先生で1兆桁出してる。

一青:なんでそこまでするんですか?

桜井:いい質問です。そうこなくちゃ。たとえば誕生日を西暦で表すと一青さんなら19760929。名前もローマ字を変換して数字にすると一青さんのパーソナルIDナンバーができますよね。これと全く同じ並びの数字の人は世界中探してもおそらくそうはいない。で。このIDナンバーは円周率のどこかに必ずあるんですよ。

一青:ロマンだ〜(笑)。

桜井:うん、あるいはね、今日、我々がここにいるこのインフォメーションをすべてデジタルデータにするとしますよね。ここの緯度と経度、それから我々のパーソナルIDを全部つなげてさらに日付もつける。そうするとその数字も円周率のどこかに必ずあるの。

一青:うわ〜。鳥肌。】

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 僕は正直なところ、数学が好きでも得意でもないものですから、円周率にロマンを感じることはありません。そりゃあ、「約3にする」という話を聞いたときには、今の子供たちに「お前たちばっかりラクしやがって!」と、イヤミのひとつも言いたくなったりはしましたけどね。そもそも、1兆桁まで計算すれば、大概の数字の並びはそこに含まれているに決まっているではないですか。
 まあ、僕のそんな個人的な感慨はさておき、日本人は数学好きが多い民族なのかもしれません。僕も中学・高校時代のとき、「数学オリンピックには、日本人の若者がたくさん出場している」なんて話をよく聞いて感心していましたし。それって僕にとっては、スポーツでオリンピックに出場するのと同じくらい縁遠い世界の話だなあ、とぼんやりと思っていたのを覚えています。
 そして、日本人はとくにこの「円周率」というものにこだわりを持っている人が多いのだなあ、ということを、この話を読んでいてあらためて知りました。「びっくりチビッコ大集合」みたいな番組でも、「円周率を何千桁も記憶している子供」というのはよく取り上げられていますよね。たぶん、海外の同じような番組では、「円周率を覚えている子供」なんて出てこないのでしょう。
 さらに、「円周率の暗記チャンピオン」が、数学の専門家ではなくて、ソニーの研究員とか慶応大学の文学部の学生だったりするのも、ちょっと不思議な話ですよね。慶応くらいの大学であれば、そりゃあ、数学が全然できないと入れないでしょうけど【やることなくて暇だからって1日100桁覚えて結果4万2000桁覚えちゃった】というのも、すごいエピソードです。彼は、なぜ「ヒマだから」という理由で、「円周率を覚えよう」と思ったのだろうか……もっと他に面白いことはなかったのかなあ。それにしても、僕だったら、1日100桁覚えたとしても、3日経てばそのうちの90桁は確実に忘れてしまうそうなので、死ぬまでやってもそんなに覚えられないような気がします。全部で4万2000桁なんて、言うだけでもかなり時間がかかるし、本当に正しいかどうか、確認するのもなかなか大変ですよね。

 でも、いわゆる「研究の世界」って、こんなふうに他の人が「なんで?」と思うような物事にロマンを感じる人々がリードしてきたのもまた事実なのだよなあ……
 



2006年06月16日(金)
「下敷き」を使わなくなった頃

「とるにたらないものもの」(江國香織著・集英社文庫)より。

(「下敷き」というエッセイの一部です)

【下敷きは私の必需品の一つで、ずっとそうだったのでとくに考えてみたこともなかったのだけれど、下敷きを使っている大人を他にあまりみたことがない、ということに、このあいだ気づいた。
 子供のころはみんな使っていた。鉛筆や消しゴムとおなじように、それは必需品だった。みんな、いつ使いやめたのだろう。
 下敷きなしでノートに字を書くのは気持ちが悪い。そりゃあもう子供じゃないのでシャープペンシルの先で紙に穴をあけてしまったりはしないが、それでもなんとなく落ち着かない。力を入れて書くと、次の頁に跡がつくかもしれない、と、思う。そういう不安を、みんな知らないうちに克服して大人になったのだとすれば、私はどこかでそれをしそびれてしまったのだろう。

(中略)

 下敷きは子供のもの、という認識があるせいか、下敷きにはいいデザインのものがほんとうに少い。デザインなどどうでもいいと思われるかもしれないが、ずっと目の前に置いて使うので、強い色調や柄は気になるのだ。それに、当然のことながら十分硬くあってほしいのに、ふにゃふにゃした塩化ビニール製のものも多い。】

〜〜〜〜〜〜〜

 小学生や中学生の頃って、みんな「下敷き」にはけっこうこだわりがありましたよね。自分の好きなマンガのキャラクターや憧れのスポーツ選手、女子はアイドルの写真が貼ってあったりして。暑い日には、団扇代わりにもなりますし。
 そして、その下敷きに落書きをするというような悪戯をしたりされたりもしていたものです。まあ、今となったらそれもひとつの「思い出」なのですが、当時は全然笑い事でもなんでもなくて、すごく悲しいことだったのですけど。
 思い出してみると、僕が「下敷き」を使わなくなったのは、大学に入ってからのような気がします。それまでの勉強というのは、教科書や参考書をノートに書き写しながらやっていたのが、過去の試験問題やマジメな人のノートのコピーに書き込みをしながら勉強するようになったので、それまで使っていたノートのように「次の頁に跡が残ってしまう心配」をしなくなったし、そもそも、受験生時代のように切実には、「勉強道具」を持ち歩かなくなりましたし。筆箱や下敷きというのは、意外とかさばるものですから、よっぽどの必要性がなければ、「無いほうがはるかに身軽」ではあるのです。
 それに、社会人になってみると、シャープペンシルではなくてボールペンを使う機会が増えますし、書類を書くことはあっても、ノートに何かを書く機会というのはほとんどないんですよね。

 そういえば、昔は旅行のお土産って、けっこう「下敷き」を買っていたような記憶があるけれど、今ではすっかり「マウスパッド」が売られていたりして、なんだか時代の変化を痛感させられることが多いのです。
 でも、これを読んでいたら、僕もなんだか「大人の下敷き」が欲しくなってきました。コンピューター時代だからこそ、ありふれた文房具が魅力的に見えてしまうのかもしれませんけど。
 



