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2006年05月31日(水)
この世界に、新しい浴衣の版型を増やすということ

「CONTINUE Vol.27」(太田出版)の糸井重里さんへのインタビュー「ゲームとは、母のような存在」より。

(2003年12月に東京都写真美術館で開催された「ファミコン生誕20周年・レベルX テレビゲームの展覧会」のために行われた糸井重里さんのインタビューを再録したものの一部です。糸井さんが『MOTHER』をファミコンで作っていた時代のことをふりかえって)

【インタビュアー:当時、糸井さんの発言で「ゲーム作りは箱庭療法」という言葉がありましたね。実際にゲームを作られていて、癒される部分があったということでしょうか?

糸井:まあ、僕の悩みは口にしないですけどね(笑)。そもそも「箱庭療法」ってのは、箱庭を作っているうちに、悩みと直結していないことであっても、自然と悩みが直っていくというもののわけで。個人的に、それが必要だった時期があったということですよね。たとえば、『MOTHER』ではアメリカンホームドラマのような物語にしながらも、主人公と父親を離しておく。それは、ずばり自分の状況なんですよ。そのあたりは意図的に織り込みました。「自分の子供が見るだろう」と思ってね。そういう細かい感情を端々に苦し紛れに入れることによって「僕はこういうやり方で生きてきたんだな」「これを良しとしていて、これをダメとしているんだな」ということが再確認できる。臨床心理士の人が見たら「作品は個人を写している」と言うんでしょうね。

インタビュアー:自分が作品に投影されてしまうわけですね。ところで、糸井さんは『MOTHER』を作っていた頃、いろいろな方に「ゲームを作んない?」とお誘いしていたようですけど。

糸井:それは、ずっとありましたね。「僕自身がこんなに夢中になれることなんだから、みんな作ればいいのになあ」って思っていました。そうそう、昨日ラジオを聴いていたら、(笑福亭)鶴光さんの番組で面白いことを言ってたんです。江戸浴衣を作っている、人間国宝みたいなおじいさんが出てきてね。江戸浴衣には版型があって、江戸時代から代々受け継がれているそうなんですよ。だから、版型を引き継いでいる人の間で売ったり買ったりするものなんだそうですけど、そのおじいさんが自分の息子に「買うたらあかん。誰かが買うのはいいけど、おまえが買うなら、作れ」と言ったそうなんですよ。「作ったら、もうひとつ型が増えるだろう」と。

インタビュアー:なるほど!

糸井:ゲームの世界でも、江戸浴衣でも、作ればいい。作ったら、世界のクリエイティブが増えるということなんです。「俺も、あんたの作ったゲームをやりたいしさ!」って、そんな気分でしたね。もちろん下手なカラオケを聴くのが辛いように、誰にでもお願いするのはイヤなんですけど、やっぱり文章が面白い人や、しゃべっていてアイディアが面白い人を見ていると、どんなゲームを作るのか期待したくなりますよね。もちろん、僕が宮本(茂る)さんに会って知ったみたいに「自分のアイディアを引き受けてくれるチームがないと、それは形にはならないよ」ということも併せて言っていましたけど。そうすると、みんなやる気をなくしちゃうしねえ。そこは難しかったですよ。「日本百名山を二百にしてみないか?」って話をしていたんですけどね。純粋に「これはいいな」と思えるものを増やしていきたかっただけなんですけど。】

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 原文は、糸井さんの「ゲームへの愛情」が伝わってくる素晴らしいインタビューなので、機会があったら、ぜひ御一読ください。
 ここでの糸井さんの話からは、『MOTHER』というゲームは、糸井さんにとて「創作活動」であったのと同時に、「自分を見つめなおす行為」でもあったのですね。当たり前のことなのですが、人は自分の中に無いものを「表現」することはできませんから、糸井さんは、ゲームを作りながら「自分はこんなことを考えていたのか……」と、あらためて感じていたのでしょうね。
 そして、『MOTHER』というゲームは、糸井さんにとって、「自分の子供へのメッセージ」でもあったようです。「ゲーム」という「なるべく多くの人に受け入れられてほしい商品」を作っているうちに、どんどん「個人的なもの」が反映されていくというのは、ちょっと不思議な気もするのですが、創作というのは、たぶん、そういうものだろうな、とも思えてきます。

 ここで糸井さんは、ラジオで聴いたという「江戸浴衣職人の話」を引用されています。そして、この話には、この老職人だけではなくて、糸井さんの「クリエイターの矜持」を強く感じるのです。
 この職人さんは、自分の息子に、「他人の版型を買うなら、自分で作れ」と言いました。たぶん、既成の人気のある型や美しい型を買ったほうが、手間もかからないだろうし、商品としての浴衣だって売れる可能性は高いと思うのです。でも職人は、そういう目先の利益よりも、「この世界に浴衣の版型をひとつ増やすこと」に誇りを持つようにと、息子に話したのです。
 もちろん、そうして新しく作られる版型がすべて傑作というわけにはいかないでしょうし、現実的には、受け継がれていくような「作品」になるのは、ごく一握りのものでしかないでしょう。もしかしたら、彼らの「創作」は、全く歴史に残ることなんてないのかもしれません。それでも、「新しいものを作っていこうという気概」が、「要領よく、過去の遺産を消費していくこと」よりも意味を持つ場合はあるのです。そして、そんな非効率的にみえるプライドの積み重ねが、少しずつ、全体を「進歩」させてきたのだと思います。
 
 まあ、口で言うほど「創作」というのは、簡単ではないのですけれども、それでも、「新しく何かを世界に遺そうという意思」というのは、その創作物の出来にかかわらず、素晴らしいものなのですよね。
 少なくとも、他人が作ったものを、ああだこうだと言っているだけの人には絶対に届かない「未来への矜持」が、そこには存在しているのです。



2006年05月30日(火)
「アコム」は優良企業!

「週刊SPA!2006.5/30号」(扶桑社)の特集記事「有名企業[正社員の銀行通帳]バッチリ見せます!」より。

【大久保純子さん(仮名)26歳
  年収 400万円
  貯金 760万円

 大手消費者金融・アコムの電話受付業務で、顧客からの新規申し込みや問い合わせを担当している大久保さん。
 消費者金融というと、業務停止となったアイフルの影響で業界全体が同様の体質と見る向きもあるが、アコムで働く大久保さんは「意外と居心地はいいですよ」と語る。

「就職活動のときも、私はやりがいよりも給料で会社を選びました。アコムは短大卒、6年目の私で手取り19万円。ボーナスも出ます。通帳にある4000円台の記帳は、台風のため、タクシーで帰宅した際のタクシー代。数日後には入金されてて、ホントいい会社ですよ」

 現在、親と同居の大久保さんは、毎月2万5000円、ボーナス字に10万円を給料から天引きして、財形預金を行っている。毎月クレジットカードで平均5万円程度、洋服を買い、消費生活を楽しみつつも、760万円もの貯金がある。
 しかし、仕事での精神的なストレスもないわけではない。

「女性社員は回収業務にはほとんどタッチしないんですが、それでも、月に何度かは顧客から泣きの電話が入ってきます。数週間前、入金が遅れている女性から”私、お金返せないんで、死にます”と泣かれ続け、困りました」

 さらに、アイフルの業務停止以降、「お前んところも、どうせアイフルと同じことをやっているんだろうが!」などという、怒りの電話がかかってくるようになったという。

「ウチの会社は、ほかの消費者金融と違って、弱腰なんで、法律はきちんと守っているんですよ。叩いても、ほこりは少ないほうだと思います。アイフルが業務停止を喰らったんで、アコムの顧客が増えているように思われているんすが、実は逆。遊び金を借りてくれていた優良顧客の解約が相次いでいます。新規の申し込みも激減しています。ボーナスが大幅に減りそう……」】

〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、この雑誌に取り上げられている人が、「平均的な社員」だとは限らないのですが、それでも(親と同居とはいえ)短大卒、6年目で760万円も貯金があるというのは凄いなあ、と感心してしまいます。世間的にはいろいろと問題が取りざたされている消費者金融なのですが、実際に現場で働いている人の多くにとっては、ちょっとした良心の痛みに耐えることができれば、「優良企業」であることは間違いないみたいです。以前、某消費者金融の支店への放火事件で犠牲となった女性たちがいたように、ひとつ間違えれば危険な目にあう可能性も十分あるのですけど、今は病院勤務だって、絶対安全とはいえない時代ですしね。
 それにしても、お金を借りる側の計画性の無さに比べて、貸す側というのは、非常に至れり尽くせりというか、堅実なものなのだなあ、という気がします。そういえば、JRAこと、日本中央競馬界も「優良企業」なのですよね。そりゃあやっぱり、「借りる側」になるよりは、「貸す側」になるに越したことはありません。「ギャンブルで儲ける唯一の方法は、胴元になることだ」なんていう有名な言葉もあるくらいです。

 しかしながら、「お前のところもアイフルと同じことをやってるんだろ!」なんて末端の電話受付業務の人にクレームを言ってもしょうがないと思うのですが、実際にそういうクレームの矢面に立たなければならないというのは、あまり気持ちの良いものではないはずです。そして、消費者金融の現実というのは、アイフルがどうなろうが、あまり変わりはないみたいなのです。
 結局、アイフルの事件で消費者金融に恐怖感を抱いて、お金を借りなくなる人というのは、「ちゃんとお金も返せる能力がある、ちょっとだけ遊ぶお金を借りて、きちんと期日までに返していた優良顧客」であって、「消費者金融からお金を借りないとどうしようもない人々」というのは、アイフルがどんなに酷い会社で、消費者金融業界そのものが同じような体質であっても、「借りるしかない」のです。そうやって顧客が「返さない人」ばかりになると、より取り立ては厳しくなっていくでしょうし、なんだかもう、救いようのない話のような気がしてきます。

「ご利用は計画的に」って言うけど、計画的に利用できるような人は、消費者金融から借りないだろうしね。

 でも、考えてみれば、僕たちだって住宅ローンとかでもっと多額の借金を背負っていたりもするのですから、「消費者金融から借りるなんて、バカだみたい」なんて、一概には言えないのです。
「他者に借りている」という点では、銀行相手でも消費者金融相手でも、同じことなんですよね……



2006年05月29日(月)
宇多田ヒカルと「エヴァンゲリオン」

「週刊プレイボーイ」(集英社)2006.6/5(Vol.23)号の特集記事「エヴァンゲリオン10年目の真実」より。

(「新世紀エヴァンゲリオン」のファンだという宇多田ヒカルさんへのインタビューの一部です)

【インタビュアー:最も印象的なシーンは?

宇多田:シンジ君がクラスメート2人をエントリープラグの中に招き入れて使徒と戦う第参話の『鳴らない、電話』かな? 活動限界ギリギリで絶叫しながら使徒を倒すでしょ? 私も『うわぁぁぁぁ』って泣いちゃって(笑)

インタビュアー:感情移入しまくりですね。

宇多田:エヴァに乗ることって生きることだと思う。細かく言っちゃえば、仕事をすることだったりね。こんなに辛いのに何で私は仕事をしているのだろうとか。結果的には自分で選んだことなのに。辞めたい、とデビューした頃とか思ってて……。あのナイフで使徒を刺しているシーンに私が抱くすべてが集約されていたというか。『うわぁぁぁ』でしか表現できない気持ちを感じちゃったんです、あのシーンから。

インタビュアー:エヴァには感情を揺さぶられる、と?

宇多田:まともに見れない。泣いちゃう。あまりに自分と重なり合う部分が多くて”精神汚染”されてしまう(笑)

インタビュアー:具体的にどこが重なり合うんでしょう?

宇多田:いつも”逃げたい”という気持ちとか、ね(笑)。私はずっと自分がこの世界にいないような気がしていた。消えたいとかって。15歳でデビューして、有名になって、自分が望んでいないものがポンと入ってきちゃって。周りからは『幸運』みたいな言い方をされるけど――私からするとこんな十字架みたいな役目なんかいらない――そう思っていた部分があって、普通に大学に行って、会社に入ってとか、ね。今は自分の環境とか仕事とか立場とか全部に対して和解したけど。今、実際、起きている世界でいいじゃんって。仕事を辞めても私は私だし、と考えたら、いろんな未来が見えてきて、いろんな可能性があった。気が楽になって。シンジ君が好きというか自分自身に近いから彼には共感できるのかも。

インタビュアー:放送開始から10年を超えても色あせないエヴァの魅力はどこにあると思います?

宇多田:すべての根源というか源がテーマだから。誰しもが人として、生き物として持ってる共通点の一番低い値を突きまくっているから古くなりえない。私がエヴァから感じ取ったのは、家族との距離、他人との壁、寂しい気持ち。ある種、ダシそのもの。鰹節と昆布の塊でできている作品だから、味が古くなることはない。】

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 宇多田さんが、ここまでコアな「エヴァンゲリオン」のファンだったとは!
 このインタビューによると、宇多田さんは、夫の紀里谷和明さんのススメで「エヴァンゲリオン」を観はじめたそうなのですが、本人にとっても予想外なくらいに、ズッポリとその世界観にハマってしまったそうです。
 しかし、これを読んでいると、傍からみれば「シンデレラストーリーの主人公」にしか見えない宇多田さんは、こんなに激しく己の内面と闘い続けてきたのかと、ただただ驚くばかりです。そう言われてみれば、若くして人も羨む存在になってしまったこと、社会的に有名な親との葛藤など、宇多田さんと「エヴァンゲリオン」の主人公、碇シンジとの共通点というのは、けっこう多いような気がします。シンジに対しても「エヴァに乗れるなんてうらやましい」なんて言っていた人が、劇中ではけっこういましたしね。「選ばれてしまった人間」の苦悩は、本人にしかわからない。

 外見上はむしろ「ものおじしない大物」というイメージの宇多田さんも、自分が置かれてしまった立場に対して『うわぁぁぁぁ』って心の中で叫びたくなったことがたくさんあったみたいです。
 宇多田さんは、今はそれなりに「現実と和解する」ことができたと語っておられますが、これってまさに「エヴァ」のストーリーそのもの。
 今のこの「和解」のなかでも、たぶん、多少の現実との葛藤の波はあるのにちがいありません。

 そこまでしてエヴァに乗る必要があるのか?
 それとも、「生きることそのものが、エヴァに乗って戦い続けること」なのか?
 あたりまえのことなのですが、宇多田さんも僕と同じ「人間」なのだし、宇多田さんに限らず、人はみんな、それぞれの葛藤を抱えながら生きているのだな、とあらためて考えさせられました。
 エヴァに乗れない人生はつまらないし、エヴァに乗れない人生は辛すぎる。
 ああ、「エヴァって、何なんだろう?」



2006年05月28日(日)
「脱げ」とか「何で脱がないの?」と言われるたびに

「嫌われ松子の一年」(中谷美紀著・ぴあ)より。

(中谷美紀さんの主演映画「嫌われ松子の一生」の撮影日記の一部です)

