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〜〜ぱるたの子育て日記〜〜



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■…2005年01月18日(火).......何を目指すのか、どうなりたい(ならせたい)のか
noripは教育関係の本をよく読んでいる。本屋で立ち読みで済ませる場合も多いが、買ってきて私に見せてくれることも多い。ここ数日は「ニッポンの公文、ドイツの教育に出会う」という本を借りて読んでいるのだが、前書きの中に、ドイツの教育は「たった一人でも反対できる人間を育てる教育」と書いてあって、おお〜!、と思わず声が出てしまった。

たった一人でも反対できる人間を、日本の学校は全然育てていない。というより、そんな人間なんかが出てきたら困る、とむしろ思っているのではないか。
私が自分の子供に、どんな人間になってほしいかといえば、
「自分の頭で考えられる人間」「自分の考えに従って行動出来る人間」「人のせいにしない自立した人間」
といったあたりである。でも、たった一人でも反対できる人間、とまでは思っていなかった。まだまだ考えが甘かったのだ、と思い知らされた。

そんなことに思いを巡らせていたら、タイミングよく、新聞にこんな文章が載っていた。上手に要約ができないので、長くなるが、暇に任せて全文引き写してみることにする。


朝日新聞2005年1月15日朝刊「私の視点−−−2005年に寄せて」から全文引用

◆日本の教育「自ら動く人間」育てよう・・・・吉岡忍

 世の中が動かない。止まっている。その現状をこの目で見ておきたいと考え、2年ほどかけて、私は44の都道府県を旅行してみたのだが、やはりどの街も元気がない。残りの三つをまわっても、この印象はたぶん変わらない。冷えびえした空気を浴びながら、私は教育のことを考える。学校と、学校教育を支えてきた政治や行政や世間的常識のことを。
 結局、日本の教育は「使われる人間」しか育ててこなかったのではないか。学校はだれかに、あるいは何かに使われるためのトレーニングの場にすぎなかったこと。おとなしく、要領よくか、有能にか、ともあれわが身を、使われる人間としてしか思い描けない日本人ばかりを育ててきたのではなかったか。
 使われる人間は、寂しい。独りで、ばらばらに生きることしか知らないから、リストラや倒産や定年で辞めたとたん、友だちは散っていき、いっきに萎えてしまう。こうした人々の群れが、これからの一年間、この国の底に澱のように溜まっていくのだろう。
そこに、十数年来の景気低迷、大規模災害、犯罪多発、社会保障制度の破綻、米政府に引きずられっぱなしの戦争協力、あるいは日朝・日中関係のこじれなど、難問が次々に押し寄せている。個々ばらばらで、使われることしか知らない人間には、どれも手も足も出ない問題ばかりである。
 自分からは動かない、動きたくない、動けない大人たちは傍観を決め込んでいる。そうでなかったら、子どもたちが頭の中に飼っている怪物になりかわるように凶悪事件に突き進んでいくのと同様、いつか自分を託せる力強いカリスマが現れるだろうと待ち望んでいる。ここから生じる熱狂はかなりきな臭いがこれもまた使われる人間としての自己の再生産にすぎない。
 若者たちはどうだろう。若年層の10人に1人が失業中だ。学校にも仕事にも研修にも行っていない、いわゆる「ニート」な若者たちに、私もときどき旅先で会う。彼ら一人ひとりは、私ほど露骨な言い方をしないけれど、使われる人間の窮屈さや哀れな末路をたくさん見聞きしている。なぜ無理をしてまで世間に加わらなければいけないのか、ためらっている。
 私はこの感受性を健全だと思う。だが、彼や彼女たちの多くも、自力で仕事ややりたいことをつくり出す自信に欠けている。ここにも、相変わらず使われる人間になることしか教えていない学校教育の欠陥が露呈している。
 私が国内旅行をしつづける理由が、もうひとつある。街はどこもそっくりで、どこも目新しさを失って寒々しているが、それでもそこで動いている人がいる。上司や同僚、先輩・後輩にではなく、見ず知らずの他人に働きかけ、議論し、ゆずったりゆずられたりしながら、何かをやり遂げようとしている人たちに会うためである。
 それは街の居心地をよくする活動や国内外のボランティアだったり、ある種の表現活動だったりするのだが、この人たちは自分一人の弱さを知っていて、だから他者が必要なのだと分かっている。一緒に動くことのむずかしさにも面白さにも気づいている。
人が人を動かす人間社会の原理は、これからも変わらない。雇用や上下の関係のないところで、一人ひとりはどう動けるのか。そのステージを社会と呼べば、やっと私たちは社会を作り始めたばかりである。



センター試験は穴埋め問題ばかり(大抵5択ってところ)この方式になってから、ますます学力低下に拍車がかかったと大学関係者は口々に言っている。でも、こんな問題を解くために一生懸命勉強するのは、学力低下というよりも思考力低下を招いているのではないか。

友人からフランスのバカロレア(大学入学資格試験)は日本のその種の試験とは全然違うと聞いて、ネットで調べてみたら、

哲学は諸科学についての考察をせずに済ますことができるか?
ある芸術作品が美しいということを他人に根拠を示して説得することができるか?
「選択」と「願望」の違いについて書かれたアリストテレスの文章を読んで、コメントする。
人は自分自身に嘘をつくことができるか?
どのような条件の下で一つの活動は労働となるのか?
人間の自由は労働の必要性によって制限されるか?
正義の支配を実現するとは、単に法律を適用することか?
人は美を判断するのか、それとも感知するのか?
法律は我々に何をするのが正しいかを示しているか?
「独立」と「自由意思」が相対的な概念ではないかと疑ったニーチェの文章を読んで、コメントする。

なーんて問題に答えて(全部論述式だ!)合格しないと大学に入れないのだそうだ。大学というところの位置づけの違い、教育システムの違いがあるのは分かっている。が、それにしても、大学生、そして高等教育に対して求めているもののこの違いを見よ! 教養があることは勿論、自分の頭と言葉で考えられる人間じゃないかぎり、こんな問題には一言も答えられないだろう。私も情けないことに、全くだめだ。手も足も出ない・・・。(いや、この中の、いくつかなら、がんばって答えられるかもしれぬが)

一度に多くのものを求めても一つも得られないのだから、じっくりと、積み重ねるように、(ものを与えるにしても教育をするにしても)考えながら子供を育てていかないと、大変なことになると(つまり我が子も「使われる人間」になってしまう)畏れおののくばかりである。




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