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2011年09月22日(木)
「死にたいという気持ちをもっと詳しく言ってください」

『言葉の誕生を科学する』(小川洋子・岡ノ谷一夫共著/河出書房新社)より。

(「言葉の誕生」というテーマについての、作家の小川洋子さんと動物学者の岡ノ谷一夫さんの対談をまとめた本より)

【小川洋子:先日、テレビで統合失調症の人のリハビリについてやっていたのですが、言葉の問題の面からたいへん意味深いものを感じました。患者さんが、いつも「死にたい」と言って苦しんでいるので、専門家が、「死にたいという気持ちをもっと詳しく言ってください」とアドバイスする。するとその人はすごく悩んで一生懸命考えて、「うーん、じゃあさびしい」とか、「人とつながりたい」とか、少しずつ語数を増やしていくんです。それがリハビリになっていくんですね。ある程度回復した段階で過去の自分を振り返ると、「死にたい」と言っていたときの自分は他人に対して「魔球」を投げていた、と言うようになるんです。もっと緩やかな直球を投げればいいのに、わざわざ「死にたい」という大リーグボール何号みたいな言葉にして投げていた。それに気づくことで回復していくんです。短いセンテンス、短い言葉一つに安易に凝縮させるというのは、非常に危険な側面を持っていると思いました。同じことがメールにも当てはまると思うのですが、言葉の種類の貧弱さが、ニュアンスまでをも貧弱にしている。

岡ノ谷:「うざい」とか「かわいい」とかね。「死にたい」っていうの、何かもやもやした感情を、単に表す術がないものだから、もっとも近い表現として「死にたい」を選んじゃうってことですよね。

小川:手っ取り早く言っちゃうわけですね。

岡ノ谷:それをよく分析してみると、本当は「死にたい」ということではなく表現できないいくつもの成分を含んでいて、その一個一個を見ていくと実は解決可能なことだったんだと。

小川:実は「死にたくない」んだということになるんです(笑)。

岡ノ谷:「むしろ死にたくない」そういうことですね。だからそういう場合に、言語が言語として用いられなくなってしまうんだと思うんですよ。

(中略)

小川:前、『声に出して読みたい日本語』という本を出した齋藤孝さんとお話したのですが、子どもたちが気に食わない目ざわりな子を「うざい」とか「むかつく」と言っちゃうんですよね。ひとことで他者をくくってしまう、限定してしまう。

岡ノ谷:「ラベル付け」ですよ。

小川:言葉が態度や情を制限してしまうんだと思うんです。たぶん「うざい」「むかつく」という言葉だってもっとゆっくりいろいろ解きほぐしてみると、相手に対して違う見方ができるかもしれない。それはやはり言語能力の問題なんだというふうにおっしゃっていましたね。

岡ノ谷:そう、言葉を解きほぐす技術がないといけないですからね。

小川:「うざい」とか「むかつく」って、そう考えると非常に便利な言葉ですね(笑)。

岡ノ谷:便利ですよね。非常に簡単な線引きをしてしまう言葉ですよね。自分の仲間とそれ以外をはっきり分けちゃいますからね。「あいつうざい」というたったひとことで内と外を即座に決めちゃう。

小川:じゃあそういう学級の中で先生が何をやっていくかというと、相手を「さん」付けで呼ぶことから始めるんです。うざかろうが何だろうがとにかく相手をちゃんと「さん」付けで呼ぶことから始めて、少しずつ言葉を丁寧にしていくことで、そのとんがった気持ちを抑えられるらしいのです。

岡ノ谷:ある種の認知行動療法ってやつですね。形式から直していくんですね。まあそういうレベルからやらなければいけないのかな。それだけでは本当に仲良くはなれないと思うんですけど、ただいじめられている子が死んじゃったりするようなことは避けられると思いますよね。】

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 この「統合失調症の患者さんのリハビリの話」と「子供たちのあいだでの『うざい』問題」、いずれも「言葉の力」について、すごく考えさせられる話でした。
 もちろん、「言葉」だけですべてが解決させるわけではなく、前者では薬物療法にプラスして、「言葉を解きほぐす」ことを行っていくのでしょうけど。
 「死にたい」、そして、「うざい」「むかつく」というのは、非常に強い言葉で、その威力に周囲の人たちは圧倒されてしまいます。
 でも、この対談を読んでいると、こういう言葉って、本人たちも、正確にその意味や力を認識しないまま、「便利だから」使っているという面もありそうです。
 「死にたい」という言葉を聴いた周囲の人たちは、とにかく、「死なせないためには、どうすればいいのか?」と考えこみ、振り回されてしまいがちです。
 実際は、「漠然とした寂しさ」が「死にたい」という言葉になって表出されているだけなのかもしれないのに。
 そして、その「死にたい」の「本当の意味」は、解決可能なものかもしれないのに。

 「うざい」なんていうのもそうですよね。
 そんなふうに「自分は生理的にあなたが不快である」と言われた相手は、どうすればいいのかさっぱりわからない。
 しかしながら、「うざい」という感覚は、なんとなく、いまの子供たちには共有されているのです。
 「うざい」存在は、「排除」すべきものだと認識されています。
 そういう漠然としたイメージが、あるひとりの人間に貼られた「ラベル」になってしまうと、「うざいことに、はっきりとした理由が無い」だけに、被害者はどうして良いのかわからない。
 周りの子供たちも、その「うざい、というラベル」が自分に貼られるのはイヤだから、その「イジメ」に加担してしまう。

 「子供の言葉遣いに、そんなに神経質にならなくても……」と、僕はずっと思っていました。
 でも、このお二人の話を読んでいると、「言葉の乱れが、心の乱れ」なんていう、学生時代に嫌いだった生活指導の先生のお説教を思い出さずにはいられなかったのです。
 やっぱり「言葉にする」って、大事なんだよなあ。
 そして、「言葉を変える」ことは、「行動を変える」ことに繋がっていくのです。