【撮影の合間には、刑事役で出演してくださっている渡辺哲さんが「この本は本当に面白いよね。最初に読んだとき泣いたもんな。どんな作品になるか楽しみだよ」とおっしゃってくださった。因みに「ねえ、脱ぐの?」なんて聞かれて「いいえ、脱ぎません」と即答すると、「何だよ脱げよ!」と言われてしまった。「脱げ」とか「何で脱がないの?」と言われるたびに、面倒くさいなあと思う。裸のインパクトに、他のシーンの演技が劣らないくらいいい演技ができるようになって、ギャラも10億円くらいいただけるくらいの大女優になったら、いつでも脱ぎますよ。まあ、そんな日は死んでも訪れないでしょうけど。】

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 【「脱げ」とか「何で脱がないの?」と言われるたびに】というくだりを読んで、女優さんというのは、けっこう頻繁にこういう不躾なことを言われているものなのだなあ、と思いました。そして、そういうセクハラ的な周囲の言葉に対しての中谷さんの感想が「嫌だ」ではなくて「面倒くさい」であるというのは、なんだかもう、こういうやりとりに疲れ果てているという印象を強く受けてしまいます。男の役者であれば、映画に出るたびに「脱いでないの?」なんて聞かれることはないだろうし。
 いや、映画の商業的な面からいえば、「有名女優がヌードに!」というのは、確かにかなりのプラスにはなると思うのですよね、やっぱり。もっとも、今のネット時代では、有名人のヌード写真集も、すぐにネット上にアップされてしまって昔ほどは売れなくなったと言いますから、映画であってもその「経済効果」は、昔ほどではないのかもしれませんけど。

 よく「必然性があれば脱ぎます」なんていうことを言う女優さんがいますが、残念ながら、多くの「有名女優が脱いだ映画」というのは、「誰々が脱いだ作品」として語られることがほとんどだったりするわけです。まあ、世の男にとっては、「裸のインパクト」を超えるような感動を与えてくれる作品というのは、まず、ありえないものなのかもしれません。極論すれば「必然性」なんて、あってもなくても裸の女性がいれば、そちらに目が向いてしまうし、それが有名女優であれば、それまでのストーリーとか彼女が演じている役柄というのは、とりあえずどうでもよくなってしまいがち。
 結局、「そのインパクトを超えるような演技」っていうのは、難しいというか、不可能なのかもしれませんね。

 でも、これを読んで、僕も「中谷さん、少なくともしばらくは脱ぐ気ないんだなあ、うーん、ちょっと残念…」と思ってしまったのも事実なのですが……

 



2006年05月27日(土)
「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ」、そして、すべての人間を殺すと…

「猟奇の社怪史」(唐沢俊一著・ミリオン出版)より。

(ロベール・サバチエ著「死の辞典」を紹介する文章のなかの一部です)

【この本の中の、一番興味深いエピソードはチャップリンの映画に関するものである。チャールズ・チャップリンの不朽の名作のひとつ『黄金狂時代』(1925年)で、山小屋の中で飢えに苦しめられたチャップリンが、自分の姿が巨大なニワトリに見えるようになった男に食べられそうになったり、靴を煮込んでうまそうに食べる場面があったりするが、サバチエ氏は、これは実際にあった事件がもとになっていると指摘する。
 それは1846年にカリフォルニア州のシェラネバダ山中であった事件で、入植者たちの一団が大雪に遭って遭難し、160人の幌馬車隊のうち18人しか生き残らなかった。生き延びた者は飢えをしのぐために、先に命を落とした仲間の死体や犬、靴などを食べて生き残ったという。あの、ドタ靴をチャップリンが食べる爆笑のシーンは、悲劇の実話がもととなっていた。しかも、『黄金狂時代』のロケは、まさにそのシェラネバダ山中で行われたのである。チャップリンもまた、死の恐怖をジョークに転じる名人であった。
 最後にもうひとつ、チャップリンがらみでこの本から。
 チャップリン後期の代表作に『殺人狂時代』(1947年)があるが、ここでチャップリン演じる殺人者アンリ・ヴェルドゥが処刑台に上がる前に言うセリフ
「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ」
 という言葉は、多くの名言集にチャップリンの言葉として引かれているが、実はギリシアの哲学者エラスムスの言葉だそうである。似たような言葉も紹介されており、こちらの方がより含蓄がありそうだ。
「一人の人間を殺すと、殺人者である。幾百万の人間を殺すと、征服者である。すべての人間を殺すと、神である」(生物学者ジャン・ロスタン)】

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 チャップリンの「黄金狂時代」の靴を食べるシーンはものすごく有名なのですが、そのシーンに、こんな悲劇的な「元ネタ」があったとは知りませんでした。今の世の中だったら、「そんな事件を喜劇映画のネタにしてしまうなんて、不謹慎な!」というクレームが出そうな話ではありますね。もしかしたら、「黄金狂時代」の公開当時には、そういう論調もあったのかもしれませんが。
 それにしても、こういう話を読んでいると、人間にとって「悲劇」と「喜劇」というのは、対極にあるようでいて、本当は「紙一重」であるような気もします。現代でも、お笑いの人たちがやるコントには「ヘンな人」をネタにして笑うというものが多いですし。
 『殺人狂時代』の「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ」という言葉も非常に有名なものです。僕もすっかりチャップリンの言葉だと思い込んでいたのですが、そんな昔の哲学者の言葉だったとは。ということは、ギリシャ時代から、人は同じことに矛盾を抱き続けていて、それはずっと、解決されてはいない、ということでもあるのです。
 「すべての人間を殺すと、神である」
 ある意味、地球上の生物にとって、人間というのは、「迷惑極まりない神」みたいなものかもしれませんね。

 そんな人間のいない世界で「神」になることに意味があるのか?なんて考えてしまうのは、凡人の発想なのだろうけど……
 



2006年05月26日(金)
リリー・フランキーに嫉妬する男たち

「週刊現代」(講談社)2006年5月27日号の酒井順子さんのエッセイ「その人、独身?」より。

【最近、周囲の同年代男性と話していてしばしば感じられるのは、
「彼等は、リリー・フランキーに嫉妬しているのではないか……?」
 ということなのでした。
 リリー・フランキーさんといえば、『東京タワー』が大ベストセラーになった他、イラストレーターなどとしても活躍している、今をときめく40代。アイドル好きとしても知られ、様々なアイドルとの親交も伝えられます。
 アイドルからはモテモテ、本もバカ売れというリリーさんに対して、今時の同世代男性というのは、ある種のいまいましさ、焦燥感、ちょっとした腹立たしさ……のようなものを感じてしまうらしいのです。『東京タワー』を読んで涙をふりしぼりながらも、
「リリー・フランキーだなんてふざけた名前しやがって、ちぇっ」
 などと、思っている。
 30代後半とか40代前半の男性といえば、今まさに働き盛りで分別盛り、家庭でも職場でも重く責任がのしかかってくる世代です。それだけでなく、昨今はお洒落もしなくてはならないしシングルモルトの一杯も飲んでモテたりもしなくてはならない。……ということで彼等は、日々大変なプレッシャーと戦っているのでした。
 そんな彼等からしてみると、意味のよくわからないカタカナ名前でモテたりもうかったりしているリリーさんは、とっても自由そうで楽しそう。羨ましさのあまりつい、
「けっ」
 みたいな発言をしてしまうのだと思うのですが。
 男性の嫉妬は、時に女性のそれよりも激しいということは、よく知られています。特にこの年代になってくると、「確かにそうかもしれないなぁ」と思うことが、私にもよくあるのでした。それというのもこの年頃になると、仕事における成功度合いというものが、次第にはっきり見えてくるからなのだと思うのですが。
 働き盛りの年代においてモテる男性というのは、明らかに「仕事で成功している人」です。いくら遊び上手でもお洒落でも格好よくても運動神経が良くても、仕事がパッとしないと「いい歳して何やってるんだ」という風に見られてしまう。
 反対に、若い時にどれだけモッサい生活をしていようと、仕事で成功さえしていれば、この時期にぐんと、異性からだけでなく、年上の人からも若者からもモテるようになるものです。服装などは後からどうとでもなるのであり、パリッとした服さえ着ていれば、多少の造作の難などどうということはない。
 若い頃にモテていたのに、中年期になってどうにも仕事の面で難があるという男性は、「中年期になって仕事が成功したが故にモテだした男性」のことが、許せないようです。その手の男性を見ると、没落した貴族が新興成金を悪しざまに言うかのように、
「あいつなんか昔、すっげぇダサくてみんなに馬鹿にされてたんだぜ。俺、サッカー部で一緒だったけど、あいつは卒業するまでずっとレギュラーになれなかったし、けっこうな大人になるまで童貞だったんじゃないの?」
 などと、相手を馬鹿にしようとするのでした。すなわち「あいつはかつて性的弱者だったのだ。その点俺はスゴかったね」という、相手を貶めるついでに自慢する、という手法であるわけですが。
 こちらとしては、
「そうなんだー」
 と聞いているものの、心の中では
「でも今となっては、あちらの方がずっと頼もし気あるし、どちらかと食事するっていったら、あちらを選ぶなぁ。現在の時点で性的弱者は、むしろあなたなのでは?」とつぶやいている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 男同士の嫉妬というのは、ときに、女同士の嫉妬よりも物悲しいことが多いというのは、酒井さんより少しだけ下の世代の僕にも、なんとなくわかってきました(ちなみに酒井さんは1966年生まれ)。ついこの間まで、「ミラクルダイブ」とかで「変なエロオヤジ」として取り扱われていたはずのリリー・フランキーさんが、『東京タワー』の大ヒットで、いまや「時代の寵児」で、グラビアアイドルにもモテモテとなれば、そりゃあ、イヤミのひとつも言いたくなります。あいつは、「どうしようもないオッサン」だったはずなのに、って。
 それがまた、こうして売れっ子になったとたんに、リリーさんの生きざまとかキャラクターなども、なんだかすごくカッコよく見えてくるんですよね。リリーさん自身はそんなに変わっていないはずなのにねえ。
 まあ、リリーさんというのは、『東京タワー』での成功とは関係なく、女性にものすごくモテる人だったのではないかなあ、と思うのですけどね。アイドル的なモテかたではないけれど、ある種の女性に対して、すごくフェロモンを出している人のような気がしますし。

 それにしても、【働き盛りの年代においてモテる男性というのは、明らかに「仕事で成功している人」です。】という文には、「やっぱりそうなんだよなあ」と思わず頷いてしまいました。僕の周りの人を見ていても、30代〜40代くらいになると、ルックスよりも「仕事ができて、自信が伝わってくる人」のほうが、モテているようです。もちろん「仕事が全て」ではないのだけれど、「仕事人間はつまらない」なんて言いながらも、女性の多くは「仕事ができる人」を好むのですよね。それこそ、頭髪に難があったり、体重増加に悩まされているような人でも、仕事ができる人は、女性にモテるのです。もちろん、同性からみても、「成功している人」というのは魅力的な存在です。ヒルズ族がモテるのは、「お金を持っているから」というのもあるのでしょうが、お金そのものよりも「成功している人のオーラ」みたいなものが大きいのかもしれません。
 そして、同性からみても「昔のアイツはダメだったのに…」なんていう人は、かなり情けなくみえるのです。もっとも、僕の場合は、昔も今もモテないので、「昔自慢」そのものが不可能なのですけど。

 酒井さんは、このエッセイの末尾を【リリー・フランキーさんの活躍に対してキーキー言っている人を見ると、「モテないかもうけてないかのどちららか、もしくはその両方なのだなぁこの人は」と思えてくるものなのであり、まぁ多少羨ましくても男の子はグッと我慢、ということで!】と締めくくられています。
 しかしながら、リリーさんの生きかたって、ほんと、ものすごくリスキーですよね。あのやりかたで成功できるのは、マンボウの卵が成魚になる確率くらいなのではないかと思うし、簡単に真似できるようなものではなさそう。ひとりのリリー・フランキーの陰に、何百倍、何千倍もの「ダメな面だけのリリー・フランキー」の屍が、累々と転がっているような気がしてならないのは、僕の嫉妬なのでしょうか。



2006年05月25日(木)
大学入試センターは、「優しい」のか、「甘い」のか?

読売新聞の記事より。

【毎春の大学入試センター試験では、解答用紙のマークシートに受験番号をマークし忘れたり、誤記したりするミスが絶えないが、センターは1984年度入試以降、これら“うっかり受験者”を全員割り出し、「0点」にせずに通常通り採点していたことがわかった。

 今春のセンター試験でも約7000件のミスがあったが全員救済された。ミスをしたことや救済については受験生本人に知らせていない。共通一次試験が始まった1979年度入試から5年間は一律0点にしていたが、「あまりに気の毒」と方針を変えた。学力とは無関係のミスを救う「配慮」なのか、それとも「過保護」なのか。文部科学省も「難しいところ」と話す。

 今春のセンター試験は約50万人が受験し、5教科で計約350万枚のマークシートを回収した。うち0・2%にあたる約7000枚で受験番号のマーク漏れ・誤記などが見つかった。昨年度も同様のミスが約6000件あった。

 受験番号のマーク漏れなどがあると、電算処理でエラーが出て採点できない。このためセンターでは、解答用紙に記入された名前や、座席順などから受験生を割り出し、手作業で受験番号を入力してきた。

 マークミスがあったことや救済については、受験生には知らせておらず、本人は何も知らないまま2次試験に進むことになる。

 受験番号のマークミスなどがあった際の措置について、センターのホームページ(HP)のQ&Aでは「個人が特定できた場合に限り、採点します」と説明していたが、実際には全員を救済してきた。一方、受験案内では「受験番号が正しくマークされていない場合は、採点できないことがあります」とだけ記している。

 同じマークミスでも0点になるケースもある。例えば「地理歴史」の試験で、「日本史A」「世界史B」など6科目のどれを選んだかをマークし忘れると、一律0点となる。「実際の選択科目がどれか、判別不可能だから」という。英語以外の受験希望者を事前申告させている「外国語」を除いて同じ扱いで、今春入試でも5教科で計54人が0点として処理された。このミスについては「0点」になることをHPと受験案内で明言している。

 共通一次試験は当初、受験番号の記入ミスを一律0点にしていた。だが、「一発勝負の重要な試験で、あまりに酷だ」との声が上がり、センター内に委員会を設けて検討した結果、救済することを決めた。センターでは「高校3年間の学習到達度を測るという趣旨も考慮し、解答とは異なる部分のミスに限定して、教育的配慮をした」と説明している。

 一方、文科省は「大学受験生を大人とみて自己責任を負わせるべきなのか、それとも子どもと見て手を差しのべるべきなのか、判断が難しい」と話す。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は朝のワイドショーでこのニュースを知ったのですが、そこでのコメンテーターたちの反応も「なんだかこれはコメントしにくいなあ…」というものでした。
 「大学入試センターも、けっこう優しいところがあるんだねえ」と感心してしまいますし、その反面、「マークミスや書き忘れというのも、本人の『実力』のうちなのでは?」という気もするんですよね。これはもう、どちらが正しいか、なんて言いきれるようなものではありません。このシステムに「救済」された人にとっては、「入試センター、ありがとう!」という感じでしょうし、逆に試験に落ちてしまった人にとっては、「もし、その人たちが切り捨てられていたら、自分が受かっていたかも…」なんていうような憤りを感じる話かもしれないし。
 それにしても、この全体の0.2%という数字は、果たして、多いのか少ないのか。僕がセンター試験を受けたときには、先生たちは、「とにかくまず先に名前を書いて、受験番号をマークして、それをしっかり確認するように」とそれこそ耳にタコができるくらいに何度も繰り返していました。たぶん、多くの受験生は、そのアドバイスを遵守していたはずです。それが正しくないと、回答の内容にかかわらず、問答無用で「0点」のはずだったのですから。
 にもかかわらず、やっぱり「受験番号のマークミス」をする人っていうのは、500人に1人くらいはいるみたいです。まあ、実際に僕が試験を受けたときの感想としては、試験中もかなり緊張していて、試験が終わってしばらく「あの答案用紙の受験番号、間違っていないだろうか…」なんて心配になっていましたから、あのときのことを思い出すと、不注意というより、緊張のあまり忘れたり、勘違いしたりしてしまう人がいるのは、けっして不思議なことではなさそうです。そして、入試センターの人たちが、人情として、こういう受験生たちを「0点」にするのに忍びないというのもよくわかるのです。
 僕個人としては、なにかと「自己責任」な世の中で、そのくらいの「甘さ」があってもいいのではないか、と思えるのです。いや、これって「生徒への救済」というのと同時に、「入試センターの職員の精神の救済」でもありそうだし。やっぱり、3年間(あるいはそれ以上)努力してきた若者たちの希望を「自己責任」で切り捨ててしまうというのは、切り捨てる側にとっても、あまり気持ちの良いものではないはずです。好きでマークミスする受験生なんて、いるわけないんだしね。

 しかし、こういう発想を突き詰めていけば、「寝坊して遅刻した受験生」だって、「解答とは異なる部分のミス」なのではないかと言われそうではあるのですけど。



2006年05月24日(水)
男に「悩み相談」をする女性たち

「週刊SPA!2006.5/16号」(扶桑社)の特集記事「オンナの悩み相談・模範解答集」より。

(3人の女性・吉田さん(仮名・22歳)、高瀬さん(仮名・23歳)、山崎さん(仮名・22歳)による、「オンナが証言!”マジメな男”ほど損をする!?」という座談会の一部です)

【司会者:皆さん、男性に悩みを相談することって多いですか?