2006年06月15日(木)
忠義者の「ナニー」、ドリスの話

「春になったら苺を摘みに」(梨木香歩著・新潮文庫)より。

【ウェスト夫人の元夫、ウェスト氏はヨークシャの田舎の裕福な地主の出だ。『秘密の花園』『嵐が丘』『ジェーン・エア』と、いずれもムーアと呼ばれるヨークシャ地方のヒースの野を舞台にしている。ウェスト夫人はその元夫について話すことはあまりないが、そのナニーだったドリスのことならいつでもいつまででも語り続ける。
 ドリスは子守としてなんと8歳の頃からウェスト家に奉公にきていた。それから88で死ぬまでずっと独身でウェスト家にいた。家事一切のエキスパートとして、新婚のウェスト夫人はドリスに様々なことを教わった。
 ――ドリスにとって私はちゃんとしたティーもいれられないアメリカ人だった。そりゃ、ひどかったんです、私も。けれどドリスはそれはそれは辛抱強かった。
 ――義母は毎日決まって1日5食とる人だったの。朝食、11時のティー、昼食、アフタヌーンティー、夕食、ってね。そのたびごとにきちんとした銀食器のセッティング。ドリスはずっとそれをこなしてきたのよ。ストーブで煮炊きし、手足で洗濯していた時代からね。家事のことならなんでもできた、読み書きのほかは。
 ――ずっと独身でねえ。忠義者のドリス。仕える人をみんなあの世に送って一人になった。庭に出たらびっくりするわよ。ものすごい大きなズロースが国旗のようにはためいているから。
 ウェスト夫人はくすっと笑った。
 ――あれはドリスそのものよ。全て青天白日にさらして何の後ろめたいこともない。

(中略)

 英国の昔の家事労働というのは日本の昔のそれに負けず劣らず過酷なものがある。ドリスは80年間それのエキスパートであり続けた。そしていいナニーだった。
 ウェスト夫人が離婚したことでは明らかに夫君の側に裏切りがあった。それも当時8冊の本全てに自分で装丁、挿し絵も描いていた才能豊かな児童文学家としてマスコミにも出始めた頃の手ひどい裏切りだった。もちろんドリスは全て知っていた。
 ――私が子どもたちを連れて家を出てから10年たって初めて、ヨークシャの私の住んでいた界隈では、私たちの離婚は私がアメリカ人だったせい、ということになっているのを知って愕然としたわ。ドリスなの。ドリスがそういっていたの。彼女にとって私の夫はこの世で一番素晴らしい子どもだったの。そうでなくてはならなかったのよ。私の夫の側に非があってはいけなかったの。
 それでもウェスト夫人は彼女をそういう「忠義者」として受け容れた。ドリスは、最後までいいナニーだったのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ちなみに、「ナニー」というのを調べてみると(文脈的にだいたいはわかるのですが)、【乳母とかベビー・ シッター。一昔前の英国のそれなりの家庭にはナニーがいて、子ども の世話を見たり、教育係を務めたりしていた】ということだそうです。ドリスさんは、「子守」だけではなく、「家事一般のエキスパート」でもあったようなのですが。
 この「忠義者のドリス」の生きかたを読んで、僕の心の中には、2つの感想が浮かんできました。ひとつは、「そんな堅苦しいというか、人の世話ばかりしているような生きかたでは、人生楽しくなかっただろうなあ」というもの。そしてもうひとつは、「うまく言葉にできないけれど、なんだか『美しい』人生だなあ」というものです。
 いや、人のために尽くす、それも、世界平和とか恵まれない人のためというような「畏敬すべきもの」にではなくて、一般家庭で「家族のエキスパート」として家事を完璧にこなしていくだけという生きかたって、全然「創造的」ではないですし、何かに重要な足跡を遺しているというわけでもありません。でも、なんだかこんなふうに「自分の仕事を徹底して続けていく人生」は、とても清々しく感じられてならないのです。

 もちろんドリスさんは、今の僕からすれば、「自分の好きなこともできずに、かわいそう」な面もあるし、御本人だって、「もっと自分の好きなことをやりたい」と思っていたのかもしれません。
 でも、「ちょっと努力すれば、自分のやりたいことができる」はずの僕たちは、実際のところ、「本当にやりたいこと」を見つけることもできず、いつのまにか年ばかり重ねていることに思い当たると、本当にかわいそうなのは、どちらなのだろうか?と考え込んでしまうのです。



2006年06月14日(水)
人は大人になると感受性が鈍るんでしょうか?

「桜井政博のゲームについて思うこと2」(桜井政博著・エンターブレイン)より。

(「むかしはむかし、いまはいま」というコラムの「後日談」として書かれた「ふり返って思うこと」から。桜井政博さんは、「大乱闘スマッシュブラザーズ」や「メテオス」などを手がけたゲームデザイナーです。)

【桜井:昔感じたおもしろさに、いまなお惹かれることってありますよね。『ドラクエ3』ってあんなに楽しかったのになとか。『FF3』でもいいけど。

聞き手:でも、いま『3』と同じようなものをやっても楽しくないですよね。

桜井:それをちゃんとするのが作り手の仕事だろうと言われても、モノ作りって魔法じゃないですもんね。

聞き手:パッと浮かぶのが、私の学生時代に大ブレイクした少女マンガなんですけど。私はそれを大人になってから読んだんですよ。たしかに、おもしろい話で、みんなが名作だって言うのもうなづけるんですけど、いまひとつノリきれないのは、私が旬を外してしまったからで。その時代に読んでこその作品だったんだろうなと思って、歯がゆい思いをしましたけど。

桜井:そういう経験はありますね。

聞き手:昔の作品には、環境や時代の不思議な力が作用してますよね。あと、人は大人になると感受性が鈍るんでしょうか。

桜井:鈍るっていうのもあります。でも、逆に鋭くなるところもありますよ。たとえばわかりやすいのは、昔わからなかった歌の意味がわかるようになること。人自体が深みを増して、考えかたも変わっていくのでしょう。ならば昔のほうがよかったと文句を言ってるよりは、いまこの場で楽しいかどうかを考えたほうが正しいんじゃないかなと思います。】

〜〜〜〜〜〜〜

 確かに物事には「その時代の風景」というのがあって、僕が高校時代に「ビートルズの音楽がわからないやつはセンスが無い」なんて言われても今ひとつピンとこなかったように、いくら「スーパーマリオブラザーズ」が名作だからと言って、今の子供には、僕たちがリアルタイムでこのゲームに遭遇したときのようなインパクトは与えられないのだろうなあ、と思います。
 いや、僕だってビートルズの音楽は魅力的だとは思うし、たぶん、今はじめて遊んだ子供たちにとっても、「スーパーマリオ」は面白いゲームであることは間違いないのだろうけれど。

 ところで、僕も最近、自分が年齢を重ねるにつれ、「感受性が鈍ってきているなあ」なんて嘆いてしまうことが多いのですが、これを読んであらためて考えてみると、確かに、「逆に鋭くなるところもある」ような気がします。
 食べ物にしても、あまり脂っこいものや辛いものが食べられなくなった一方で、懐石料理も美味しいと思えるようになってきましたし、昔は全然ダメだったトロやウニも食べられるようになりました。
 考えようによっては、「ハンバーグ、カレー至上主義時代より、はるかにコストパフォーマンスが悪くなった」とも言えるのですけど、それでも、僕にとって、「新しいものを受け入れられるようになった」のは事実なのです。
 同じように、小説などでも「大人の世界」を、それなりに理解できて、自分なりに消化できるようにもなりましたし。
 ただ、それが本当に「深みを増しているのか?」と問われたら、僕自身には、正直なんとも言えないのですけどね。むしろ、「大人のズルさ」に寛容になってしまっただけなのかもしれません。

