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2012年03月14日(水)
「正しさ」への同調圧力によって、「正しい」ことをするべきではありません。

『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』(高橋源一郎著・河出書房新社)より。

(高橋源一郎さんが、2011年3月21日にツイートされた「『正しさ』について――『祝辞』」の一部です)

【あなたたちの顔を見る最後の機会に、一つだけ話したいことがあります。それは「正しさ」についてです。あなたたちは、途方もなく大きな災害に遭遇しました。確かに、あなたたちは、直接、津波に巻き込まれたわけでもなく、原子力発電所から出る炎や煙から逃げてきたわけでもありません。
 けれど、ほんとうのところ、あなたたちはすっかり巻き込まれているのです。なぜ、あなたたちは「卒業式」ができないのでしょう。それは、「非常時」には「卒業式」をしないことが「正しい」といわれているからです。でも、あなたたちは納得していませんね。
 どうして、あなたたちは、今日、卒業式もないのに、少し着飾って、学校に集まったのでしょう。あなたたちの中には、少なからず疑問が渦巻いています。その疑問に答えることが、あなたたちの教師として、わたしにできる最後の役割です。
 いま「正しさ」への同調圧力が、かつてないほど大きくなっています。凄惨な悲劇を目の前にして、多くの人たちが、連帯や希望を熱く語ります。それは、確かに「正しい」のです。しかし、この社会の全員が、同じ感情を共有しているわけではありません。
 ある人にとっては、どんな事件も心にさざ波を起こすだけであり、ある人にとっては、そんなものは見たくもない現実であるかもしれません。しかし、その人たちは、いま、それをうまく発言することができません。なぜなら、彼らには、「正しさ」がないからです。
 幾人かの教え子は、「なにかをしなければならないのだけれど、なにをしていいのかわからない」と訴えました。だから、わたしは「慌てないで。心の底からやりたいと思えることだけをやりなさい」と答えました。彼らは、「正しさ」への同調圧力に押しつぶされそうになっていたのです。
 わたしは、二つのことを、あなたたちにいいたいと思っています。一つは、これが特殊な事件ではないということです。幸いなことに、わたしは、あなたたちよりずっと年上で、だから、たくさんの本をよみ、まったく同じことが、繰り返し起こったことを知っています。
 明治の戦争でも、昭和の戦争が始まった頃にも、それが終わって民主主義の世界に変わった時にも、今回と同じことが起こり、人々は今回と同じように、時には美しいことばで、「不謹慎」や「非国民」や「反動」を排撃し、「正しさ」への同調を熱狂的に主張したのです。
 「正しさ」の中身は変わります。けれど、「正しさ」のあり方に、変わりはありません。気をつけてください。「不正」への抵抗は、じつは簡単です。けれど、「正しさ」に抵抗することは、ひどく難しいのです。
 二つ目は、わたしが今回しようとしていることです。わたしは、一つだけ、いつもと異なったことをするつもりです。それは、自分にとって大きな負担となる金額を寄付する、というものです。それ以外は、ふだんと変わらぬよう過ごすつもりです。けれど、誤解しないでください。
 わたしは「正しい」から寄付をするのではありません。わたしはただ寄付をするだけで、偶然、それが、現在の「正しさ」に一致しているだけなのです。「正しい」という理由で、なにかをするべきではありません。「正しさ」への同調圧力によって、「正しい」ことをするべきではありません。
 あなたたちが、心の底からやろうと思うことが、結果として、「正しさ」と合致する。それでいいのです。もし、あなたが、どうしても、積極的に「正しい」ことを、する気になれないとしたら、それでもかまわないのです。
 いいですか、わたしが負担となる金額を寄付するのは、いま、それを心からすることができなあなたたちの分も入っているからです。30年前のわたしなら、なにもしなかったでしょう。いま、わたしが、それをするのは、考えが変わったからではありません。ただ「時期」が来たからです。
 あなたたちには、いま、なにかをしなければならない理由はありません。その「時期」が来たら、なにかをしてください。その時は、できるなら、納得ができず、同調圧力で心が折れそうになっている、もっと若い人たちの分も、してあげてください。共同体の意味はそこにしかありません。
 「正しさ」とは「公」のことです。「公」は間違いを知りません。けれど、わたしたちはいつも間違います。しかし、間違いの他に、わたしたちを成長させてくれるものはないのです。いま、あなたたちが、迷っているのは、「公」と「私」に関する、永遠の問いなのです。
 最後に、あなたたちに感謝の言葉を捧げたいと思います。あなたたちを教えることは、わたしにとって大きな経験でした。あなたたちがわたしから得たものより、わたしがあなたたちから得たものの方がずっと大きかったのです。ほんとうに、ありがとう。
 あなたたちの前には、あなたたちの、ほんとうの戦場が広がっています。あなたを襲う「津波」や「地震」と、戦ってください。挫けずに。さようなら、善い人生を。】

〜〜〜〜〜〜〜

 あれから、1年と少しが経ちました。
 れは、東日本大震災によって卒業式がなくなってしまった明治学院大学国際学部の卒業生たちに、高橋さんが贈ったものです。
 今日は「ホワイトデー」なのですが、そういえば、去年は「ホワイトデー」なんてやってていいのか?とか思いながらも、結局「お返し」をしていたのを思い出しました。
 今年は、被災地以外では、震災前の「例年通り」卒業式が行われているようです。

 あのときは、「世の中がこんな状況では、卒業式ができなくてもしょうがない」と、僕は考えていました。
 でも、いまから考えると、直接被害を受けた地域以外で「自粛」されたのが正しかったのかどうか、あまり自信が持てないのです。

 あれから1年が経っても、「正しさ」をめぐる争いに、決着はついていません。
 原発反対派と維持派、放射線の影響に対する議論など、「自分の正しさ」を主張し、「間違っている人たち」を打ちのめそうとする人が大勢います。
 その議論が、本当に「みんなを幸せにするため」ならば、どこかに「落としどころ」があるはずなのに、むしろ、お互いの距離は広がっていく一方のようにすら思われます。

 東日本大震災は、これまで40年生きてきた僕にとっては、まさに「未曾有の」ものでした。
 でも、人間の歴史、少なくとも、記録に残っている歴史だけからみても、同じような「悲劇」を人間はたくさん経験してきました。
 そして、【人々は今回と同じように、時には美しいことばで、「不謹慎」や「非国民」や「反動」を排撃し、「正しさ」への同調を熱狂的に主張した】のです。

 うまく言えないけれど、僕にも、その「時期」が来ているのだと感じています。
 だから、できることは、やろうと思う。
 でもね、やりたくない人、できない人は、無理してやることはないのです。
 そういう世の中であリ続けることは、すごく大事なことだから。