吉田:私は何かあると地元の男友達に真っ先に相談します。

高瀬:そうだね。自分に近い男に相談するのが一番多いかな。

司会者:具体的には、どういう男性なら「相談したい」と思いますか?

山崎:やっぱり説教じゃなくて、会話をしてくれる人ですよね。

高瀬:女の感情を理解してくれる人じゃないとね。一般論で丸め込まれたり、いいことばっかり言われても全然納得できない。

山崎:確かに、女の感情を理解してくれる人じゃないとダメだわ。私、社会人になったばっかだから、仕事の相談とかよく男友達にするんですよ。そうすると、なんか、上からものを言うような答え方をされることがあって、ムカつく!

吉田:それ、わかる! 私も将来やりたいことについて相談したら、「そうなりたいからには、これこれこうしないと絶対にダメだよ。だからムリだと思う」って言われたことがあって。そういう男には二度と相談したくない。

高瀬:男って、まず否定から入るよね。特に恋愛相談すると、ひと通り話を聞いたら、「そんな男別れれば?」って即答。「私の話を聞きたくないんだ」って思っちゃう。

山崎:女の子って、正直、話を聞いてもらいたいだけじゃない? だから黙って聞いてればいいんだよ。たまに真剣にアドバイスしてくる男とかいるけど、それはそれで偉そうでウザい。オメーの意見なんて聞いてねーんだよッ!

司会者:そうだよね……。じゃあ、相談相手と何か発展しちゃうことなんてないのかな?

吉田:そんなことないよ。私の友達で付き合っているコたちいるし、私も地元の相談相手のこと、一度好きになりましたよ。

山崎:私はない。自分が寂しいときに相手の都合を無視して長電話とかできる男が欲しいだけかな。

吉田:キープか。

高瀬:私の場合は、ヘコんでるときに、優しくされるとコロッといっちゃうときはあるかな。

吉田:どんなふうにされると?

高瀬;とりあえず、悩みを相談して「でも、やっぱり」とか「だけど」とか否定形の言葉が出たらその時点でNG。まず、黙って話を聞いてくれて、それで、「オマエはいい女だから、大丈夫だよ。心配すんな」と、褒められたら一発だね。聞いて、褒めて、褒めて、慰めて酒でも呑ませときゃ、付き合えるかどうかは別としても、絶対に1回はヤレると思う。

山崎:簡単だなぁ(笑)。恋愛相談に関しては、女友達に相談するとウザがられることが多いから、男に相談するっていうのもあるよね。女友達には嫌われたくない。】

〜〜〜〜〜〜〜

 もうなんだか、言いたい放題というか、【聞いて、褒めて、褒めて、慰めて酒でも呑ませときゃ、付き合えるかどうかは別としても、絶対に1回はヤレると思う。】なんて件は、男のライターが脳内でやっている座談会なのではないかと非常に疑わしいのですけど。
 しかしながら、この座談会の記事のなかには、確かに、耳に痛い内容も書かれているような気がします。
 【男って、まず否定から入るよね。特に恋愛相談すると、ひと通り話を聞いたら、「そんな男別れれば?」って即答。「私の話を聞きたくないんだ」って思っちゃう。】
 とか言われると、「ええっ?」と驚きませんか?あれって、「そんな男別れれば?」って言ってほしいんじゃないのかね。でも、率直に言うと、そういう悩み相談をされるのって、聞き手にとっては、けっこうめんどくさいものではあります。そのうえ、真剣にアドバイスしたりすれば「それはそれで偉そうでウザい」とか「オメーの意見なんて聞いてない」なんて思われてしまうこともあるみたいだし、ほんと、それこそ「下心」でもないかぎり、悩み相談とかされるのも困りますよね。
 でも、他人と話をするときに「否定から入らない、否定形の言葉をなるべく使わない」とか、「上からものを言わない」なんていうのは、意識しておいて損はないことかもしれしれません。それはもう、男女関係にかぎらず、そういう人と話をするのって、やっぱり気乗りしないものですから。

 それにしても、「女友達に嫌われたくないから、男に相談する」なんてこともあるのですね。そう言われてみれば、同性の友達って、「一生もの」であり、「何人いても困らない」ものではありますし。

 異性の友達、とくに「男友達」って、なんだか悲しい存在です。



2006年05月23日(火)
「探偵」に向いている人って、どんな人?

「裏ハローワーク」(アンダーワーカー・サポーター・編、永岡書店)より。

(探偵に必要な資質について、都内にある探偵事務所の所長、探偵歴10年の大谷氏(仮名)に聞いた話の一部です)

【路頭に迷った依頼人が助けを求めるのが探偵だ。決して安価ではない報酬を支払うほど切羽詰まった依頼人が来るため、1時間置きに電話してくる電話魔や、用もないのに事務所に来たがる人など、変わった人が多いという。
「悩みすぎておかしくなっちゃってるのかな。ダンナの浮気調査で依頼してきた女性が自殺しちゃったときは落ち込みましたよ。
 でも、インターネットの普及で、事業所のHPを見てやってくる10〜20代の依頼者も増えました。若い子は金や浮気調査の依頼ばかりじゃなくて”昔の恩師に会いたい”とか”ケンカ別れした人に謝りたい”とかね。依頼者も探された方も幸せになるような仕事をするとボクも少し世間の役に立てたかな、と心が温まります(笑)」
 では、探偵の適性とは何か? と尋ねると我慢強さ、精神力、何事も楽天的に捉えることという答えが返ってきた。
「たとえば住宅街に10時間立ち続けたりしてるから、変人扱いは日常茶飯事(笑)。人目を気にせず、そういうプレッシャーに耐えられることも大事だと思います。
 張り込みをしてると、調査している相手に見つかって”何やってるんだ!”ってキレられることもあるけど、自分が探偵だとは決して明かしません。そんなときは”金貸しで債権者を張ってる。こっちも仕事なんだ”って言うんですよ」
 探偵の仕事内容や行動には謎が多い。仕事道具にも興味を引かれたので聞いてみると、愛用している薄型の黒いカバンからいろいろな物を出して見せてくれた。
「財布とケータイとバイクくらいしか使わないですよ。あとは数人と組んでやる場合にトランシーバーを使ったり、尾行や張り込みに使う短眼鏡、メモ代わりに使うボイスレコーダーくらいですかね。盗聴器を探す機械も依頼によっては使うけど、秋葉原あたりで揃えられる道具ばかりです(笑)。
 移動手段はバイクがいちばん! 歩行者でも、自転車、バイク、車に乗っている人でも追跡可能だし、追跡者が急に電車に乗ったとしても駅に乗り捨てられますからね」】

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 「探偵の適性とは何か?」という質問への答えが、「我慢強さ、精神力」まではよくわかるのですが、「何事も楽天的に捉えること」というのは、最初にこれを読んだときに、かなり意外な感じがしました。「探偵」って、どちらかというと、「物事に対して注意深く慎重で、苦虫を噛み潰したような表情がよく似合う渋い人」ってイメージなんですよね、僕にとっては。
 古典ミステリの「名探偵ホームズ」とか、「名探偵ポアロ」とか、あるいは松田優作の「探偵物語」の世界とは、現実の「職業探偵」というのは、かなりかけ離れた存在のようです。
 でも、この理由を読んでいると、確かに、他人の目が気になる人にとっては、探偵っていうのは辛い仕事だろうなと思います。張り込みの姿がカッコイイのは映画やドラマや小説の世界の中だけで、日常の風景にもし「探偵」がいたとしたら、それはもう、単に「不審な人」でしかないんですよね。10時間立ち続けるためには、すごく体力も要りそうだし、「探偵」というのは、世間のイメージ以上に「体育会系」の仕事なのかもしれません。
 対象者だけではなくて、依頼人にもいろいろと困った方もいるようですが、確かに「探偵を雇おう」という心境になるというのは、かなり追い詰められた状態でしょうから、「お客様」に逆ギレすることもできないでしょうしねえ。最近は、人探しなどに利用されることも多いみたいで、これは、「探偵!ナイトスクープ」の影響もありそうです。
 
 いやほんと、けっこう危ない目にもあいそうだし、興味本位でやれるような仕事ではないみたい。もっとも、少しはこういう世界に興味がない人じゃないと、やりたいとは思わないような気もしますけど。



2006年05月22日(月)
職業翻訳者にとっての「アンフェア」と「ネタバレ」

「特盛!SF翻訳講座〜翻訳のウラ技、業界のウラ話」(大森望著・研究社)より。

【とくにジャンル小説の場合には、そのジャンルの読書量がものを言う。SFにはSFの、本格ミステリには本格ミステリの、ファンタジーにはファンタジーの約束事があり、それを知らずにいると、翻訳もとんちんかんなものになりがちだ。
 たとえば翻訳ミステリなら、描写のフェアネス(読者に錯覚させるためのウソを地の文に書いてはならない)をきちんと理解して訳さないと、フェアなミステリがアンフェアなミステリになってしまったりする。
 第二回本格ミステリ大賞を受賞した『乱視読者の帰還』(みすず書房)収録のクリスティ論「明るい館の秘密」で、若島正氏が明晰に指摘する『そして誰もいなくなった』(ハヤカワ・ミステリ文庫)翻訳上の問題点は、その典型的な例。クリスティが駆使する叙述トリックに翻訳者までひっかかってしまったために、小説を注意深く読めば論理的に指摘できるはずの犯人が、翻訳だけを読んでいると指摘できない(本格ミステリとしては重大な瑕疵をはらむ)結果になっている。
 もちろん、ここまで高度な読解を要求する小説はそう多くないけれど、こうした叙述トリック的な手法(表面に書いてあることと、作中で実際に起こっていることが違う)自体は、ミステリ以外の小説でもわりとよく使われる。僕が最近翻訳した本の例で言うと、コニー・ウィリスのタイムトラベルSF、『犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎』(早川書房)でも、冒頭にちょっとした叙述の遊びがある。本文第一行は以下のとおり。

 There were five of us―Carruthers and the new recruit and myself, and Mr.Spivens and the verger. It was late afternoon on November the fifteenth, and we were in what was left of Coventry Cathedral, looking for the bishop's bird stump.

 ふつうなら、「そこにいたのは僕ら五人だった」とでも訳しはじめるところだが、そう簡単には行かない理由がある。主人公たちは、空爆によって廃墟と化したコヴェントリー大聖堂で、the bishop's bird stumpという謎の何かを探している。一行のひとり、Mr.Spivensは、わき目もふらず黙々と瓦礫の下に穴を掘り続けている――のだが、第一章のラストで、「彼」は、人間じゃなくて犬だったことが明らかになる。本筋とは関係のない軽いサプライズだが、一人称の語りを額面どおり真に受けてはいけませんよというヒントにもなっている。
 この場合、最初に「五人」と訳してしまうとアンフェア(地の文にウソを書くこと)になるし、かといって「四人と一匹」と訳すとネタバレ(作者が意図的に隠しているトリックをばらしてしまうこと)だ。ウィリスは描写のフェアネスのルールを守りつつ、Mr,Spivensが人間だと読者が錯覚するように書いているわけで、訳文でも、最後のところで読者に「え? 犬だったのかよ!」とびっくりさせるように配慮が求められる。
 小説の翻訳は、原作者のこうした意図を正しく読解するところからスタートする。英語の文章を日本語に置き換えただけでは、まだ翻訳とは呼べません。作者が読者に提供しているサービス(びっくりさせる、怖がらせる、泣かせる、騙す、怒らせる、はらはらさせる、しんみりさせる etc.)を日本の読者に日本語で提供すること。それが職業翻訳者の仕事なのである。文法的な正確さにばっかり気をとられていると、肝心の読ませどころをはずしてしまうことになりかねない。逆に言うと、小説がちゃんと読めてさえいれば、細かいところに少々誤訳があっても大丈夫。「木を見て森を見ない」のではなく、まず正しく森を見てから、一本一本の木に注意を払うこと。森が見えていれば、それほど大まちがいをする心配はありません。】

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 大森望さんが書かれた。非常に興味深い「翻訳者の心得」についての文章なのですが、これを読むと、「訳すだけ」で、「英語に詳しければできる仕事」のようなイメージがある「翻訳」とくに「海外文学の翻訳」というのが、いかに大変な仕事であるかがよくわかります。「森が見えていれば、それほど大まちがいをする心配はありません」なんて書かれていますが、正直、日本語で書かれた日本人の小説でさえ「正しく森を見ることができる」人なんて、そんなに多くはないような気がします。

 それにしても、「そして誰もいなくなった」を僕がはじめて読んだのは中学生くらいだったと思うのですが(そして、読み終えて、「なんじゃこりゃ!」と半分驚嘆し、半分呆れ返った)、「小説を注意深く読めば論理的に指摘できるはずの犯人が、翻訳だけを読んでいると指摘できない」という話は、はじめて知りました。
 正直、作者以外に、あの話を読んで「犯人」がわかる人なんて、はたしているの?と思うんですけどね。僕にとっては、「古典」に属するようなミステリって、犯人探しどころか、話の流れについていくだけでも精一杯なものが多かったんだよなあ、そういえば。
 でも、単に「正しい日本語に直す」だけではなくて、「作者の意図を読みとって、それに合わせた日本語にする」というのは、本当に大変な作業ですよね。ここで具体的に挙げられた例でいえば、”There were five of us”なんていう、中学生にでもわかるような簡単な単語の羅列を訳すためだけにも、ここまでの「気配り」が必要なのですから。大森さんは、この文章をどんなふうに訳したのか、とても気になってしまいます。
 そもそも、訳した日本語そのものが「変」では、どうしようもないわけだし、全く違う言語で、そのニュアンスまで伝えるというのは、本当に難しいことです。原著とは全く違う言語で、アンフェアとネタバレの間にうまく着地させるのって、あらためて考えてみれば、すごく高度な技術。