 それでも、少なくとも今の科学では、「若返る」ということは不可能なのですから、僕なりに「感受性が鋭くなったところ」をうまく生かしていったほうが楽しいのだろうなあ、とは思うのです。
 「昔はよかった」けれど、「今には今の、よいところがある」のですよね、きっと。



2006年06月13日(火)
「ごくろうさまです」「おつかれさまです」問題

「日本語必笑講座」(清水義範著・講談社文庫)より。

【つまり、今我々は、古くからの敬語の形がガラガラと音を立てて崩れていく時代に生きているのだ。こういう時代は、昔のルールをちゃんと知っている人にとってはなげかわしく、知らない人は時として大恥をかく、という過渡期である。もうしばらくすればある線に落ちついてくるのだろうが。
 そういうことがわかりやすい例が「ご苦労様です」だ。課長が先に会社から帰る時、ヒラ社員がその課長に対して「ご苦労様でした」と言ってよいだろうか、悪いだろうか。
 昔からのルールでは、それはペケである。「ご苦労様」というのはねぎらいのことばであり、目下が目上をねぎらってはいけないのだ。
 お経をあげたお坊さんや、頼まれ仲人をしてくれた上司に対して「ご苦労様」はとんでもない。目上の方というのはそのぐらいのことはたやすくやってしまい、少しも苦労ではない、というのがこのことの論理である。
 そして、「ご苦労様」は、中流以上の家庭で使用人に対してよく言ったことばでもある。
 お坊さんや上司には「ありがとうございました」である。
 ところが調査してみると、かなりの高齢者でも、この「ご苦労様」を不快に思うのは30%ぐらいで、気持のいいことばだと感じる人の方が多いのである。
 もともとのルールはそうであっても、変わってきてしまっている、わけだ。
 部長が出張から帰ってきたら、入社一年目の社員が「ご苦労さまです」と言う時代になっているわけであり、それで不快じゃないなら私が騒ぎたてることもないのだ。ことばは変っていくのだから。】

(上に引用した清水さんの文章への読者の反応に対して)

【ひょっとしたら来るんじゃないかなあ、と思っていたら、やっぱり来た。前回のこの新聞で、敬語のことを取り上げたその反響である。
 特に、目上の人に「ご苦労様」と言っていいのだろうかという論考に、どどっと手紙が来た。
 実は、この問題は以前にNHKの「ことばてれび」という番組に出ていた時にも取り上げたことがあり、その時も、放送に対して視聴者から大反響があり、次の回でもう一度取り上げなければならなかったのだ。ひっかかる人が非常に多いテーマなのである。
 目上にだって「ご苦労様」と言っていいではないか、という主張が多い。「ご苦労様でございました」と丁寧に言えば立派な敬語だ、という指摘もある。
 毎日新聞”編集室から”に書いてあった「お疲れ様」のどこがいけないか、と言う人もいる。上司が先に帰る時に「ありがとうございました」では意味が通じない。「お疲れ様」は心のこもった敬語だ、と。
 もちろん、「目上をねぎらってはいけない説に同意だ、というお便りもある。先に帰る上司には「お気をつけて」と言うのがいという提案もあった。
 大いに意見の分かれる問題なのだ。それが現時点での実情である。
 私は個人的には、なるべく目上の人には「ご苦労様」を言わないようにしている。だがそれをひとに強制するつもりはない。
 実は私は敬語というものが、嫌いでもあり、好きでもあるのだ。人と人との間に身分の上下をつけるという点では、あまりいいものではないなと思う。しかし人間は社会的動物で、現にそういうことがある。その時にことばによってそれを微妙にあらわすその細やかさはとても面白いと思うのだ。そういう絶妙さが文化というものなんだろう。
 敬語問題で大いに反響が寄せられるということ自体を、私は豊かで素敵なことだと感じている。】

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 僕がいままで働いてきた病院という職場では、「おつかれさまでした」が使われることが多いです。でも、確かに「ご苦労様」という言葉には、「目上の人が目下の人の労をねぎらう」というような語感がありましたので、僕自身は目上の人には使いません。僕の周りの人も、偉い人に「ご苦労様」って言う人はいないような気がしますし。もしかしたら、時代劇の武将の「苦労であったな」みたいなのをイメージしてしまうからなのかもしれませんが。
 そして、あまり自分の職場で「目下の人」というのがいるような気もしないので、ほとんど使うことのない言葉ではあるんですよね。

 しかしながら、この「ご苦労様でした」は、目上、目下に関係なく、ごく一般的な挨拶の言葉になってきているのは間違いないようです。ここで清水さんが書かれているように、高齢者でも不快に感じる人が30%しかいないそうですから、僕たちのような30〜40代にとっては、「不快に感じる人のほうがおかしい」くらいなのかもしれません。
 現代では、逆に、10代の人に「ご苦労様でした」なんて言われたら「礼儀正しい子供だなあ」なんて感心してしまいそうなくらいです。
 それでも、「気になる人は、やっぱり気になる」のも事実で、僕も正直、言われてカチンと来ることがなくはないのです。

 では、「お疲れ様でした」なら良いのかというと、実は、これも違うみたいなものです。まあ、「ご苦労様でした」がダメな理由が【目上の方というのはそのぐらいのことはたやすくやってしまい、少しも苦労ではない】であるならば、同じように、「目上の方は、そのぐらいのことでは、少しも『お疲れ』ではない」ということになるでしょうから。

 先日、あるラジオ番組で、高名な日本語学者の金田一秀穂先生が、この問題についてコメントしておられたのですが、先生によると、【言葉で返すのではなくお辞儀・会釈がいい】ということでした。
 なるほど、その手があったか…という感じではあるのですが、その一方で、上司は声だけかけてサッと通り過ぎてしまってこちらに目もくれないかもしれないし、相手がそういうことを理解してくれるような人でないと、礼儀としては正しくても、かえって伝わりにくいのではないかなあ、とも思うのですけどね。
 みんなが「お疲れ様でした!」って言い合っている職場で、この「正しい挨拶」をやると、かえって浮きまくってしまいそうだしなあ。
 



2006年06月11日(日)
「シオン修道会」の「本当の正体」

「と学会年鑑GREEN」(と学会著・楽工社)より。

(皆神龍太郎さんによる『ダ・ヴィンチ・コード』へのツッコミの一部です。ネタバレ部は極力削っていますが、気になるかたは読まないほうが無難です)

