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2012年04月17日(火)
「ゆっくり走るようになれるのも才能です」

2012年4月15日の『日本経済新聞』の文化欄に掲載された、松井今日子さんの「馬が教えること」というエッセイの一部です。

【乗馬愛好家の代弁は概ね以上に尽きるが、日本の場合、馬を愛する人ならむろん競馬ファンのほうが圧倒的にメジャーだろう。馬の生産も本来は競馬でも活躍を期待されたサラブレッドが中心である。従って日本では乗馬クラブにもサラブレッドが比較的多かったりする。わがクラブには競馬ファンならずともご存知であろう、シンボリルドルフの息子やハイセイコーの孫娘がいて、最初はそのことにびっくりさせられた。
 競走馬で子孫が残せるのはごくわずかのエリートだが、その選りすぐりのエリートの子孫でも競争馬で通用しないケースのほうがはるかに多いらしい現実を、私は乗馬を通じてまざまざと知らされた。以来、人間社会でも安易な世襲なぞ決して許されていいわけがないと思うようにもなった。
 そのことに関してはまた、習い始めた頃に、とあるインストラクターから聞かされた今に忘れがたい話もあり。私は馬上でそれを耳にした。ほかにも何人かが馬に乗って、ただグルグルと馬場を歩きまわっていた時のことだ。馬はいずれも競馬界の落ちこぼれのごとく緩慢な動きを見せていたが、インストラクターは唐突に「この子たちはみんなエリートなんですよ」と穏やかな口調で話し始めた。

 サラブレッドはもともと速く走ることを目的に作られた品種なので、アマチュアの乗り手が耐えられるようなスピードで走るのはむしろ難しい。故に競馬界を引退したサラブレッドの多くは、訓練を受け直しても一般人の乗用馬にはなれずに、虚しく命を落としてしまうのだという。
「ゆっくり走るようになれるのも才能です。だからこの子たちはエリートなんです」と最後は断固たる口調で締めくくられた。コペルニクス的転回ともいえるその発言を聞いて、私は自身でも意外なほど強く心を打たれたのだった。
 ゆっくり走れるのも才能とは、実に言い得て妙で、あらゆる物事に関しての暗喩ともなる。個人の生き方、組織の運営、さらには社会のあり方にもアナロジーが適用される。
 命をつなぐ方法は、何も競争で速く走って勝ち残るのみではないのだ。そうした価値観の転換は人を生きやすくさせるかもしれない。また地球の未来にとっても必要なことではないか、と思ったりする。】

〜〜〜〜〜〜〜

「ここ数年、週末は乗馬をして過ごす」という松井さん。
 僕は競馬大好きなので、この話には「なるほどなあ」と考えさせられました。
 競争馬というのは「いかに速く走るか」で価値が決まってしまう生き物ではあるのですが、馬のなかには「身体能力は優れているのに、気持ちの面で競馬という競争に向かない馬」なんていうのもいるんですよね。
 運動オンチの僕は、「サラブレッドのなかにも、『足は遅いけど、すごく頭がいいヤツとか、優しいヤツ』がいたりするんじゃないかな、でも、そいつらの競走馬としての運命と生命は……」などと考えてしまうこともあります。

 でも、このインストラクターの話を聞くと、「世の中には、速い馬だけが必要なわけじゃない」ということがよくわかります。
 引退した競争馬の「転用先」が「乗馬」になっていることは少なくないのですが、おそらくその多くは「乗馬には向かない馬」なのでしょう。
 もともと、プロの騎手によって、極限のスピードを引き出されるようにレースで乗られているのですから、そう簡単に「一般の人を優しく乗せる」という自らの存在意義の転換に適応できる馬は少ないはずです。
 それこそ、相手は馬ですから「やりがいを話して、説得する」というわけにもいかないでしょうし。

 そのなかで、一部の「ゆっくり走る才能」「自分に乗る人間の指示に素直に従う才能」を持った馬だけが、「乗用馬」として生き残っていくことができるのです。

 僕はこれを読みながら、「ああ、たしかに『ゆっくり走るようになれるのも才能』だなあ」と感心しました。
 もちろん、「速く走ることを追求する人」は必要なのでしょうけど、「乗っている人の反応を確認しながら、(レースに比べたら)ゆっくり走ることができる人」も必要なのです。
 馬の場合は、残念ながら、乗馬を含めても「生き方」は限られてしまうけれど、人間の場合には、もっと多様な価値観がある。

 まあ、「地球の未来」なんていうと大きな話になりすぎるのですが、「ゆっくり走るようになれるのも才能です」という言葉は、知っておいて損はないはず。
「速く走れる人は、ゆっくり走ることができる」と思われがちなのですが、「ゆっくり走っても、ストレスで暴発しない」というのは「速く走りたい人」にとっては、そんなに簡単じゃないんですよね。
 みんなが速く走ろうとしていればいるほど、「ゆっくり走ることができる」のは、武器にもなりうるのです。