 これって、自分で日本語の小説を書くよりも、「翻訳する」ほうが、難しいところも多いのではないかなあ……
 やっぱり、「技術」だけじゃなくて、対象の作品への「興味」とか「愛情」が必要な仕事なのでしょう。

 これからは、海外文学を読むときに、作者だけじゃなくて、その作品を翻訳してくれている人にも、もっと感謝するべきなのかもしれませんね。
 



2006年05月20日(土)
『夫よ!あなたがいちばんストレスです』

「本の雑誌」(本の雑誌社)2006.6月号の特集記事「他人には言えないひみつの一冊=本誌読者11人のひみつ」より。

(小林小織さん(会社員+2児の母+妻)のひみつの一冊)

『夫よ!あなたがいちばんストレスです』(村越克子著・河出書房新社)

 それはずばり、「夫よ、あなたがいちばんストレスです」です。妻の立場となった人は必ず、一度は思うことだと思います。なぜ妻となっただけで、夫の母親にはなっていないのに、大の大人の面倒を見なくてはいけないのか。など、ふつふつと湧き上がってくるのを文字にしてくれてありがとうと思っています。しかし、こんな私でもどこか小心者で、普段は本に本屋さんのカバーはかけないのに、それだけはかけて本棚のすみにしまってあります。(でも捨てずにいるところが、また苦しいところです)】

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 ああ、もし僕が家の本棚に、カバーのかかった「夫よ、あなたがいちばんストレスです」を発見したら、かなりショックを受けると思います。それこそ「家庭崩壊の危機」とか悩みそう。
 本好きの人には分かっていただけると思うのですが、「その人がどんな本を読んでいるのか?」というのって、けっこう、重要な情報ですよね。興味を持っていることとか、逆に、「自分に何が足りないと考えているのか」というのは、その人が読んでいる本に顕れるような気がします。
 初めて友人の家に行ったときに、その「意外な趣味」に内心驚いてしまうようなことも少なくありません。
 しかし、それって逆に、誰かと一緒に生活していたりすれば、読んでいる本で、いろいろ勘繰られてしまうこともありえるのですよね。
 一時期流行った「話を聞かない男、地図の読めない女」なんて本が本棚にあれば、「僕が話を聞いてくれないと思っているんだな」なんて考えてしまいますし、配偶者が本棚に「失楽園」とか「愛の流刑地」をカバーをかけて置いていれば、「そんなに欲求不満なのか…?」とか思いそうです。それこそ、読んでいる本人は、単に「流行っている本だから、一度読んでみようか」なんていう軽い気持ちで買ったものだとしても。ミステリを読んでいる人がみんな殺人をやろうとしているわけないというのはわかるのだけれど、こういう身近な題材の本となると、なかなか「所詮、本は本」と悟ったりはできないのです。男なんて、自分がエロ本を読むときには何も考えていないものなのに、恋人がレディースコミックを読んでいると、「俺に不満でも…?」とか、思い悩んでしまう生き物だし。
 ほんと、「何を読んでいるのか」っていうのは、意外と「見られている」ものなんですよね。「愛の流刑地」とかの場合は、「不倫願望」だけでなく、その人の「センス」も不安になりそうですけど。

 



2006年05月19日(金)
ある老舗ケチャップメーカーを救った、一行のコピー

「ハンバーガーを待つ3分間の値段〜ゲームクリエーターの発想術〜」(齋藤由多加著・幻冬舎)より。

【アメリカの老舗ケチャップメーカーのハインツが、シェアを落としたときの話です。
 シェア低下の理由は、競合他社のケチャップがチューブで販売されていたこと。ハインツのトレードマークであるガラスのビンでは、振っても振っても中身がなかなか出てこない。いっぽう競合他社は、手で絞ると簡単に出てくる。
 これに対抗するためハインツの経営陣は、ケチャップの成分を液状に変えるか、それとも長年のトレードマークであるビンをやめるか、最後の選択を迫られていたといいます。どちらを選択しても老舗の看板イメージを大きく変えることになる。
 そのとき、あるマーケッターがこういう提案をしたそうです。
「ハインツのケチャップが、振ってもなかなか出てこないのは、それだけトマトをふんだんに使っているからです」というキャンペーンをしてはどうか、と。
 健康ブームも手伝ってか、結果、これでハインツはシェアを挽回したといいます。このときの、ホットドックを持ったカップルがジェットコースターに乗るCMは、日本でも放映されたので覚えている方もいるかもしれませんね。
 モノゴトの良し悪しというのは絶対的なものではないようです。たった一行のコピーでその価値観をひっくり返してしまうというのは、いかにもゲーム的なエピソードだなぁと思った次第です。】

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 そのキャンペーンのあと、ハインツのシェアがどうなったのかはここには書かれていません。その「価値観の転換」は、持続的なものだったのか、それとも、やはりみんな「便利なほう」に流れていって、ハインツは「看板イメージの変更」に踏みきらざるをえなかったのか……
 しかし、「同じもの」であっても、そこに添えられている一行の「キャッチコピー」の力で、人の見る目なんて、いくらでも変わってしまうものなのだ、ということが非常によくわかるエピソードではありますよね。「振ってもなかなか出ないことが、価値の証明なのだ」と言われれば、いままで単に「不便」だと思っていたことが、ものすごくありがたく見えてきたりもするわけです。
 例えば、金遣いが荒く、女性問題を起こして逮捕され、薬物漬けで亡くなったアーティストの人生が紹介されるときに「破天荒で自由奔放な生きざま」なんていうコピーがつけば、それが「価値」になってしまうように。
 この話、逆に考えれば、僕たちが日頃「価値がある」と思い込んでいるものは、必ずしも絶対的なものじゃない、ということも言えるんですよね。それこそ、「そういうイメージを植えつけられている」だけなのかもしれません。
 ミネラルウォーターのほうが安全だとか、抗菌グッズを使わないと不安だとか言うけれど、実際のところ、それらが劇的に利用者の健康に寄与しているかと言われると、それほど大きな影響はないような気がするんですよね。
 でも、誰かにそう言われると、やっぱり心配にはなるのです。

 ほんと、「モノゴトの良し悪しというのは絶対的なものではない」と僕も思います。



2006年05月18日(木)
mixiにおける仁義無き情報戦

「週刊アスキー・2006.5/23号」(アスキー)の読者投稿のページ「週アス女子部」より。

(千葉県のpSeries690さんの投稿です)

【SEをしている男子です。姉もミクシィをやっているとは風の噂に聞いていたんですが、そこはつかず離れずの距離をとっていました。しかし、偶然見つけた見おぼえのある名前……。「これは、姉の元夫じゃないか!」(姉はバツイチ)。
 即行、「このIDはアクセスブロックしたほうがいいよ〜」と携帯にメールしました。すると、電話がかかってきました。
「アクセスブロックってなに?」
 やっぱりくると思ったよ。

俺「これを設定すると、ブロックされた人は姉さんのページを見られないようになる」

姉「えーそーなん。でもさー、いま(引っ越したばかりで)、インターネットできんのや。パスワード教えたら、設定してくれる?」

俺「いや別にいいけど、それでいいの?(ってほど書き込んでないのも知っている)」

姉「でも、パスワード、コンピューターに教え込んでるから忘れた」

 シリアスパターンに行くかと思ったら、やはりいつものパターンじゃん。姉からメールが来たのは、その2日後でした。】

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 ソーシャルネットワークサービス(SNS)、「mixi(ミクシィ)」は、最近ではかなり一般的なものになってきました。雑誌やテレビなどで取り上げられることも増えてきましたし、少なくとも「ミクシィをやっている」というのが「他人に隠さなければならない」という時代ではないようです。でも、一般的になったらなったで、いろいろと困った問題が多くなってきたのも事実なんですよね。
 今までの「パソコンに詳い人のためのコミュニケーションツール」であれば、その「コンピューターの知識を持っていること」というのがSNSにとっての最大の「防壁」になっていたのですが、今のミクシィのように手軽に入れるようになってしまうと、いわゆる「ネット人格」として登録していた人にとっては、いろいろと困った自体になりうるわけです。
 たとえば、会社の同僚とか上司とかに「お前、ミクシィやってるんなら、俺もマイミクにしてくれ」とか言われて、自分の入っているコミュニティはマンガやアニメばっかりで、日記は顔文字だらけ、というような状況だとすると、「いやー、すみません、僕、ミクシィやってないんですよ」と顔を引きつらせながら断らなければならなくなるし、何かの拍子に、友人とか恋人に自分の「隠れた一面」を見られてしまうリスクもあります。
 それを防止するためには、アクセス制限をかけまくればいいのでしょうが、そうすると、「新しい繋がりの開拓」は、難しくなっていく一方です。
 「誰に見られても、困らないようにしておけばいいんじゃない?」というのは、確かに「正論」なんでしょうけどね。
 あるいは、リアルでのそういう危険に遭遇したときのために、「ダミーmixi内キャラクター」をあらかじめ用意しておくという手もありそうですが……
 
 この投稿の場合、「元夫」との経緯がわからないのでなんともいえないのですが、やっぱり、「見られたくない人」って、誰にでもいるとは思うのです。別れたパートナーに、自分の生活を覗き見されているなんて、いい感じがするものではないですよね。まあ、「ほとんど書き込みもしていない」のなら、放置しておいてもいいんじゃないかという気もしなくはないのですが、やっぱり、本人にとっては一方的に観察対象にされるのは、気持ち悪いことですよね。お互いに覗き合って牽制しあうのも不毛だし。

 ミクシィもこれだけ一般的になってしまうと、なかなか「ミクシィの中での自分」の立ち位置というのも難しくなってきます。書きたいけど、あのマイミクに読まれると困る、というような状況だって、少なくないはずです。なんだかもう、「マイミクのなかでのマイミク」を作ってくれとか、そういう話にもなってくるわけで。
 しかし、これだけたくさんの人たちが参加していて、しかもいろいろ検索もできる「ミクシィ」ってやつは、ヘタすると個人サイトよりもよっぽど「バレ」の危険性が高いのではないかと思えてきます。ここに「足あと」を残してはまずい……とか、考え始めたら、本当にキリがありません。

 あまりにブロックばかりしていると世界は広がらず、かといって、あまりにオープンだとノイズやリスクが多すぎる。
 「繋がる」って、本当に難しいものですね。



2006年05月17日(水)
小説と戯曲の一番の違いはなんですか?

「週刊SPA!2006.5/16号」(扶桑社)の鴻上尚史さんのコラム「ドン・キホーテのピアス・567」より。

【小説と戯曲の一番の違いはなんですか? とインタビューされました。
 すぐに、「はい、小説は時間を気にせず書けるので、楽です」と答えました。
 戯曲は、時間との闘いです。
 僕は、いつも、400字詰め原稿用紙210枚前後で、ひとつの芝居を書きます。これを、びゅんびゅんの速度で上演して約2時間です。が、1時間58分と2時間4分では、作品の印象が大幅に違うのです。
 戯曲やシナリオの場合は、「ストーリーを考える」ことと「自分を考える」ことが同時に要求されます。
 ところが、小説の場合は、ここまで厳密ではないはずです。400字詰めで250枚を235枚にどうしてもしなければいけない必然は、そんなに強くないと思います。
 シナリオや戯曲は、「時間とのパズルゲーム」なのです。
 よく映画評や劇評で「登場人物のキャラクターが明確ではない」なんて文章がありますが、キャラクターなんてものは、原稿用紙の枚数をいっぱい使えば、いずれは明確になるものです。
 問題は、いかに短い時間で、そのキャラクターを明確にするか、ということです。で、2時間以内の映画や演劇は時間がないので、複雑なキャラクターや特異なキャラクターを、たくさん描くことができないのです。
 小説では、比較的、キャラクターを描ける余裕があると思います。そこが、うらやましい点です。
 が、シナリオや戯曲には、自分の言葉の反応を直接確かめられる、という醍醐味があります。】

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 鴻上さんは先日初の小説『ヘルメットをかぶった君に会いたい』を上梓されたそうです。その「小説執筆体験」からの「小説と戯曲の違い」について、こんなふうに書かれているのです。
 もちろん、小説家たちだって、言葉のリズムとか全体のテンポなどを考えているはずですし、まったく「時間」について無頓着ではないはずです。いくらキャラクターを描く余裕があるとはいっても、あまりに説明的な文章が延々と続けば、読書家たちだって、そっぽを向いてしまうに決まっていますから。
 それでも確かに、ここに書かれているように「分刻み」で「読むのに必要な時間」や「1冊の作品におけるページ数」にこだわっている作家というのは、そんなにいないと思われます。

 一気に読む人もいれば、毎日少しずつ読む人もいるという「小説」に比べて、シナリオや戯曲というのは、リアルタイムで展開されていくものです。受け手が理解できなかったからといって、前にさかのぼって観なおすことはできないし(正確には、ビデオやDVDなら、「巻き戻す」ことも可能ではありますが)、どんなに素晴らしい作品でも、上演時間があまりに長いと、観るほうも間延びしてしまいます。観る側の集中力というのも、そんなに長続きするものではありませんから。一生懸命観るのも、けっこう疲れるものなのです。
 そういう意味では、「シナリオや戯曲」というのは、「制約」が多い代わりに、うまくハマれば、その場にいる人たちの「時間」をも支配できるという魅力があるのかもしれません。
 逆に「小説」というのは、読む側にとっては、自分の好きな場所や時刻に、自分なりの時間をかけて読めるという自由度があるのもひとつのメリットなのですよね。僕がページをめくらないかぎり、世界は動かない。

 同じ「文章で世界を構築する」という行為に見えても、その性質というのは、けっこう異なる面も多いみたいです。もちろん、共通しているところも多いのですけどね。
 確かに、有名な作家は必ずしも有能な脚本家ではないし、逆もまた然り、だものなあ。
 
 



2006年05月16日(火)
泣きながら、「しめた、書くネタができたぞ」と喜ぶ習性

「いい歳旅立ち」(阿川佐和子著・講談社文庫)より。

(関川夏央さんが新聞のコラムで「生殖期以降の固体は種全体のためには邪魔である」と(弱気に)書かれていたという話を紹介したあとで)