【さてさて、問題は果たしてこれ(『ダ・ヴィンチ・コード』で語られている「秘密」)は本当の話なのか、ということです。ダ・ヴィンチがシオン修道会総長だと書いてある文書は、確かに存在していますが、気になるのは書いてある内容が事実なのかどうか。
 だってこれ、見るからに(本には実際の文書が転載されています)電波系文書に見えません?(会場爆笑) なにか怪しい波動がゆんゆんと発せられている気がします。ビデオでも「極秘文書」と紹介されていましたが、なぜこれが極秘文書なのかと申しますと、なにも「内容が危なすぎて一般人には見せられない」とフランス政府が判断してトップシークレットのハンコを押したといったような大層なものじゃありません。本の名前そのものが『極秘文書』なんです(会場大爆笑・拍手)。
 つまりこれ、自分の顔に「わたしは極秘ですよ、だから誰も見ちゃダメですよ」と大きく書いて、なぜかそのまま平気で閲覧可能の棚に収まっているという奇妙な文書なんです。誰にも見せられないはずの極秘文書を、「みんな読んでね」とばかりに、パリの国立図書館に贈呈した人物がいたわけです。
 その贈呈した人物が、シオン修道会の話をデッチ上げた張本人です。それがこのオヤジです。シオン修道会伝説以外ではまったく知られていない、ピエール・プランタールという人物。このプランタールが、シオン修道会を友人と一緒にデッチ上げたあげくに、『極秘文書』も捏造しちゃったりして、フランスの国立図書館にこそりと寄贈しておいたというわけです。
 わたくし、このピエール・プランタールが作ったシオン修道会の設立届出書というものを手に入れました。日本初公開だと思います。皆さん、見てください。これが設立届出書です。シオン修道会のマークが入っていて、"PRIEURE de SION"(シオン修道院)と書いてあります。
 ただし、設立されたのは11世紀ではありません。「1956年5月7日」と書いてあります(会場笑)。今から約50年前です。1000年近く前の11世紀でもなければ、ダン・ブラウンが『ダ・ヴィンチ・コード』を書いた数年前のことでもない。今からおよそ50年前にこの壮大なイタズラを国立図書館に仕込んでおき、50年間じっくりと熟成させ(会場笑)、最後に『ダ・ヴィンチ・コード』で花開いたというのがシオン修道会の真相なんですね。50年越しの仕込みですので、ホラ話がたっぷりと熟成しております(会場笑)。】

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 僕も子供の頃、「ゴレンジャー」か何かで、「○○秘密基地」という大きな看板が掲げられている「秘密基地」を観て思わず失笑してしまった記憶がありますが、世界中で話題になっている『ダ・ヴィンチ・コード』の元ネタのひとつが、この手の「自称・極秘文書」であるというのにはさすがに驚きました。いや、もちろんダン・ブラウンさんは「承知の上でやっている」のだと思いますけど。テレビでも先日「歴史ミステリー」として、この『ダ・ヴィンチ・コード』のことを大々的に取り上げていたのですが、皆神さんの個人的な調査でこれだけのことがわかるのですから、テレビ局が真剣に取材すれば、すぐに決着がつきそうな話ではあるんですけどねえ。
 まあ、「映画公開前だし、冷や水をぶっかけるような番組を作るわけにはいかない」のでしょうが……
 ちなみに、このピエール・プランタールさんは、「反ユダヤ主義、反フリーメーソン主義者にしてゴリゴリの国粋主義者。かつ秘密結社オタク」だったそうで、「10代のときから秘密結社をたくさん作ってきた、筋金入りの人物」なのだそうです。そして、「シオン修道会の構成員は全部で4人」で、本来の目的は、”Low-Cost Housing”、つまり「低家賃の住宅を守る」ことだったと、皆神さんは仰っておられます。そして、「シオン修道会」は、バチカン公認の修道会ではなく、まったくの「私設団体」だったのだとか。
 いやまあ、「そういう皆神さんの言動こそが陰謀なのだ!」とか言い出す人だっているのかもしれないけれど、調べれば調べるほど、「秘密結社オタクが作った小さな組織が、周囲の人々によって過剰な意味づけをされていき、歴史のミステリーになってしまった」という流れが浮かび上がってくるのです。
 僕はこの映画をめぐる騒動を見聞きして、「バチカンの偉い人たちも、フィクションにここまで神経質になることはないのに…」と思っていたのですが、この話を読んでみると、そりゃ、ここまで話を大きくされてしまうと、黙ってもいられないよなあ、という気がしてきました。与太話も、みんなが信じてしまえば「歴史的事実」になってしまうのかもしれない。

 しかし、僕たちが「歴史的事実」だと思い込んでいることのなかには、こういうふうにして「創られたもの」が、けっこう含まれているのではないか、というような不安に駆られる話ではありますね。



2006年06月10日(土)
トム・クルーズが「トンデモセレブ」になるまで

「日経エンタテインメント!2006.7月号」(日経BP社)の「負け組ハリウッドの肖像―スターの知られざる不遇時代―第3回」(田沼雄一著)より。

(ハリウッドが誇る世界的大スターのひとり、トム・クルーズのエピソードの一部です)

【25年ほど前、フランシス・コッポラが監督した『アウトサイダー』(83年)の撮影現場を取材したときのこと。小さな役で出演中のトム・クルーズに初めて会った。「絶対にビッグになってみせる」。話す言葉が熱かった。コッポラ監督には「どんな役でもいいから出してほしい」と売り込み、役をもらった。「大物監督の映画に出ることがビッグになるためには必要さ」と言ってケロリと笑った表情の向こうに、ハングリーな役者魂を見た。
 父親による家庭内暴力が原因で、7歳のとき読書障害(失読症)を患った。両親の不仲、離婚、引越しなど12歳までに15回も転校を繰り返した。父親は働かない人だったらしく、トム・クルーズは中学生のころから働いた。朝は新聞配達、学校から帰るとマーケットやドラッグストアで荷物を運ぶ仕事を手伝い、稼いだお金は母親に渡した。
 「映画で成功して、母親を喜ばせたい。早く楽をさせてあげたいんだ」。
なにがなんでも成功してみせる、その気迫に圧倒された。『アウトサイダー』当時は19歳。1日も早く成功したくてうずうずしていた。チャンスは待っていても来ない。そんな思いから、あらゆる手段で自分を売り込んだ。
『卒業白書』(83年)で念願の初主演の座を射とめたのは、コッポラ監督の推薦をもらえたことが大きかった。
 『卒業白書』のヒットで出演オファーが増えても、より大きな役、大きな成功を求めてどん欲にオーディションを受ける日を続けた。『トップガン』(86年)、『ハスラー2』(86年)は、いずれも『アウトサイダー』で共演したロブ・ロウ、マット・デイモンと最後まで競り合い、主役の座を獲得した。
 初めて大作映画主演の指名を監督から直々に受けたのは『カクテル』(88年)。デビューから7年、やっとハリウッドに自分を認めさせた。】