【しかしここで考える。生殖期以降の人生は、それほど悲劇か。残る人生はひたすら悲観的なのか。
 脚本家の三谷幸喜氏に会った。氏は若い頃、失恋のかぎりを尽されたそうである。しかしご本人はどれ一つとして失恋とは思っていらっしゃらない。好きな女性から電話がかかってこないと、恥じらっているのだろうと想像する。かけてみて話し中だと、ちょうど自分にかけようとしているに違いないと了解する。愛しい人が、前のボーイフレンドと寄り添っているところを目撃しても、「きっと僕という新しい恋人ができたことを説明しているのだろう」と解釈する。そのあげく、彼女自身にはっきり振られても、その人の幸せを祈って静かに身を引くだけだとおっしゃる。
「そういうとき、落ち込んだり、相手を恨んだりしないのですか?」と伺うと、
「それはないですね。当時からモノを書いていましたから、このネタはいずれ使えるなと思ってた」
 その言葉を聞いて、思わず膝を叩きたくなった。三谷さんには及ばないながら、私自身にもそういう癖がある。悲劇を悲劇と思わない。わんわん泣きながらどこか頭の片隅で、「しめた、書くネタができたぞ」と喜ぶ習性がある。
 これはモノを書く商売の人間にかぎったことではないと思う。他人に話す話題として悲劇はもっともインパクトに富んでいるのである。かつて私なりに悲しいことがあったとき、友達が笑いながら言いおった。
「いいじゃない、歳取って老人ホームで話題に事欠かないから。きっと人気者になれる」
 三十年ほどのち、ペシミスティックな関川さんと入れ歯を鳴らしながら、いかに悲しい生殖期以降の人生だったかを、自慢し合ってみたい。】

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 このあいだ、「エンタの神様」に出ている女性の芸人さんで、こんなふうに「相手の男の行動をなんでもポジティブに解釈してしまう女」のネタをやっているのを観たような記憶があります。ポジティブ思考というのは、度が過ぎればある意味コミカルですらあるのです。ネガティブ思考に陥りやすい僕の場合はむしろ、「電話がつながらなかったら、僕からの電話を嫌がっているんじゃないか?」とか考えたり(現代の携帯電話なら、なおさらね)、はっきり振られたら、しばらくの間は、素直に相手の幸せを祈る気分にはなれそうにありません。
 とはいえ、この三谷さんのエピソードのように、どんな悲劇に対しても、「いつかネタにすればいいや」というように考えていくのも、ひとつの「人生を楽しむ方法」のような気はします。恋愛が終わるときなんて、泣いても喚いても、結局のところ、結論は変わらないことがほとんどですし。
 もっとも、いくらそんなふうに考えようとしても、そんなに簡単に割り切れないのが人間ってやつなんですが。

 しかし、こういうふうにネット上に日記を書いていたり、ブログをやっていたりすると、日々のちょっとした失敗などは、「ネタになるな」なんて、つい考えてしまうのも事実です。確かに、日常会話においても、「自慢話」よりも「身近なちょっとした悲劇」のほうが、はるかにコミュニケーションを円滑にしてくれそう。もっとも、こういう発想が暴走してしまうと「ネタにするための人生」になってしまって、「劇場型犯罪」を起こしてしまう可能性もあります。そこまで行き着いてしまう人というのはごく一部なのだとしても、そのあたりの匙加減っていうのは、書いてご飯を食べているわけでもない僕たちにとっては、非常に難しいところです。

 実際は、「ネタにできる程度の悲劇」ばかりではないことも事実だし、例えば大災害に遭ったり、犯罪に巻き込まれたりしたような「悲劇の記憶」というのは、「老人ホームで人気者になる」ためには役立たないかもしれませんけど。



2006年05月15日(月)
ジーコ監督をめぐる伝説と神話

「日刊スポーツ」2006年5月15日号のワールドカップ特集記事「ジーコ、11の神話」より。

(サッカー日本代表のジーコ監督のさまざまなエピソードを集めた記事の一部です。取材は、岡本学さんとエリーザ大塚さん)


<記者であり、ジーコの窓口を務めたラウル・クアドロス氏の証言>
 ジーコがフラメンゴでプレーした74年、サウジアラビア、クウェート、ギリシャなどを回るツアーがあった。どこへ行っても人気だったが、とくにジーコのパスはすごかった。ジーコのチームメイトにダダという選手がいたんだが、あまりに素晴らしいパスを連発すつジーコに文句をつけたんだ。「あまりきれいなパスを出すと、自分の責任が重くなる。奪われたときに『何やってんだ!』ってヤジがすごいから」。観衆から批判されないために、ジーコのパスを拒絶したんだ。
 21歳にしてジーコは伝説をつくった。

<鹿島MF本田泰人選手>
 プレーヤー時代も、TD(テクニカルディレクター)になってからも、とにかく守備のことについては口やかましく言われた。攻撃的なポジションの選手だったけど、守備重視の指導者というイメージに近い。当時は中盤ダイヤモンド形。本田技研から入団したときは、こんな組織的な守備があるのかと新鮮だった。オレは当時ワンボランチでスタメンにいたから、ジーコにポジショニングや攻守のバランスの取り方をよく言われた。
 現役時代から、周りの選手のモチベーションを高めるのがうまかった。試合前の円陣で、必ず気合を入れるための言葉を選手に言っていた。内容はシンプルだったけれど「いいか、みんな。この試合の重要さは分かっているな。勝ちに行くぞ」とか。あのジーコが率先して、顔を真っ赤にして気持ちを高めている。オレらがやらずに誰がやるんだって気持ちにさせられた。
 代表では選手を信頼、選手たち自身が考える「自由なサッカー」を展開しているが、昔は口うるさかった。試合前に選手に気合を入れるのは変わらないが「サッカーを楽しんでこい」が代表で選手を送り出す際の合言葉になっている。

<日本協会の福士一郎太プレスオフィサー>
 監督は理想の上司、理想の先輩、理想の父親ですね。04年夏のアジア杯の記者会見で、用意されているはずの英語の通訳がおらず、急きょ、自分が担当することになったんです。ある海外メディアが「通訳が良くない」と会見をさえぎるようにクレーム。これに対して監督が「通訳が用意されていないのは、チームの責任ではない。一郎太は君たちのために特別にやってるんだ。文句を言うなら大会側に言え!」とかばってくれたんです。
 「ファミリー」と表現されるが、ジーコ監督はスタッフを大事にし、信頼して仕事を任せる。偉そうなスーパースターではない、ジーコ監督は理想の上司として信頼されている。】

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 サッカーファンからは、何かとその「無策」を否定される機会も多い日本代表のジーコ監督なのですが、こうしてさまざまな「神話」を並べられてみると、やっぱり凄い人なんだなあ、という気がしてきます。
 「あまりにパスが素晴らしすぎて、チームメイトに『俺にパスを出さないでくれ』と言われたなんて、まさに「伝説的」ではありますよね。しかし、ダダ選手、いくら顔見世興行的な側面がある世界ツアーだからって、それはあまりにも弱腰すぎるんじゃないかね。
 選手としてのジーコの凄さは、語りつくされていることではあるのですが、本田選手や福士プレスオフィサーの話などを読んでいると、「リーダーとしてのジーコ」も、かなり良い面がたくさんあるのだなあ、と感じます。もちろん、周りの人たちも「あの(名選手の)ジーコが!」という目で見ていますから、ちょっとしたことでも、【あのジーコが率先して、顔を真っ赤にして気持ちを高めている。オレらがやらずに誰がやるんだって気持ちにさせられた。】なんて、士気高揚の効果もアップするのでしょうけど。トルシエだって、「顔を真っ赤にして」いたけれど、あれはどちらかというと、「ヒステリックなキャラクター」だと認識されていましたから。
 選手としての実績や知名度に劣るトルシエ監督やオフト監督の場合は、同じことをやっても周囲の「感激度」は低いでしょうから、「理論武装」していかざるをえない面もありそうです。
 それでも、「名選手、必ずしも名監督ならず」という言葉は広く知られていますし、そういう「当たり前の気配り」ができる「名選手」というのは、少数派なのかもしれません。マラドーナは、さすがに極端な例、だと思うのですが……
 考えてみれば、「あのジーコが監督をやっている国」というのは、ものすごいことなんですよね。ただ、今の日本の実力で、ジーコが望む「正攻法」が通用するかどうかは疑問なんですよね。
 ジーコがもし、「正攻法が通用する国」、たとえばブラジル代表の監督だったら、優勝しちゃったりするんじゃないだろうか。
 



2006年05月14日(日)
「失われた」日本と「捨てられた」日本

「立喰師、かく語りき。」(押井守著・徳間書店)より。

(この本のなかの押井さんへのインタビュー「今こそ戦後史を総括せよ!」の一部です)

【インタビュアー:さっき、戦後派知識人が詠った「喪失」についてお伺いしましたが、一方、押井監督自身も、映画公開前に行われたイベントで、対談相手の鈴木敏夫さんに「戦後というのは大切なものがどんどん失われていく過程だった」とおっしゃっていましたよね。実際、我々は何を失って「今」という時代を生きているのか――そのあたりを少しお伺いできますか?

押井:あの「失った」という言い方は、たぶん正しくないんだよね。イベントのあと考えたんだけど、「失った」という言い方すると非常にノスタルジックに感じるわけで、『三丁目の夕日』的な世界に直結しちゃう。
 僕は逆に、『三丁目の夕日』で描かれたような、ああいう貧しい世界っていうのが、子供の頃から大嫌いだったんだよ。子供のとき何がいやだったかっていうと、貧しい日本の現実が一番嫌だった。埃っぽくて汚らしくて喰うものもロクなもんじゃない。要するにTVで観てるアメリカ文化、あれに憧れてたんでさ。冷蔵庫に牛乳がいっぱい入ってて、学校でまずい給食喰うんじゃなくて、カフェテリアで好きなものをとってっていう。
 だから「失われた」というより、別な可能性を踏み潰したって気がするんだよね。「失われた」と言うと何か神様とか天とか運命的なものを感じちゃうけど、そうじゃなくて、明らかに意図的に踏み潰したんだよ。
 じゃあ「何が踏み潰したんだろうか」って言うと、60年安保とか70年安保の、ああいう政治闘争みたいなものに直結してるんだよね、僕の中では。】

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 押井さんは1951年生まれですから、僕より20年くらい年上です。僕は正直、60年安保とか70年安保というものに対する実感はないのですけど、その一方で、ここに書かれていることもわかるような気がするのです。
 僕が子供の頃の日本は、日々の食べ物に困るほど貧しくはなかったけれど、コンビニもビデオも普及しておらず、ハーゲンダッツやレディーボーデンのアイスクリームなんて風邪でも引かないと食べられず、もちろん、携帯電話もテレビゲームもありませんでした。そして、僕たちが子供のころもやっぱり、「もっと豪華なお菓子を毎日食べたい」「アメリカ人みたいに大きな家に住んでみたい」なんてことを考えていたものでした。

 最近、便利さを追求するあまり、かえっていろんなしがらみだらけになってしまっている現代に疲れ果て、「旧き良き戦後の高度成長期」の日本を懐かしむ人が増えています。ここで挙げられている『三丁目の夕日』なんて、まさにその典型例ですよね。
 でも、僕たちはあの映画に「失われた日本」を見つけて懐かしむのですが、実は、その日本は「失われた」ものではなくて、僕たちが「捨てた」あるいは「選ばなかった」日本なのです。もしみんなが、夜は家でのんびりするべきだと考えていたならば、こんなに日本中に24時間営業のコンビニができることはなかっただろうし、家に居ない人にまでわざわざ連絡を取る必要はないと判断していたならば、こんなに携帯電話が普及することはなかったはずです。
 でも、こういう「便利さ」というのは、一度身についてしまうと、もう、手放すことは難しくなってしまうのですよね。
 今の日本というのは、たぶん、僕たちが「望んでいた」日本なのです。食べ物の多くにカロリー表示がされていたり、携帯電話に「公共モード」が必要になってしまった、豊かすぎる、便利すぎる国。
 それなのに、なぜ、「こんなはずじゃなかった」って、つい、考えてしまうのでしょうか……
 



2006年05月13日(土)
「私にとってはブログで発表するほうが怖いです」

「ダ・ヴィンチ」(メディアファクトリー)2006年6月号より。

(「第1回ダ・ヴィンチ文学賞」の大賞受賞者、前川梓さんの紹介記事の一部です。取材・文は江南亜美子さん)

【まさに、小説家になるべくしてなったようなエピソードだが、それだけじゃないのが前川さんの文章力。大学時代、アルバイトをした老人介護施設で、彼女に書くことの力を再認識させる、ひとつの出来事があった。「あるとき先輩にオムツの実体験を勧められたので、本当に一日をはいて過ごしてみたんです。そしたら冷たくて、不快で。これは書かなあかんなあって、絵付きの『オムツ体験記』を徹夜で書きました。それが後日、介護士さんたちに配られることになったんですけど、みなさん、初心に帰れたと言ってくれて。実際にお年寄りの方からも『最近、何かが変わった』という言葉を聞けたんですよ。書くことで何かが変わるという体験は、本当に大きいものでした」。
 同じ頃、もうひとつの転機も訪れる。「shin-bi」という、母校の京都精華大学が運営するお店の文章表現講座に通い、自作の小説が他人に評価される機会を得るのだ。
「介護の体験から生まれた短篇――おばあさんを主人公にした物語――をみんなに読んでもらったんです。『私を馬鹿にしないでちょうだい』というセリフなんかも出てくる、暗めのものでした。でも「鋭くなったね」と、いい反応がもらえたことで、小説って何書いてもいいんだ、ポジティヴな内容じゃなくてもいいんだと、ある意味で解放されて、書くことがよりいっそう気持ち良くなったんです」。
 ただし、そこからすぐ新人賞応募につづくのかと思いきや、前川さんは余人には想像もできない行動に出る。小さなサークル内だけで評価されて安心している自分に不安を感じ、まったくの他人に自作を読んでもらおうと、書いたものを道ゆくひとに配ることにしたのだ。
「さっきのおばあさんの話を含めた4つの短篇を学校で30部ほどコピーし、メルアドと名前を書いた付箋をくっつけて四条の駅前で配ったんです。心の余裕がなさそうな人には渡さない、って基準を決めて。だって捨てられそうやから」。屈託なく笑顔で話す前川さんに、怖くなかったですかと訊ねるものの「私にとってはブログで発表するほうが怖いです。配るときはいちおう、相手を選んで渡せますから」とのこと。ちなみに、30人中2人から感想のメールが届いたそうだ。】

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 第1回の「ダ・ヴィンチ文学賞」を受賞した「ようちゃんの夜」の作者は、1984年生まれの前川梓さん。「ダ・ヴィンチ」には前川さんの近影も載せられているのですが、誰もが振り返る超美人、というわけではないけれど、感じの良い人だなあ、という印象を受けました。いや、彼女にだったら、自作の短篇を配られても、読んで感想を返信してしまうかもしれないな、とか邪なことを、ちょっとだけ考えてみたりもしたのです。ヘンなおじさんに「僕が書いた小説です。感想ください!」なんて言われても、関わるのもごめんこうむりたいですが。
 まあ、そんな与太話はさておき、この、前川さんが「書くこと」ハマっていくプロセスは、非常に興味深いものでした。「自分が書いたもので、『何か』が変わっていくということ」が、彼女をよりいっそう表現の世界に向かわせる原動力になったようなのです。どのような内容だったのか、読んでいない僕にはわかりませんが、「オムツに対する不快感」というのは、たぶん、言葉にするだけではその場で「そうだよね…」と頷きあって終わってしまったり、多くの人に感覚として伝えることはなかなか難しかったのではないでしょうか。でも、「書くこと(あるいは、描くこと)」によって、それは、より明確なイメージとしてみんなに共有してもらえるのです。
 僕がこの文章のなかでいちばん印象に残ったのは、前川さんが「自分の作品を読んでもらう人」として、「不特定多数」ではなくて、「道ゆくひと(心の余裕がありそうな)」を選んだということでした。今の作家志望の人たちの感覚としては、「道ゆく人に手渡しで作品を渡すなんて、めんどくさいし、受け取ってもらえなかったら落ち込むし、感想なんてもらえるわけないし…」というのが一般的なものではないでしょうか。僕だって、こうやって文章を書けるのはネット上で「お互いに誰だかわからない」からであって、「僕が書きました!」と誰かに手渡しで読んでもらおうとする気にはなれません。でも確かに、「不特定多数の、悪意の人に読まれるブログよりも、自分で相手を選んで渡せる『手渡し』のほうが怖くない」というのもわかるような気はするのです。ブログには「悪意の読者」だって当然含まれているでしょうから。
 それでも、こういう「手渡し」って、「道ゆくひとへの信頼」と、その「道ゆくひとを見る目」に自信がなければ、なかなかできないことではありますよね。そういう感覚は、これからの前川さんにとっての最大の武器なのだろうなあ、と思います。
 もちろんそれは、弱点になっていく可能性もあるのだけれども。



2006年05月12日(金)
「生きていくっていうのは、満員電車に乗るようなもの」

[毎日かあさん3〜背脂編」(西原理恵子著・毎日新聞社)より。

(この本に収録されている、西原さんと「アンパンマン」でおなじみの漫画家・やなせたかしさんの対談の一部です)

【西原:私、自分のことを「スキマ商品」って言っているんです。少年ジャンプで一番になるとか、そういうのは最初から無理ですから。自信があったらミニスカパブにもエロ本にも行ってません。絵だけだと自信がないから、字も書いちゃえ、とか。

やなせ:「上京ものがたり」なんて、絵より文章が多いからねえ(笑)。でも、僕はあの作品がとくに好きだ。何かしら「西原風」というものが出来ている。
 生きていくっていうのは、満員電車に乗るようなものでね。その中で自分の席を見つけるということなんですよ。満員でも、まず無理やり乗っちゃうこと。そして、降りたらダメ。乗ってさえいれば、貧乏でも何でも、必ず糧になる。ミニスカパブも、夫と別れるのもね(笑)。
 僕は漫画はずーっと売れなくてね。「アンパンマン」も50歳過ぎてからですから。それでも、ずっと書いていました。家に閉じこもって、何の目的もなく書いていた。ダメになる人を見ていると、書いていない。書かずに理屈ばっかり言ってる。売れなくて時間があれば、そのぶん書けるじゃない。だから「仕事が来たら書く」というのはダメなんだ。来なくても書いてなきゃ。電車を降りさえしなければ、少なくとも終点近くでは席は空くもんだ(笑)。

西原:私なんか、席が空くのを待てずに、勝手に補助席出しちゃった(笑)。そのスキマの席で認められたから、安心は生まれましたね。ただ、さっきの先生の話じゃないけど、それでダメになったと言われることがありますし、自分でもダメになっちゃうのかなあ、と。】

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 漫画家というのは、早熟の天才が多い職業ですから、やなせさんのように50歳を過ぎてから大成功を収めるという人は、ごく稀な例ではあるのです。だからこそ、「見切りをつけて降りてしまう」人も多いので、「満員電車から降りなかった人」である、やなせさんの言葉には非常に重みがあると言えるでしょう。
 もちろん、満員電車に乗り続けたからといって、すべての人に席があるわけではありません。とくに、表現の世界というのは、終点に向かっていくのではなくて、山手線みたいな環状線なのではないか、という気もするのです。
 どんなに席が空くのを待っていても、次から次へと新しい人が乗ってきて、結局、いつまで経っても「座れない人は、座れない」のではないか、と。
 それでもやはり、降りてしまっては、そこでおしまい、なんですよね。

 やなせさんは、この話のなかで、【ダメになる人を見ていると、書いていない。書かずに理屈ばっかり言ってる。】と厳しいことを仰っておられますが、確かにその通りなのです。人は、他人から評価されないとやる気を失ってしまいがちだけれど、そこで不貞腐れてしまっても、何のプラスにもなりません。他人の文句ばかり言っていても、自分の作品がよくなるわけでもないのですよね。
 待たなければならないこともあるけれど、待っているばかりではチャンスは来ない。チャンスの女神には前髪しかない、なんて言いますし。実際は、どこが前髪だかわからないまま、女神は通り過ぎていってしまう場合も少なくないのですが。

 ただ、やなせさんや西原さんは、あくまでも「成功した人」であって、本当に席が空くのを待って満員電車に乗り続けるのがいいのか、補助席を出そうとしてみたほうがいいのか、席が空きそうもなかったら空いていそうな他の電車に乗り換えたほうがいいのか、あるいは、そこまでして電車に乗る必要があるのか? 正直、僕にはその「正解」が、よくわかりません。

 いつか終点に近づいて自分の番がまわってくるはずの電車が環状線で、もう、乗り換える時間の余裕もなくなっていたとしたら……
 それって、「悲劇」だとしか言いようがない話ですよね。
 それとも、「いつか座れる」と思って乗り続けることそのものが「幸せ」なのだろうか?



2006年05月11日(木)
世間の敵意が、被害者に向かうんです。

「約束された場所で」(村上春樹著・文藝春秋)より。

(村上春樹さんと河合隼雄さんの対談「『アンダーグラウンド』をめぐって」の一部です。『アンダーグランド』は、村上さんが地下鉄サリン事件の被害者の方々に事件当時のことについて行ったインタビューを集めた本です。河合隼雄さんは、高名な臨床心理学者)

【村上:本に納められた証言を読まれて、この人には治療が必要じゃないかと思われた例はありますか?

河合:それはありません。ただ読んでいて「これはつらかったやろな」と思いました。「おかしい」というのではありません。こんな目にあっているんだから、そんな具合になるのは当たり前なんです。これはむずかしいんだけど、PTSDというのは変な人がなるんじゃなくて、普通の人がなるんです。だからそのときに「俺は変じゃないんだ。普通の人間はこうなるんだ」ということがわかったら、それは楽になりますよね。そのときに相談できる人がいたらよかっただろうなと、読んでいてそれはものすごく思いました。そういう意味で気の毒に思いました。

村上:そうですね。相談できる人がいないというのは、ものすごく大きなことだと思いました。

河合:うっかりそんなことを口にすると、「なんやお前、変なやつやな」と思われたりもします。僕も震災のときにずいぶん言ったんです。そうじゃなくて、おかしくなるのが当たり前なんだと。普通の人がそうなるんだと、すごく強調しました。それがずいぶん役に立ちました。あれで助かりましたって、あとになって言われました。

村上:いちばん気の毒なのは、会社がわかってくれないというケースですね。会社に向かう途中で被害にあって、いわば労災なんですが、それでも会社は全然斟酌してくれない。それどころか戦力にならないということで切られている人がけっこういます。

河合:日本人というのは異質なものを排除する傾向がものすごく強いですからね。もっとつっこんで言えば、オウム真理教に対する世間の敵意が、被害者に向かうんです。被害者の方まで「変な人間」にされてしまう。オウムはけしからんという意識が、「なにをまだぶつぶつ言っているんだ」と被害者の方に向かってしまうんです。そういう苦しみを経験している人も多いと思いますよ。

村上:震災のときもそうですが、最初に興奮があって、それから同情みたいなのに変わって、それがすぎると「まだやってるのか」というのに変わってしまうんですね。段階的に。

河合:そのとおりですね。オウムに対する汚れとかそういういろんなイメージが、被害者の側におぶさってくるんです。ものすごく変なことなんだけど、そういうことが起こってしまう。非常に気の毒です。】

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 ああ、なんだかこの話を読んでいて、僕自身も「異質なものを排除する日本人」のひとりであるということを、あらためて思い知らされたような気がします。
 最近の例でいうと、北朝鮮へ拉致された被害者の「家族会」に対する僕の印象も、まさにこの【最初に興奮があって、それから同情みたいなのに変わって、それがすぎると「まだやってるのか」というのに変わってしまうんですね。段階的に。】というのにあてはまるような気がして。
 彼らが、次第に社会的影響力を持ってきて、国会議員に立候補したり、「北朝鮮と戦争をしてでも!」なんて発言をしているのを聞くたびに、なんだか、「なんだかこの人たちは、自分たちの『悲劇』に酔っているだけなんじゃないか?」なんて気分になってしまったこともあったのです。
 考えてみれば、彼らの大部分が望んでいることは、「ここにいるべき人を、いるべき場所に帰して欲しい」という、ごくごく当然のことなのに。そして、彼らの「要求」というのは、達成されて、ようやく他の「普通の人々」にとっての「スタート地点」に立てるくらいのものなのに。
 「スタート地点」に立つために、人生の多くの時間を費やしてしまうというのは、ものすごく悲しいことですよね、本当は。そして、人がそういう状況に置かれれば、なりふりなんて構っていられないのも当然です。いやまあ、だからといって、日本人全員が「日本も核武装すべきだ」というような発想を共有する必要はないとは思うのですけど。
 それにしても「温度差」というのは、日々広がってきているような気がしてなりません。

 誰かの病気に対する周囲の反応というのも、まさにこんな感じのことが多いのです。最初はみんな同情して、「仕事代わりにやってあげるよ」とか、「休んでていいよ」なんてサポートしてくれるけれど、その期間が長くなっていくと、それぞれ自分の仕事がありますから、「本当に具合悪いの?」とか「なんか働いているほうが損だよなあ」なんて思うことが多くなってきます。根本的には「そういう社会が悪い!」のだけれども、シワ寄せを受ける側としては、そんなまだるっこしい「社会の改革」の前に、自分がラクになりたいというのが、率直な気持ちでしょう。100年後の労働環境改善より、明日の残業が無いほうが、正直嬉しい。
 会社だって、プロセスがどうであれ、「あまり仕事もせずに具合悪いとばかり言っている社員」を雇っているというのは、あまり望ましくないはずです。もちろん、そういうプロセスに対して配慮するというのが「理想の社会」だとは思うのだけれど、次第に周囲の反応が冷淡になっていくのは間違いなさそうです。

 拉致事件にしても、PTSDにしても、本人たちの責任ではないことのはずなのに、「運が良かっただけ」で「当事者」にならなくてすんだ側の反応は、けっこう冷淡なものなのですよね。
 あまりに身のまわりのすべてのことに「当事者意識」が強すぎると、それはそれで生きていくのは辛そうではあるのだけれど。



2006年05月10日(水)
「急須のフタ」と日本人

「ゴハンの丸かじり」(東海林さだお著・文春文庫)より。

【いよいよ急須の出番です。
 急須のフタを取ってお茶っ葉を入れる。
 ジャーポットをブシュブシュ押して急須にお茶をそそぐ。
 1分待つ。
 2、3回軽くゆすって湯呑みにお茶をそそぐ。
 このとき油断をすると急須のフタが転げ落ちる。
 親指でフタを押さえつつそそげばいいのだが、たまに不精して、今回ぐらいは多分落ちないだろう、なんて思っているときに限って転げ落ちる。
 いえ、わたしは56年生きている主婦ですが、ただの一度も急須のフタを転げ落としたことはありません、という人がいたら申し出なさい。
 全日本急須のフタ協会から表彰されるはずです。
 それにしても、急須のフタってずいぶん無責任だと思いませんか。
 ただ乗っかっているだけ。
 もう少し自助努力というか、転げ落ちまいとする努力とか、そういう考えがあってもいいような気がする。
 考えてみると、急須のフタはいかにも日本人的な考え方で作られていることがわかる。
 契約社会ではなく、日本人同士、言わず語らずのうちに成立する黙契の製品・
 つまり、急須のフタは、使い手が手で押さえてくれるものと安心しきっているわけです。
 安心されちゃどうしようもないな。
 手で押さえないこっちが悪い。
 製造者責任なんてことを言い出す社会では、こういう製品は多分許されないだとうな。
 急須のフタに紙が貼ってあって、「警告 この製品のフタはしばしば転げ落ちることがあります」なんて書かなければならなくなる。
 先刻承知だって、こっちは。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕はこれを読みながら、アメリカで売られている急須には、本当にこの手の「警告」がついていたり、ものすごく分厚い「取り扱い説明書」がついているのではないかなあ、などと考えていました。そもそも、急須を使う機会そのものが無いのかもしれませんが。
 しかし、あらためてそう言われてみると、あの急須というのは非常に不思議な製品ではあります。そもそも、どうしてああいう形になったのでしょうか。必要以上に重いものが多いような気がするし、確かに、あのフタを落としたことが無い人というのはそんなにいないはずです。このくらい傾けても大丈夫だよね、とか甘く見ているときにかぎって、フタがごろんと転がり落ちてしまって運が悪ければ割れてしまったりもするのです。あのフタが割れてしまったら、急須としては使えないですしねえ。

 現在の技術であれば、もっと丈夫で軽くてフタが落ちない急須というのも作れるはずなのではないかと思います。いや、あのくらいフタが開けやすくて、片手で操作できるくらいでなければダメなのかもしれませんが(片手にヤカンを持ちながらお湯を注いだりもするわけですから)、それでも、あのフタの不安定さによる危険性を考えれば、「ちょっと開けるのがめんどくさい代わりに、わざわざ手で押さえなくても、フタが転がらない急須」がもっと普及してもいいような気がするのですけど。
 そういう点においては、急須という道具ひとつをとってみても、日本人の「伝統へのこだわり」というのは、意外と根強いものなのかもしれませんね。



2006年05月09日(火)
「ランキングに参加中!」

「ブログ進化論」(岡部敬史著・講談社+α新書)より。

(「ランキングサイトは面白くない?」という項より)