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ちなみに「失読症」とは、こういう病気です。

 最新作『M:i:3』の観客動員の出足が前作を下回ったり、生まれてくる子供を「見る」ためにエコーの機械を2台も購入するという「親バカ」ぶりが話題になったりと、最近はやや「トンデモセレブ化」しているトム・クルーズなのですが、ここに書かれている、過去のエピソードを読んでみると、ハリウッドスターも、さまざまな心の傷を抱えて生きてきたのだなあ、と嘆息してしまいます。トム・クルーズが「失読症」で、文章で書かれている台本をうまく読むことができないという話は比較的知られていると思うのですが、その原因が幼少期の家庭での問題にあったとは……
 現在語られている「奇行」の数々は、そういったトラウマと「脅迫的なまでの『成功しなければならない』という想い」の反動だとするならば、まあ、お金持ちなんだし、エコーの機械くらい買ってもいいんじゃないかな、という気もしてくるのです。別に、それで誰が傷つくってわけでもないのだし。
 僕にとってのトム・クルーズは、『トップガン』で華麗に世に出てきて、そのままスター街道を一直線、というイメージだったのですが、実は、「監督に指名してもらえるスター」になれたのは、そのずっと後のことだったそうですし、それまでの過程も、同じ映画に出ていたライバルたちを振りきっての「主役」ですから、演技力はもちろんのことながら、よほどの精神力や野心がないと、のし上がっていけない世界なのだと思います。遠慮や逡巡があっては生き残れないし、「普通」であっては、セレブになんてなれないのでしょうね。
 



2006年06月09日(金)
その「やらせ」を叩く資格があるのか?

毎日新聞の記事より。

【岐阜県可児市瀬田の花フェスタ記念公園を運営する財団法人・花の都ぎふ花と緑の推進センターは8日、同公園で7日行われた「恋人の聖地」の銘板除幕式で、第1号の恋人として認定証を渡されたカップルが、来園した客ではなく、カップルが見つからない場合を想定して同公園の担当者が事前に頼んだ“代役”だったことを明らかにした。同センターの澤田哲郎理事長は「誤った情報を提供して申し訳ない」と謝罪した。

 澤田理事長らによると、当初は日曜日の4日に予定されていたイベントを平日の7日に変更したことから、担当者が若いカップルを見つけて承諾を得ることができない場合を想定。同公園のパート従業員の女性に頼み、実際の恋人とともにスタンバイさせていたところ、午前9時半のイベント開始時間までに来園者のカップルを見つけることができなかったため、女性らを「恋人第1号」として除幕式を行ったという。】

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 この記事を読んで、「こんな酷い『やらせ』をするなんて!」と心の底から憤るひとって、いったいどのくらいいるのでしょうか?
 僕の率直な感想は、「本当に探してみて、いなかったんだったら、まあ、しょうがないんじゃないの?」というものなのですけど。
 いや、実際のところ、ごく一握りの人気イベントを除けば、こういう地方のイベントなんて、みんなこんなものなのではないかなあ。そんな除幕式があるからって、平日にこの公演にわざわざやってくるカップルなんて、そんなにいるとは思えないし、こんなふうな形で目立ちたいと思う人だってごく少数でしょう。
 僕の身の周りにも、「町のミス○○コンテストに、この病院(公立病院)から誰か参加させて!」というお願いがまわってきたりすることは珍しくはないですし、こういうことをしてやったりと報道するメディアだって、大学の合格発表のときにスタッフが受験生でもない在校生たちに「派手な映像が欲しいから、誰か胴上げとかしてくれない?」とか頼んでいたのを目にした記憶があるのです。誰が密告したのかは知りませんが、そのくらいのこと、放っておいてやれよ…と思うんですけどねえ。一応、本物の「恋人」だったわけですから、「誰でもいいから胴上げして」なんていう某テレビ局よりも、よっぽど「良心的」ですらあるような気もしますし。お笑い番組だって、舞台のソデでは、ADが「笑って笑って」ってやっているのだから。
 先日の松本人志さんの「防犯カメラ盗撮事件」にしてもそうなのですが、マスコミというのは、所詮「弱いものは叩き、長いものには巻かれる」という存在なのかな、と思えてなりません。こんなイベントのつまらない「やらせ」(というか「お約束」のレベルだと僕は思うけど)よりも、もっと報道すべき「やらせ」が、世の中にはたくさん溢れていると思うのですが。
 僕は、このイベントを取材に来ていた報道陣、もしカップルが見つからなかったら、絶対にこう言ったと予想しているのです。
「これじゃ絵にならないから、スタッフでも誰でもいいので、どこかからカップルを見繕ってきてくださいよ!」って。



2006年06月08日(木)
「ブックオフ」新社長の涙

日刊スポーツの記事「ブックオフ新社長・橋本真由美さん〜レジで経営考える」より。

(6月24日付で中古書店最大手「ブックオフコーポレーション」の新社長に就任する橋本真由美さんの話)

【橋本さんがブックオフでパート勤務を始めたのは41歳の時だった。結婚後18年間は専業主婦。子供に手が掛からなくなった時期に、新聞の折り込みチラシの求人広告が目に留まった。
「自転車で家から10分ほどのところにブックオフの第1号店(神奈川県相模原市)ができることになったんです。好きな時間でいいというので、主婦の私でもできるかなと応募したんです」。最初の仕事は古本の磨き上げ。ホコリはひどく、本は重かったが、一から店舗をつくり上げていく面白さに取りつかれた。
「専業主婦だったので主人の出世とか、子供の成績が上がったとかが喜びだったでしょ。それが、パートを始めてね。仕事を達成する喜びを知ったんです。褒められることもうれしかった。主婦の仕事って誰も褒めてくれないじゃなですか」。

 前向きな仕事が評価され、9ヶ月後にはパートのまま第2号店の店長を任される。時給は50円アップして650円に。だが、一生懸命働いたものの1人で空回り。アルバイト店員の士気は低く、売り上げは下がり、1年もたたずに撤退を通告された。
「せっかく店を任されたのに。悔しくて悔しくて」。
 店舗の外で涙を流してしまった。それを20歳以上も下の男性アルバイトに見られてしまう。「おれたちがなんとかするよ」。パート店長の苦悩を知ったアルバイトたちが1つになり、店は一変した。
「私はただビービー泣いていただけなんですけど」。】