【面白いブログの探し方は、この「好きなブログのお気に入りを見る」というのが、王道の正解だと思うのだが、「ブログのランキングサイトに面白いブログを探しに行けばいいのでは?」と思う人も多いだろう。
 ブログのランキングサイトには、ブログプロバイダが提示しているようなアクセス数によって序列を決めるものだけではなく、各自のブログからそのランキングサイトへ誘導した数によって序列を決めるものがある。
「ランキングに参加中! 面白いと思ったらクリックしてください!」
 こういった表示を見たことがあると思うが、これがこのタイプのブログランキングに参加しているブログである。ここで指定のアイコンが何回クリックされたかによってランキングが決定されるわけだ。
 このランキングサイトでは、文字通り多くのブログが順位付けされているので、上から順番に見ていけば面白いものが見つかりそうに思える。
 しかし、こういったタイプのブログランキングでも、それほど面白いブログに出会えないのが現状だ。もちろん、なかには興味深いブログも数多くあるのだが、全体的に見るとその総体的な質は決して高いとは思えない。
 それは、「ランキングに参加中! 面白いと思ったらクリックしてください」というちょっと主張の強い掲示をしなくてはならないことに起因していると思う。
 僕は編集の仕事をしている関係で多くの人の原稿を読むのだが、ライターとして原稿の上手い、下手を判定する基準のひとつに”自分の話をどう書くか”ということがある。
 つまり、書き手のポジショニングをどうとるのか、ということだ。
 基本的に読む側というのは、書き手のことなどにあまり関心がない。そこに書かれている情報(これは笑わせるなエンターテインメント感覚も含む)が欲しいわけだ。
 上手いライターというのは、自分の存在を読者に気づかせず、情報のみをピックアップすることができる。また、自分を出すときにでも、道化役にするなどそのポジショニングが巧みである。下手なライターというのは、書き手の存在を感じさせすぎて少々鬱陶しいケースが多い。
 しかしモノを書こうとする人は、往々にして自分が前面に出てしまう。
 それはブログのような個人発信の何の制約もないメディア上なら尚更だ。
 もちろん、私的発信メディアであるブログにおいて、適度な主張は必要だ。新聞のような無味乾燥なブログなど、よっぽど情報に価値がないと読みたいと思わない。
 しかし、主張が強すぎるのも考えものだ。知りたい情報になかなかアクセスできず、発信者の主張ばかりが目立つブログは読んでいて疲れる。
 あくまで私的な意見だが、「ランキングに参加中!」といった掲示を行っているブログは、こういった書き手の主張が強いケースが多いように思える。「面白かったらクリックしてね!」という掲示が行える人は、やはりどこか自己主張が強いのだ。
 面白いブログ、多くの読者を獲得するブログというのは、自己主張と情報のバランスがよくとれているものが多い。
 ブログに何かを書く場合、往々にして「主張」と「情報」の両者が入っているわけだが、主張ばかりが多くても、読んでいる人はつまらない。かといって、情報ばかりでは、書いていてつまらない(だからブログの更新が続かない)。また、適度な書き手の主張や個性がないとファンが付かない。
 有益な情報を提供しつつも、自分の主張をどう伝えるか、自分のポジショニングをどうとるか。
 この点が、人気ブログを作る上での大きなポイントであるだろう。】

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 まあ、それはさておき、「このブログがすごい!」という本を毎年出しておられる岡部さんの「編集者としての視点」には、非常に興味深いものがありました。
 もちろん、「ランキングサイトの上位がみんなつまらない」というわけではないですし、「アクセスの多さ」というのは、サイトへの客観的な評価を行う際の重要な要素であることは間違いないのですが。

 岡部さんはここで、「書き手のポジショニング」について書かれています。確かに僕たちは、雑誌の記事を読むときに「誰がこれを書いているのか?」ということには、あまり興味を持ちませんよね。エッセイとか小説なら別だとしても、「情報としての記事」を読んでいるときに大事なのは、「そこに書かれていること」ではなくて、「何が書いてあるか」のはずです。そして、ある雑誌などに、自分好みの記事をたくさん書いているライターがいる、ということに気づいてはじめて、「この記事は、どんな人が書いているのか?」ということを知りたがるのです。
 有名人ブログならともかく、市井の無名の書き手が、自分のエントリを充実させる前に、「ランキングサイトをクリックしてね!」なんて書いてみても、読み手としては、「そんなのお前の都合だろ…」としか思えないのですよね。
 そりゃあね、有名アーティストなら、コンサートも「前売り券」でSOLD OUTになってしまうのでしょうが、無名の大道芸人が、芸をやる前に「面白いからお金くれ!」なんて言っているのって、どう考えてもヘンですよね。「見て面白かったらオヒネリ出してもいいな」と思っている人だって、そんなこと言われたら、その場を黙って立ち去ってしまうことがほとんどのはずです。もちろん、「そんなに自信があるのなら観てやろう」という好事家だっているでしょうが。
 僕がかねがね疑問なのは、自分のサイトやブログに宣伝とかランキングのバナーばっかり貼っている人っていうのは、他の人が同じようにしているのを見て、不愉快に感じたことはないのだろうか?ということなのです。いやまあ、人間というのは、自分のことに関しては、甘く見てしまいがちだから、「自分のサイトはこのくらい貼っても…」という感覚なのかもしれませんけどね。
 しかしながら、「自分のサイト」っていうのは、自分以外のすべての人間にとっては、「他人のサイト」なのですよ。

 岡部さんは、【面白いブログ、多くの読者を獲得するブログというのは、自己主張と情報のバランスがよくとれているものが多い】と書かれています。自己主張や目立ちたいという気持ちが皆無であれば、ブログを書くというのは、なかなか難しい行為だと思います。「書く」というのは、ある意味「自己主張」そのものですから。
 でも、その一方で、「自分を客観視する」もっとひらたく言えば「状況によっては、自分の存在を消してしまう」ことができなければ、有名人ブログでもないかぎり、「面白いブログ」を書くことは難しいのかもしれません。
 まあ、僕の個人的見解としては、プロ志向でもない人が、「人気ブログ」を作るために自分が書きたくないことを書くことに意味があるのかな、とは思ますし、そもそも、みんなが「人気ブログ」を志向する必要はないと思うのですけどね。
 だいたい、そんなふうに「現世利益」にこだわらなくていいところが、こうしてネットに書くことの大きなメリットのひとつなのでは……



2006年05月08日(月)
「スター」を育てるための匙加減

「日経エンタテインメント!2006.6月号」(日経BP社)の「インサイドスペシャル・才能の殺し方、生かし方」より。

(ジャパン・ミュージックエンターテインメント社長・藤岡隆さんへの芸能人の「マネージメント」に関するインタビューの一部です)

【インタビュアー:日常の管理という点で、タレントの不祥事が増えているように思いますが、なぜでしょうか。

藤岡:芸能界だけが特殊なわけじゃなくて、世の中全体の変化を反映してのことだと思います。芸能界に入ったから悪くなるということではなくて、基本的には子供のころからの親の育て方が大きいと思う。
 だからと言って、プロダクションの側に問題がないというわけではなくて、やはり教育が大事です。気がついたことはどんどん言うのがマネージャーの仕事。売れたら、みんなに見られている立場だから、いいことと悪いことの判断は自分でつけないといけないぞ、と。
 でも、実際のところ、我々にできるのはそこまでですね。それを友人関係も含めて、どこまで本人が自覚してくれるかです。

インタビュアー:ただ、未成年の新人タレントをプロダクションが車で送り迎えしていたりするのを見ると、甘やかし過ぎでは、とも思いますが。

藤岡:たしかに、そうういうケースもあって、タレントが勘違いするところがないとは言えない。一方で、一般人と違う待遇をされるからスターとしての輝きが出てくるという面もあって、それも否定できない。違う言い方をしたら、ちやほやされることで本人が自分の立場を自覚してくるわけです。
 デビューして1年たったら、きれいになったという例はよくあり、それは人に見られているという自覚からだと思う。あとは、その自覚を持って、自分を律せるかどうか、でしょう。

(中略)

インタビュアー:プロダクションを経営する立場として、売れていない人を抱えていくのは大変かと思いますが。

藤岡:音楽での印税契約の場合は、当たったときは向こうが持っていくから、プロダクションはうまみがないけれど、ふだんは雇わなくてもいいから、ある意味で楽ですね。
 逆に俳優は維持費が大変。売れるかどうかわからないのに、1年2年と生活費を給料ベースで払っていく。1回デビューさせたら、またバイトに戻るというわけにもいかないし。マネージャーががんばって、仕事をとってくるしかない。
 だから経営が苦しいときは、マネージャーを削るか、タレントを削るか、正直天秤にかけることもあります。

インタビュアー:タレントは、どのくらいの確率で売れるようになるものでしょうか。

藤岡:うちには今、28組いますが、黒字になってるのは6〜7割くらいですね。それでほかの人の赤字を埋めているわけです。】

〜〜〜〜〜〜〜

参考リンク:ジャパン・ミュージック・エンターテインメント

 ジャパン・ミュージック・エンターテインメントは、篠原涼子さんや谷原章介さん、伊藤由奈さんなど、かなり有名なタレントさんを抱えているプロダクションみたいです。でも正直、顔ぶれを眺めていると「これで6〜7割のタレントさんは黒字なのか…」とか、つい考えてしまうのも事実です。
篠原涼子さんとか、10組くらい養ってそうですよね、実際は。

 まあ、それはさておき、この藤岡さんの話を読んでみると、「芸能人」を育てるというのは、本当に難しいものだよなあ、と感じます。僕たちは、「特別扱いされる芸能人」というのに反感を持ったり、「電車で仕事場に通っています」なんていう有名人に対して好感を抱いたりしがちなのですが、考えてみれば、「芸能人」がみんな電車通勤するようでは、それはそれで面白くないですよね。
【一方で、一般人と違う待遇をされるからスターとしての輝きが出てくるという面もあって、それも否定できない。違う言い方をしたら、ちやほやされることで本人が自分の立場を自覚してくるわけです。】
 プロダクションやマネージャーというのは、「普通の常識人」を育てようとしているわけではなく、あくまでも「スター」という特別な人間を生み出すことを目標にしているわけですから、そのためには「特別な待遇」というのは必要なのかもしれません。そもそも、僕たちだって、ハリウッド・セレブたちのさまざまな「奇行」に眉をひそめつつも、そういう「スターたちの噂話」に強く魅かれてしまうのも事実なんですよね。
 あのマイケル・ジャクソンの「奇行」はさすがに度が過ぎているような気がしますが、逆に、あのくらいの「異常性」というのを持っていなければ、「大スター」にはなれないのでしょう。「普通の人間」であれば、あんなに注目され、特別扱いされることそのものに耐えられないでしょうし。
 それに、「自分を特別な存在だと思い込むこと」というのは、確かに「特別な人間になる」ための近道です。そういう意識があるからこそ、人並み以上に努力したり、キツイ状況でも辛抱したりできることも多いでしょうから。もちろんそれは、「天狗になる」ことと表裏一体なわけですが。

 「普通の人」であることを賞賛されることも多い一方で、本当に「普通」であれば、周りは見向きもしてくれない。「芸能人として生きる」のも、「芸能人を育てる」のも、なかなか難しい仕事みたいです。



2006年05月06日(土)
脳を衰えさせないための「トレーニング法」

「週刊アスキー・2006.4/18号」の対談記事「進藤晶子の『え、それってどういうこと?』」より。

(脳機能の権威である、久保田競さん(京都大学名誉教授/日本福祉大学教授)と進藤さんの対談の一部です)

【進藤:脳に個体差はないんですか。

久保田:実は生まれたての脳の働きの違いはわずかで、たとえば生まれたときに手を握っているか、開いているかといった程度。個人の差はほとんどありません。脳の働きの差は、結局どれだけ学習したか、経験したかで出てくるものですから。

進藤:「生まれつき頭が悪い」と言ったりしますが、使いこなしていないだけなんですね。

久保田:そうそう。だから、数学的な脳とか、文学的な脳といったことも、なにをどれだけ勉強したかで決まってくるものなんです。

進藤:人間の向き、不向きも生まれつきではない。

久保田:要は使い方で決まるんです。

進藤:先生は、いくつになってもトレーニングさえすれば、脳は鍛えられるとおっしゃっていますが。

久保田:歳をとるとボケると、みんな思っているでしょ。

進藤:恐れてます、すでに(笑)。

久保田:ここ2〜3年でわかってきたことなんですが、認知症やアルツハイマー病が起こるのは結局、脳を使わないから。逆に使っていれば、発症率は低くなってくるんです。

進藤:では、脳をトレーニングすれば予防できる。脳を衰えさせないためのよい方法って……。

久保田:歩くこと、考えること、ゲームやトランプ、クロスワードパズルをやるのでもいい。脳は、それぞれ使ったところがよく働くようになっていくのが原則ですから。

進藤:ゲームなら、たとえばどんなものがいいんですか。

久保田:ロールプレイングゲームは、ものすごくいいと思いますよ。

進藤:少年犯罪が語られるとき、ゲームが諸悪の根源のように言われることもありますが……。

久保田:そんなことはないと思います。脳の働きを高めるように使えばいいんです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この久保田競さんは、あのニンテンドーDSの「脳を鍛える大人のDSトレーニング」を監修している東北大学の川島隆太教授を指導・育成された方なのだそうです。さすがに、ゲームに対しても理解があるなあ、と思いながら、僕はこの対談記事を読んでいました。まあ、「週刊アスキー」で、ゲームの悪口を言いまくるわけにもいかないでしょうけど。

 これを読むと、先天的な「頭の良し悪し」というのは、ほとんど無いもののようです。僕たちはよく、「文系だから」「理系だから」なんて自分の向き不向きを判断しがちなのですが、それは、あくまでも後天的な経験の差によるものらしいです。いや、正直なところ、「本当にそうなのかな…」とか、その「手を握っているか開いているかという程度の差」というのは、意外と大きいのではないか、とか考えたりもするのですが。「認知症やアルツハイマー病が起こるのは、脳を使わないから」というのも、「そんなふうに、決め付けてしまってもいいのだろうか…」という気もします。いや、脳の研究者はそれでいいかもしれないけれど、医者がそれを言うわけにはいかないよなあ、とも思うしね。
 
 ところで、久保田さんは、「ゲーム脳」に対して否定的な見解を持っておられるようなのですが、僕がこの久保田さんの話を聞いていて感じたのは、「ゲーム脳」なんていうのは眉唾ものだけれど、「脳は使ったところがよく働くことになる」のであれば、同じようなゲームばかりを繰り返してやっていれば、脳の一部だけが過剰に鍛えられてしまって、他の部分とのバランスを崩してしまうようなこともあるのかもしれないな、ということでした。
 「ゲームは諸悪の根源ではない」けれど、もちろん、「ゲームばかりやっていればいい」というものではないようです。
 大事なのは「バランスよく脳を鍛えること」で、イメージとしては脳の機能とは関係なさそうな、「歩くこと」が、脳のトレーニングになったりもするみたいですよ。



2006年05月05日(金)
谷川浩司さんの「棋士の3つの顔」

『プロ論。2』(B-ing編集部[編]・徳間書店)より。

(プロ棋士・谷川浩司さんの「何をやってもうまくいかないとき」をテーマにしたインタビューの一部です)

【10代のころは、大先輩との対戦は負けてもともと。だから思い切った勝負ができた。ところが、タイトルを取ると翌年は挑まれる立場です。今度は、思いっきりぶつかっていけなくなる。そんな中で、自分自身を見失ってしまったんです。自分の将棋が指せず、時代や対局相手を意識しすぎるようになってしまった。
 ところが、ショック療法とでもいいますか、タイトルをすべて失って吹っ切れたんだすね。原点に戻ることができた。
 棋士には3つの顔があります。勝負師と芸術家と研究者の顔です。この3つのバランスを取ることが必要になる。ところがスランプの時期は、あまりに勝ち負けばかり意識しすぎていた。もちろん最後は勝負がつきます。しかし、将棋は2人で指すものであり、2人の作品なんです。
 いい勝負をしよう、いい棋譜を残そうという気持ちが、歴史に残る大勝負を生む。私は、勝負にこだわりすぎて将棋の原点の心と、楽しむ気持ちを失っていたんです。気持ちを入れ替えると、楽しい将棋が戻ってきました。そして、結果もついてくるようになったのです。
 私はもともと大変な負けず嫌いですが、将棋では勝つか負けるかしかありません。負ければ悔しいですが、それも仕方がない。でも考えてみれば、死ぬまでずっと勝ち続ける右肩上がりの人はいないわけです。勝つときもあれば負けがこむこともある。
 大事なのは、負けた経験や挫折感を、後の人生でどう生かすかです。生かすことができれば、負けや失敗は長い人生の中で失敗にならなくなる。むしろ、とても大切な糧にできる。
 私は21歳で名人になったこともあり、20代でも無茶はできませんでした。でも、20代は、少しくらい失敗しても、やり直しがきく年齢です。若気の至りと、人生の先輩方も大目に見てくれる。そして、いろんな選択肢が残されている。やはり挑戦心を忘れないでほしいですね。

(中略)

 難しい時代ですから、迷っている人も多いと聞きます。ならば、やはり原点に戻ってみる。自分の本当の声に耳を澄ませてみるべきだと思います。仕事なら、好きな仕事をすること。好きなことでも長く続けるには努力が必要です。やりがいがない、面白くもないでは、長く続けられるはずがない。
 登山家は山で迷ったら、元の場所に戻って再スタートするそうです。迷ったときには原点に戻って再スタートすればいい、それが、いい人生につながるのだと思います。】

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 21歳で「名人」のタイトルを獲得し、「天才」の名をほしいままにした谷川さん。だからこそ、早熟であるがゆえの「壁」も大きかったのでしょうね。将棋の実力は名人でも、21歳というのは、「人間としての成熟度」としては、周囲からみれば、まだまだ「若造」レベルですから。
 「若くして成功してしまう」というのは、そういう意味では、まさに「諸刃の剣」なのかもしれません。失敗してしまったときの反動も大きいだろうし。

 ここで谷川さんが語っておられることのなかで、とくに僕の印象に残ったのは、「棋士の3つの顔」の話でした。もちろん勝たなければ生き残れない世界ですから、「勝つこと」にこだわるのは当然なのですが、谷川さんは、「勝ちにこだわりすぎてしまったこと」をスランプの原因として挙げておられます。谷川さんの場合、【いい勝負をしよう、いい棋譜を残そうという気持ち】、目先の勝利ではなく、自分の将棋を指したい、勝敗よりも、名勝負として自分の将棋を歴史に残したい、というような「大局観」に目覚めたことにより、スランプを脱出できたのです。まあ、こういうのはまさに「天才の領域」であって、普通の人は「勝ちへの執念」から鍛えていくべきなのでしょうけど。それにしても、棋士にとっての「棋譜」っていうのは、まさに「作品」なのですね。

 最後の【登山家は山で迷ったら、元の場所に戻って再スタートするそうです。迷ったときには原点に戻って再スタートすればいい、それが、いい人生につながるのだと思います。】というのは、本当に素晴らしい言葉だと思います。道に迷っているときって、とにかく、前に進んでいれば、いつかは出口につきあたるのではないか、などと希望的観測を抱いてしまいがちなのですが、そうやって行き当たりばったりで前に進んでしまうことによって、さらに迷いを深めてしまったり、目的地にたどり着くのが遅れてしまったりすることは、けっして少なくないのです。
 困ったときは、原点に戻ればいい。その場所だけ、いつでも戻れるように、ちゃんと記憶しておけばいい。
 そんなふうに考えているだけで、だいぶ気持ちもラクになるような気がします。



2006年05月04日(木)
誰でも魅力的に生きられるものですか?

「ダカーポ・583号」(マガジンハウス)の特集記事「『魅力』の正体を知る!自分を魅力的にする!」より。

(演出家・鴻上尚史さんに聞く「誰でも魅力的に生きられるものですか?」)

【聞き手:つまり、その人のもつ華というのは、ほとんど持って生まれたものなのですか?

鴻上:それもなんとも言えないですけどね。そんなえたいの知れないものを欲しがるよりも、華とまでは言えないかもしれないけれど、今ある自分をさらに魅力的に見せることを考えたほうがいいと思います。あの人に会いたい。あの人と話をしたい。そんなふうに多くの人に思われる存在になることはできる。
 魅力的な存在になるにはいろいろな要素があると思いますが、最も分かりやすいのは、周囲に元気を与える人でしょうね。ポジティブな何かをくれる相手と、人は会いたがり、話をしたがる。それは別に現実的なアドバイスをくれるという意味ではありません。会って話すだけで元気になれる。そういう対象です。見渡せば、誰も周りにも思い当たる人はいると思いますよ。それが、魅力ある人だと思います。逆に、いつも愚痴を言っていたり、境遇を嘆いたりするネガティブな人には、できるだけ会いたくはないでしょ?

聞き手:自分をより魅力的に見せるには、鴻上さんによると小さな”演出”を行うと効果的だ。】

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 鴻上さんは、このあと「魅力的になるためのポイント」として
(1)感情を演出する
(2)声を演出する
(3)体を演出する
(4)言葉を演出する
 という4つのポイントを挙げておられます。「演出」とはいってもそんなに難しいことではなくて、「小さな喜び(ごはんが美味しかったとか、電車でカッコいい人を見たとか)を自分の中にいつも持つようにしましょう」とか、「街で見かけた『動きが素敵な人』のマネをしてみましょう」とか、ほんとうに、すぐにでもできることばかりです。とはいえ、実際にやるとなると、なんとなく「そういうんは自分の流儀じゃない」というような、妙なプライドにとらわれたりもしてしまいがちなのですけど。

 「華のある魅力的な役者の作り方は、僕にもよくわかりません」と鴻上さんは仰っています。でも、普通の人の日常生活レベルで、「周囲の人が思わず話しかけたくなる」くらいの「魅力」であれば、努力すれば身につけることは不可能ではないみたいです。確かに、この鴻上さんの話を読んでみると、「魅力的な人」っていうのは、そんなに複雑怪奇な存在ではなく、むしろ、「自分を元気にしてくれる人」のことが多いのですよね。
 「カッコいい人」というのは、もちろん「魅力的」ではありますが、外見にかかわりなく(そりゃあ、最低限の「清潔感」は必要でしょうけど)、「自分にとってプラスになる人」というのは、やっぱり魅力的なのです。そして、「現実的なアドバイス」よりも、そういう人に話を聞いてもらうだけのほうが、かえっていい結果を生むこともありますよね。
 どんなに賢明でも、愚痴っぽくて誰かの文句ばっかり言っているような人と話すのって、どうしても苦痛ですし。
 いや、そんなふうに愚痴ばかり言っている人って、本人は「自分は正しいことを言っている」と思いがちだったりするので、よけい、周りは敬遠してしまいがちだし。

 このインタビューの最後で、鴻上さんは、こんなふうに仰っています。
【ところで、自己演出を行うときに忘れないでほしいことがあります。それは、他人の目を意識しすぎないこと。自己演出は、必ずしも人に好かれたいから行うものではないはずです。自分自身がうきうきした気持ちで過ごせれば、それが自然に魅力につながっていく。だから、自分がすてきだと思える自分を目指す方向に自己演出したほうが、より魅力的になれるはずだし、楽しいと思いますよ。】

 結局、いちばん大事なのは、「自分が楽しく生きること」だということみたいです。それが、いちばん難しいことなのかもしれないけれど。



2006年05月03日(水)
衝撃の「レディーボーデン」

「ももこの話」(さくらももこ著・集英社文庫)より。

【つい先日、スタッフの多田さんが「初めてレディーボーデンのアイスを食べたときは感動でしたね」と言ったのをきいてハッとした。忘れていたが、私もレディーボーデンのアイスに衝撃を受けたくちだ。あれを初めて食べた時、私は西洋人の豊かさを初めて体験として知ったといえる。まるで夢のようにおいしいと思った。レディーボーデンという名前も、今まで食べていた『○○チョコ棒』とかただのバニラとか、そんなのと違って全く聞き慣れない未知の世界からの美しい響きを感じさせた。レディーボーデンのCMもよくできており、「♪レディーボーデン、レディーボーデン」という女の人の歌声がクラシックのような格調で流れ、画面には何種類もの味のアイスクリームが現れ、大きなスプーンであのアイスクリームをすくうとことがアップになる時、「あ〜〜おいしそう、食べたいよぅ」という思いが炸裂するのであった。
 レディーボーデンが買ってもらえることなんて、クリスマスか正月か、あとはよっぽど何かめでたいことでもあった時にしかなかったので、単に暑さしのぎに飲んでいるコーラの中にそれを浮かべるなどというのはどだい無理な話だ。】

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 僕もレディーボーデンのアイスに衝撃を受けたくちです。
 さくらさんは僕より少しだけ年上なのですが、今から25〜30年前くらいの時代には、「レディーボーデン」というのは、まさに「憧れの高級アイス」だったのです。イベントか病気でもないと、食べられない幻のアイス。
 あのクリーミーな味わいは、当時駄菓子屋さんで僕たちが買えたバニラアイスやソーダアイスなどと比べたら、まったく異次元のものでした。
 まさに「西洋人の豊かさの象徴」だったんですよ、レディーボーデンって。僕も、死ぬまでに一度くらいは、あのレディーボーデンの大きな家庭用カップを1個まるごと一度に食べてみたいものだと切実に願っていたのです。おやつの時間のときにお皿に盛られるレディーボーデンは、あまりに量が少なすぎて、皿まで舐めたいような気持ちでした。今は、ハーゲンダッツなども一人分が小さなカップに入っているのが主流なのですが、当時は大きなカップしかなかったものなあ。
 ごくまれに、レディーボーデンが家の冷蔵庫に降臨した際には、僕たちはなんとなく落ち着かない気分になったものです。
 夜中にこっそり「少しだけ」食べるつもりが、「もう一口」が高じて、あからさまに減ってしまって焦ったこともありました。
 そういう意味では、やっぱり「時代というのは変わっていくもの」なのだなあ、とあらためて感じます。僕は子供の頃、親たちが「バナナを1本丸ごと食べるのが夢だった」なんて語るのを「ふーん」と半分鼻で笑いながら聴いていたのですけど、今となっては、この「レディーボーデン伝説」も、子どもたちにとっては、「昔の日本は貧しかったんだなあ」とか思われてしまうエピソードなのかもしれません。

 今は、「レディーボーデン一気食い」も経済的には可能なのですが、さすがにもう、それを実行できるほどのアイスクリーム欲もイキオイもないし、夢は夢のままにしておくほうがいいのでしょうね、きっと。
 やっぱり、血糖値も気になりますし。



2006年05月02日(火)
焼肉チェーン店の最高峰は…

「週刊SPA!2006.4/4号」(扶桑社)の「Yahoo!JAPAN 検索ワードランキング『焼肉+第2ワード編』」より。

(食通有名人が足繁く通うという「焼肉 名門」の中村真敏店長のコメントより)

【こうして見てみると、3〜7位まで、チェーン系のお店がランクインしてますね。ただ、数あるチェーン店の中でも最高峰は叙々苑だと思います。叙々苑の悪口言うヤツはしょぼいです。いつでもどの店舗でも同じ商品を安定供給できる。あれだけブレない味とコンセプトを出せるのはすごい。文句言うヤツはやってみろ、と。私もできません。叙々苑があったからトラジができて、牛角ができたんです。結局、焼肉チェーンビジネスは、叙々苑を基準にしてるんですよ。】

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 「チェーン店なんて、どうせどこでも同じ味で、個性がない」なんて言われがちではあるのですが、同業者である中村店長のこのコメントを読んでみると、実は「どこでも同じ味」というのは、ものすごいことなのかもしれないな、という気がしてきます。まあ、「駅前のマクドナルドに比べて、あのショッピングセンターのマックは不味い」なんていう話は時々ありますから、細かいレベルでは「誤差」もあるのでしょうけど、それなりの距離も離れ、全く別のスタッフが働いている多数の店舗で、「ブレない味」を維持するのは、実際は、ものすごく大変なことなのでしょう。ハンバーガーだって、同じ材料でも温め方だけで味はいくらでも変わってきますし、焼肉も、たとえ同じ肉であっても、切り方ひとつで、かなり味は違うはずです。
 お客さんも「チェーン店だから、こんなもの」だと思ってくれる一方で、その要求されるレベルより低いものが出てきたら、「なんでチェーン店なのに、この店はこんなに不味いんだ!」というクレームが出るはずです。「隠れ家的な店」なんていうのは、「ハズレ」であっても、選んだ側が「ああ、店選びを間違っちゃった…」と、自分の選択眼のほうを反省してくれる場合も多いのに。そういう意味では、「チェーン店」というのは、ラクなように見えるけれど、かなり厳しい面もありそうです。「いつでもどの店舗でも同じ商品を安定供給できる」っていうのは、並大抵の努力ではないわけで。

 いや、僕自身は「叙々苑」に行ったことがないので、本当に「叙々苑」が「スタンダード」に値する存在なのかどうかは、よくわからないのですけど。



2006年05月01日(月)
「聡明で現実的な」伴侶の選び方

「スプートニクの恋人」(村上春樹著・講談社文庫)より。

【すみれが6歳のときに父親は再婚し、二年後に弟が生まれた。新しい母親も美人ではなかった。それに加えて、とくに物覚えもよくなかったし、字だってうまいとは言えない。しかし親切で公正な人だった。自動的に彼女の義理の娘となる幼いすみれにとっては、言うまでもなくそれは幸運な出来事だった。いや幸運とは正確な表現ではない。彼女を選んだのはあくまでも父親だったからだ。彼は父親としてはいくぶん問題があったが、伴侶の選び方にかけては、一貫して聡明で現実的だった。
 義母はすみれを、その長く入り組んだ思春期を通して、揺らぐことなく愛してくれたし、彼女が「大学をやめて小説を書くことに集中する」と宣言したときにも、もちろんそれなりの意見はしたが、彼女の意志を基本的に尊重してくれた。すみれが小さい頃から熱心に本を読むことを喜び、励ましてくれたのも義母だった。】

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 この「スプートニクの恋人」の主人公である「すみれ」のお母さんは、「心臓に生まれつきの構造的欠陥があったため、31歳の若さで亡くなった」のです。そして、非常にハンサムだったという彼女の父親が再婚相手として選んだのが、この「親切で公正な義母」でした。
 僕がこれを読んで思ったのは、「再婚相手の条件」というものに関してでした。歯科医であり、経済的に恵まれ、ハンサムな父親にとって、再婚相手の候補はけっして少なくはなかったはずです。でも彼は、美人とはいえないけれど、自分の血を分けた子どもではない、すみれにも公正に接してくれる人を再婚相手として選びました。もちろん、父親は単に「そういう人が好み」だったのかもしれませんが、結果的に子どもにとって、それは「ありがたい選択」になったわけです。
 もちろん、「人間の資質」なんていうのはそんなに簡単に分かるものではなくて、「子ども好きな優しい女性」のはずが、「自分の子どもには愛情たっぷりだけれど、先妻の子どもには愛情を注げない」というような例もありますし、「実際にそういう状況になってみないとわからない」という点はあるのですが、それでも、「見た目の美しさ」や「自分に対する優しさ」と同じように、あるいは、長く付き合っていく人ならばそれ以上に、こういう「周囲の人への接し方」というのが、けっこう重要ではないかと思うのです。いくら自分が好きなパートナーでも、自分の子供を虐待するような人では、やっぱり「幸せ」とは考え難いのではないでしょうか。
 でも、こんなふうに言ってはみるけれど、「やってみないとわからない」ですよね本当に。「この女性は自分の娘を虐待するかもしれない」なんて思いながら再婚する人なんて、いるわけもないのだから。