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 時給600円のパートから、東証1部上場企業の社長へ。僕は「トリビアの泉」で、タレント・清水国明さんの実姉として紹介されていたのを見て、橋本さんのことを知りました。橋本さんは現在57歳ですから、パートとして働き始めてから16年での「偉業」ということになります。
 僕も「ブックオフ」は、かなり頻繁に利用しているのですが、ブックオフそのものも、わずか16年間ですごく大きな会社になっているのだなあ、とこの記事を読んであらためて感じます。
 橋本さんがブックオフでパートを始めたきっかけというのは、「家の近くだし、子供にも手が掛からなくなってきたから、外で働いてみようかな」というものだったそうです。ところが、実際に仕事をはじめてみると、「店を作り上げる面白さ」にハマってしまい、いつのまにか正社員になり、ブックオフの社長にまで上り詰めていったのです。あまりに仕事熱心だったため、夫には「おれとブックオフのどっちが大事なんだ」と声を荒げられたこともあったのだとか(今は、「良き理解者」だそうですので、念のため)。
 ところで、僕がこれを読んでいて興味深かったのは、「第2号店の挫折と、その後の復活」の話でした。なんだかドラマの1シーンみたいな話。「ブックオフ」の営業形態を考えると、店舗の成功・不成功というのは、個々のスタッフのやる気というよりは、システムとか立地などに依存しているのではないかなあ、と思わなくもないのですが、このエピソードが事実であるとするならば、やはり「人」というのは大事なのだなあ、と痛感させられます。それも、同じスタッフなのに、やる気を出して頑張るというだけでも、全然違うものなのですね。
 それにしても、「ビービー泣いているだけ」で周りをやる気にさせてしまった橋本さんには、すごいカリスマ性があるのかもしれません。もちろん、普段しっかり頑張っていたからこそ、ではあるのでしょうけど。



2006年06月06日(火)
おたくが社会性を身につける「いちばんの早道」

「特盛!SF翻訳講座〜翻訳のウラ技、業界のウラ話」(大森望著・研究社)より。

(「大森望☆サクセスの秘密」という対談の一部です。聞き手は、漫画家・イラストレーターの西島大介さん)

【西島:冒頭でSFの話はしないと言っていたのに結局SFの話になってしまった。ところで、この辺で子育ての話をしたいんですけど、やっぱり子供が二人いるのはたいへんですか?

大森:まあ、たいへん。一人のときは子供の面倒を全部女房にまかせられたんだけど、二人ともまかせつづけてると一週間くらいで家族の雰囲気が険悪になるから(笑)、こっちの仕事が忙しくてもあんまり放っておけない。マンガ喫茶とかファミレスに自転車で出勤するんだけど、平日の昼間から、保育園の同級生のお母さんとか、園児を散歩させてる保母さんとかに道ばたでばったり会っちゃうから、「トキオくんのお父さんは今日もアルバイト」とか言われてて(笑)。世の中的には「フリーターのおじさん」。

西島:僕も近所の人に「マンガ描いてます」と言うほどでもないので言ってないんですけど、いつも家にいるから「何してるんだろう?」と思われているはずですね。「あそこの家は妻が働いて夫が家を守っている」みたいな感じかも。

大森:オレ、いきつけの喫茶店の人には、『航路』とか『文学賞メッタ斬り!』とかあげてるよ。

西島:僕、『凹村戦争』の謝辞にファミレスの名前を入れてます。

大森:そういう配慮が大切だよね。あと、おたくが社会性を身に付けるうえで、子供は重要。

西島:良くも悪くも地域社会に否応なく縛られますよね。近所の人とか幼稚園で会う人とかと交流しなきゃいけなくなるし。

大森:でもさ、子供がいたらとりあえず話題には困らないじゃない? 近所の人と天気やプロ野球の話ができなくても、とりあえず子供をネタにすればコミュニケーションがとれる。SFおたくも無理なく地域社会に溶け込めるんですよ。だから社会性を身につけるいちばんの早道は、子供をつくることじゃないかと。それ以前に、最低限の社会性がないと、子供をつくる相手が見つからないという問題はあるんだけど(笑)。でも、代償も大きいよね。子供って、ずーっと出ない単行本をつくってるようなものでしょ。】

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 これを読んで、確かに「子供をつくる」というのは「社会性を身に付ける」ための特効薬かもしれないな、と思いました。いや、僕はもう15年くらい一人暮らしをやっているんですけれども、極端な話、一人であれば、地域社会というものに対して、とりあえず挨拶をしたり、ゴミの分別をやっておいたりすれば、それ以上積極的にかかわる必要性というのをあまり感じないんですよね。「もっとちゃんとご近所づきあいしなくては!」と仰る向きもあるのは承知の上ですが。
 もちろん、結婚して二人暮らしとなれば、それなりに「義務」的なものも課せられてくるみたいですが、まあ、そういうのも「最低限の義務だけは果たす」というスタンスでも、そんなには大きなトラブルにはならないはずです。大事件でも起こせば、ワイドショーで御近所さんから、「ヘンな人だった」とか言われるくらいのリスクはありますけど。
 「御近所づきあい」なんていうのは、多くの大人にとっては、喜ばしいものであるというよりは、煩わしいものの代表格であるような気がします。
 大人であれば、別に近所の人と仲良くしなくたって、コミュニケーションの場は職場や今までの人生における人間関係に求めればいいはずです。「夫の転勤で知らない土地にやってきた専業主婦はどうするんだ!」と問われたら、ちょっと答えに窮してしまうとしても。
 
 しかしながら、「子供がいる」となると、話は変わってくるんですよね。幼い子供は電車に乗ったり、自分で車を運転したりして友達のところに遊びに行くわけにはいきませんから、どうしても「近所の子供たちと遊ぶ」ことが必要になってきます。「めんどくさいから、ずっと家で一人で遊ばせておく」のは、さすがに親として失格でしょう。
 そして、一人の大人としては「お近づきになりたくもない、近所の煩いオッサン、オバサン」であっても、その人が、「うちの娘の友達のクミコちゃんのお父さん、お母さん」であれば、それはやっぱり、「子供は子供」というわけにはいきませんよね。結局そうやって、親というのは「地域社会」に巻き込まれていくのです。
 そう考えると「子供をつくる」というのは、まさに、「おたくが社会性を身に付けるためのいちばんの早道」なのかもしれませんね。早道というか、かなりの「スパルタ教育」のような気もしますけど。
 でも、これって、逆に言えば「コミュニケーションが苦手なおたくにとっては、子供を持つというのは茨の道である」ということでもあるのだよなあ、うーん……



2006年06月05日(月)
松本人志が写真週刊誌を訴えた「本当の理由」

「週刊プレイボーイ」(集英社)2006.6/5(Vol.23)号の「松本人志の怒り!」より。

(読者からの[松本さんが、写真週刊誌を相手に「裁判で勝訴」という記事を読みました。なんでも、プライベートでAVを借りているところを盗撮された」からとか。確かに、そんなことされたら腹立ちますよね!]
というメッセージに対しての松本人志さんの答えの一部です)

【この裁判はねえ、勝つには勝ったんですけど、本当に大変でした。
 もうね、ワザとやと思うんですけど、新聞やその他の報道でね、ボクのいちばん言いたかった主張が歪曲されているんですよ!
 報道の多くが「プライベートでAVを借りているところを盗撮された」ことを怒っているように書いてありましたが、違うんですよ。
 そうではなくて、写真を載せる時に「防犯カメラの記録ビデオから転載した」ことをボクは怒ったわけです。
 もし、こんなことがこれからも許されるのなら、有名人は(防犯カメラのついている)エレベーターにも乗れないし、スーパーにも行けないし、ということになってしまいますよ…。新宿なんかふつうにあちこちに設置されているので、有名人でなくても女のコと気軽に歩けなくなるでしょう。
 タレントや顔の知れた人のツーショット写真が(防犯カメラの録画映像から)流出しまくることになる。これはほっておけないというころで正式に手続きを踏んで出版社を訴えたわけです。
 今回、こういう判決が出たことによって、他の出版社もさすがに「防犯カメラの映像は使えないナ、無理やろナ」と思ってもらえたらいいんです。そうでないと、コンビニで女性タレントさんが生理用品を買った映像まで写真誌が買う恐れがあります。
 その主張が世間に理解されずに、「松っちゃんが、ビデオ借りてるところ撮られたから、怒った…」みたいに思われているのは本当に残念ですね。
 賠償金が90万円というのも微妙ですしねぇ。

(中略)

 ボクねー、このことに関しては、訴えているということも一切言わなかったんです。勝訴したこともラジオでちょっと言っただけで。よくある「宣伝」みたいに思われたくなかったので…。でも、間違った認識をもたれたままでは残念なので、ここでちゃんと言っておきたいと思います。
 ゴシックで太く書いておいてください。「防犯カメラのビデオ映像からの写真転用は訴えられるほどの悪事である」、と!
 こんなことをワイドショーとかで言ってもムダなんですよね、
 昨日、ある後輩のタレントと一緒にいたんですが、彼も写真誌にハメられたと言ってました。
 なんでも写真誌の編集者と元カノが知人で、「1回呼び出してみたら」と元カノに編集者が言ったらしいです。後輩もくやしがってました。タイミングがタイミングなのでね。
 彼には、「文句言ってもしゃーないで。記者会見でコンコンと説明しても、リポーター、なんにも聞いてないから」と教えておいてあげました。
 昔、ボクも記者会見をちゃんと開いて説明したことがあったんですけど、翌日のスポーツ紙見て、ひっくり返ったことがありましたから。重要なところ、全部カットでしたから。
 だから、嵐が過ぎるのを待って、きっちり訴えるのがいちばんいいんです。】

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 この最後に出てくる「後輩芸人」って、あの人のことなんだろうなあ、とか思いつつ僕はこれを読んでいたのですが、確かに、芸能人っていうのもラクじゃないだろうなあ、という気がします。一般の成人男性であれば、AVを借りても、せいぜいレジでちょっと気まずい思いをするくらいのものですからね。
 まあ、この「後輩男性」の場合は、それが「ワナ」だったとしても、引っかかってしまったのは「脇が甘い」と責められても致し方ないところでしょうが、それでも「元カノ」が写真週刊誌の編集者に利用されているかもしれないなんて、普通の人なら、思いつかないことでしょう。
 しかも、それをいくら訴えてみたところで、その釈明会見を「報道」するのもマスコミなのだから、都合の悪いところはカットされておしまい。
 松本さんのような「力のある芸能人」であれば、まだこういう形での「反論」も可能なのでしょうが、それができる人は、ごく一握りの芸能人でしかないはずで。
 そういえば、先日は橋下弁護士が「脱税疑惑」に対し、御本人のブログで反論しておられ、それが大きな話題になっていました。そういう意味では、ブログというのは、非常に大きな可能性を持ったメディアであると言えるのかもしれません。
 それでも、大新聞やニュースを観た人に比べれば、橋下弁護士の「肉声」であるブログを読んだ人は、まだまだ少数なのが現状です。

 この松本さんの「本当に言いたかったこと」というのは、まさに「正論」です。これが当事者のコメントであるということを差し引いて考えても、「防犯カメラの映像を転載する」なんて、非常識極まりない行為です。こんな映像を掲載する出版社の理性も疑いますが、そもそも、こんなふうに防犯カメラの映像が「流出」してしまうということそのものが、とても情けないことのような気がしてなりません。刑事事件ならともかく、こんなことが許されたら、本当に「常に監視されているようなもの」ですよね。「防犯カメラを設置し、管理する側」には、当然、そういう「プライバシーを守る義務」も含まれているはずなのに。
 いくら「芸能人」でも、これはたまらないでしょう。
 そして、声をあげてみても、それが「報道」されるときに「恥ずかしいところを撮られて怒った」みたいな「情報操作」をされては(いやもちろん、ちょっと恥ずかしかったのではないかとは思いますけどね、やっぱり)、せっかくの松本さんの訴えもあまり意味がなくなってしまうわけで。
 結局、こういう事件を「報道」するのもマスコミですから、都合の悪い部分は、「編集」されてしまうことも少なくないようです。

 もちろん、僕がどんなビデオを借りたかなんてことに興味がある人はいないでしょうから、現実問題として、「すべてのプライバシーが商品になる」ものではないでしょう。でも、いくら芸能人が「取り上げてもらってナンボの人気商売」だからといって、超えてはならない一線というのはあるはず。

 まあ、「AVを借りている写真」が「商品」になってしまう松本人志さんっていうのは凄いな、と思わなくもないのですけど。



2006年06月02日(金)
リリー・フランキーさんにとっての『東京タワー』

「本屋大賞2006」(本の雑誌社)より。

(「2006年 本屋大賞」受賞作、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』を書かれた、リリー・フランキーさんの「受賞のことば」の一部です)

【この本を装丁しているときも、丁寧に扱ってもらいたくて、わざとはげやすい金箔をつけたり、手垢のつきやすい紙にしたり、なるべくブックオフに持っていかれない、大切にしてもらえるような本にしたいと意識したので、そう願って作った本を本屋さんも大切にしてくれている、というのがものすごくありがたいですね。
『東京タワー』は母親が死ぬ直前に病院で書き始めました。もう5年前になりますが、母親の写真を撮ったり、絵を描いたり、いろいろしたけど、それだけではすくいきれない部分がどうしても残る。そうなると、やっぱり文章にするしかない。でも、最初は本にするとか作品にするつもりじゃなかったんですよね。お袋のことを書きたい、と思っただけで。
 ただ、それは書きなれたエッセイにも短編小説にもならなくて、何回も書き直しをして、遅々として進まずにいたんです。そこに「en-taxi」が創刊になって、誘っていただいたので、ここで書かせてもらおう、と。たぶん連載になっていなければ、まだ書き終えていないでしょうね。そういう意味ではタイミングがよかったのかもしれない。これで書きよどんだら、書く意味がないな、と思いましたから。

(中略:『東京タワー』を書き出してから、現在までそんなに時間が経っていないような気がしてならない、というリリーさんの現在の心境が語られます)

 それは『東京タワー』が書いて終わりの本じゃなかったからかもしれません。肉体的には書いたあとのほうがずっときつかった。サイン会に来てくれる人って、たとえば3時間やっていたら、いちばん最後の人は3時間立って待ってくれているわけじゃないですか。それでもきてくれる、話をしていってくれる。そのエネルギーはすごい。サイン会だけで100時間以上やっていますから、何千人かのエネルギーに向き合うのは、吸い取るのか吸い取られるのか、
わからないけど、ものすごく消耗していく部分はあるんですよ。僕は読んでいる人が何を考えているのか、どういう人なのか、聞きたい。だからサイン会では、ひとり3、4分は話をします。その分、吸い取られるエネルギーが多いのかもしれない(笑)。
 泣ける本と言われますけど、書いている間、泣いてもらいたいと思ったことは一度もありません。サイン会でも泣けましたって感想はもらいましたけど、話を聞いてみると、この本の中の世界だけで、泣いたとか感動したとかじゃなく、本の内容から読者の方が自分の家族のことにフィードバックして、いろいろ思われて、何か心に期するところが生まれるらしい。この本が泣ける本だということではなく、この本がきっかけで自分のことを考えて泣いてしまうということですよね。そうやって、いろんな方の話を聞いているうちに、泣けると言われても違和感はなくなりました。】

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 リリー・フランキーさんの「本屋大賞」受賞インタビューの一部なのですが、このインタビューではとくに、リリーさんは率直にこの作品のことを語られているような印象があって、非常に興味深く読みました。
 なんでも、「本屋大賞」は、リリーさんにとって、「みうらじゅん賞」と並ぶ、「数少ない『欲しい』と思った賞」だったそうです。

 このリリーさんのことばを読んで、僕が驚いたことは、まず、この小説の原型が、リリーさんの「オカン」が亡くなられる直前、つまり、まだ生きておられるときから書き始められていた、ということでした。考えようによっては不謹慎なことなのかもしれないのですが、そのときのリリーさんは、この作品を書くことによって、「オカン」に永遠の命を吹き込もうとしていたのかもしれません。それはまた、作家の「業」とも言えそうですけど。
 あと、リリーさんのサイン会での姿勢にも驚きました。そりゃあ、初期のモーニング娘。の握手会とか、ジャニーズのイベントみたいに何千、何万人とサイン会に人が集まることはないでしょうが、それでも、【サイン会では、ひとり3、4分は話をします】というのは、すごいエネルギーを必要とすると思います。ちょっとした病院の診察時間くらいの時間をかけて、リリーさんは、初対面の「読んでいる人たち」と話をしていたのです。サイン会で「3時間立って待っていてくれる」ということを引け目に思うのならば、普通は「さっさとサインをして、人数をさばいてしまおう」と考えますよね。しかしながら、リリー・フランキーという人が、だからこそ「ひとりひとりと、ちゃんと話をする」のです。「待たせるのは申し訳ないから簡単に」ではなくて、「待ってくれているのだから、待っただけの価値を感じてもらえるように誠実に」というのが、リリーさんの考え方なのでしょう。
 いや、初対面の人と3分間話すのって、そんな簡単なことじゃないですよ本当に。

 こうしてみると、『東京タワー』がこれだけ売れたのは、作品そのものの魅力はもちろんなのですが、作品に対するリリーさんの向き合いかたや、下世話な言い方をすれば「読んでもらうための営業努力」も大きかったのかもしれませんね。「この本が泣ける本だということではなく、読んだ人がそれぞれ自分の体験にフィードバックして泣いているのだ」と分析されているのも凄いです。
 おそらく、リリーさんにとっては、この『東京タワー』という作品は、「一生に一度の作品」だったのでしょうね。こんな書き方や売り方なんて、何度もできるようなものではないでしょううから。



2006年06月01日(木)
緒形拳さんの「今村昌平監督の思い出」

「日刊スポーツ」の今村昌平監督の追悼記事より。

(俳優・緒形拳さんの今村監督へのコメントです)

【4月27日にご子息から電話があり、病院に賭け付けました。監督は眠っていましたが「オガタ」と目を開けて気が付かれたのですが、また眠りました。私にとって、監督といえば今村監督です。いつも賑やかな現場で、しかし、ビシーッとしていて、あー男の仕事場だと思っていると、作品は見事にたくましい女の話でした。「よーい、スタート」という声にハリがあって、色気があって、格好良かったです。楢山節考の撮影初日に「何も撮るものがないので、ババア捨てたラストから撮る」「ラスト? どんな顔してたら良いのですか?」と聞くと「僕もわからないので、ボーッとしててくれ」と答えられた。つながってみたら、そのシーンがイチバン良かったのです。監督の力わざです。】

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 僕は今村監督の映画は「黒い雨」と「楢山節考」くらいしか観たことがないのですが、この緒形さんのコメントが、なぜかものすごく心に残ったので、引用させていただきました。
 緒形さんほどの俳優に「監督といえば今村監督です」なんて言わしめてしまうというのは凄いことだと思うのですが、このコメントのなかで語られている今村監督の姿というのは、颯爽としていて、色気があって、しかも洒落も利いていて、すばらしく魅力的な監督さんだったのだな、ということが伝わってきます。
 しかし、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した「楢山節考」のラストシーンに、こんな「秘話」があったとは知りませんでした。映画というのは順番通りに撮影するものではなくて、各シーンをそれぞれ撮って編集するのが常識だとしても、どう考えても映画の最も重要なシーン、しかもラストシーンから撮り始めるというのは、かなり「常識外れ」だったはずです。いくら緒形さんでも、その作品の世界に馴染んでいない状態でしょうから、「どんな顔してたら良いのですか?」と聞きたくなるのも当然でしょう。
 もちろんこれが今村監督の「作戦」だったのか、全くの「偶然」だったのかは、僕にはわかりません。でも確かに緒形さんのそのときの表情は「何もわからなくなって、ボーッとした顔」だったと記憶しています。もし、先にいろいろなシーンを撮っていて、作品に対して思い入れが強くなってしまっていれば、そんなにリアルに「ボーッと」は、できなかったのではないでしょうか。これぞまさに、「力わざ」。

 今村監督の身上は、「人間のこっけいさ、偉大さ、純粋さ、醜さを追い続ける」だったそうです。それは、監督自身の生きざまそのものだったのかもしれませんね。