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2011年09月13日(火)
20年前と今の『はじめてのおつかい』の変化

『いつだって大変な時代』(堀井憲一郎著・講談社現代文庫)より。

【「はじめてのおつかい」という番組がある。
 年二回ほど放送されている。日本テレビの番組だ。小さい子供が一人でおつかいに行くさまを放映している。1991年から始まっているのですでに20年続いている番組だ。ときに過去の「おつかい」が放映されることがある。90年代の前半の映像には、いまと違う特徴がある。それは「カメラマンが映り込んでいない」ということである。3歳くらいの子供が1キロほどの行程を一人で歩くのだ。それなりに危ない。だからかなりの数のカメラマンが地元民に変装し、また監視役のスタッフも変装して見守っているのだけれど、いまの放映では必ずスタッフが映り込んでいる。カメラマンが先回りしようとして不自然に通り過ぎるところや、慌てて隠れるカメラマンなどが何回も映し出される。最初のころはそういうものは映り込んでいなかった。
 日本テレビのディレクターと一緒に「はじめてのおつかい」映像を見てるときに「昔のはきれいだなあ」とぼそっと言ったのが印象的だった。なに、と聞くと、昔はほんとうに子供が一人でおつかいに行ってる心情に沿って映像が作られていて、そりゃそう作るのが当然のことなんだけれど、スタッフが慌てふためいているところや、ぞろぞろ動いているところなどは一切映ってないんだよ、と説明してくれた。
 どうも視聴者からクレームがついたらしい。
 つまり、かつてのような「ほんとうに子供が一人きりでおつかいに行ってる映像」では、大変危ないではないか、という抗議がいくつか来たらしいのだ。テレビ局はクレームがくるとけっこう対処してしまう。そこで、子どもは本当は一人ではない、複数の大人によって守られているのだ、ということを「わかりやすく」映像に映し出すことにしたのだ。
 映像を作るディレクターの心情としては、昔の、大人が映っていない映像のほうが美しかった、とおもうわけである。テレビ局の人間としては「そんなの大人が守ってるに決まってるだろう」ということなのだけれど、たしかにまあ、それは一生懸命にテレビを見てる田舎のおばあちゃんにはわからないだろう。
 ただ放映されているかぎりは事故はないに決まっているし、それぐらいのことを想像する力はあるはずである。それを想像しないというのは、必死で想像しないようにしているだけだ。スタッフが映り込んでいる姿まで映さないと、放映できない、という状況に、いろんなわれわれの心情が反映されていると思う。
 この場合のクレームは、子供を心配してのことではない。クレームの方向は「子供のことを心配してしまう私の心労をどうにかしろ」ということである。子供の危険を心配している体を装ってるぶん、かなり暴力的なクレームである。要は、テレビを見ていて余計な心配をさせるな、もっと安心して見られるものを提供しろ、という要求でしかないわけだから。
 ポイントは「安心できるものを提供する義務があるだろう」とおもう、その心根にある。この考えは間違っていない、と信じているところにクレーマーの問題はあるし、それはクレーマーだけの問題ではなく、多くの人にも同じ心根が潜んでいるという問題でもある。でないとテレビ局もそうそう対処するわけではない。あまりに特殊なクレームの場合は対処しないが、こういう「このクレーマーのうしろには似たような感情を持った人がそこそこいるだろう」と想像できるものに対しては、番組内容を変えていくものである。
 安心できるものが常に提供されているべきだ、という不思議なおもいこみがわれわれには根付いている。それを声高に主張するのはいいことだ、とどこかでおもいこんでいる。
 これは考えてみると、ちょっと不思議である。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕はこれを読んでいて、嘉門達夫さんの『ゆけ!ゆけ!川口浩!!』という歌を思い出してしまいました。

 ♪川口浩が〜 洞窟にはーいる〜 カメラマンと 照明さんのお〜 あとにはいーる〜

 まあ、そういうのって、テレビの世界では「お約束」ではあるんですよね。
 とはいえ、それをみんなが理解しているわけではないし、ああいうのは、「半信半疑」くらいがいちばん「面白い」のでしょう。
 僕も子どもの頃は、「川口浩探検隊は、あんなに『世紀の大発見』ばかりしているのに、なんで新聞に載らないのだろう?」って疑問に思っていましたし。

 この『はじめてのおつかい』の話、僕自身はこの番組をあまり観ないので、「そんな変化が起こっているのか……」と思いながら読みました。
 『はじめてのおつかい』という企画そのものが、「大人の都合」というか、「テレビで放送されているかぎりは、何らかの演出や大人の保護下で行われているバラエティ」だと思うので、あまり興味がわかないんですよ。
 いまは自分の息子と比べてみる、ということができるので、以前よりは面白く観ることができそうな気もしますけど。

 ここで堀井さんが書かれているように、「テレビで放映されている以上、出てくる子どもが途中で車に轢かれたり、転んで大けがをしたり、道に迷って行方不明になるなんて結末はありえない」はずです。
 もしそんなことが起こって、そのまま放映したら、それこそ「えらいこと」になってしまう。

 こういう話を読んでいると、テレビ局をはじめとするメディアの側も、いろいろと気を遣って大変なのだな、と思わずにはいられません。
 「子供のことを心配してしまう私の心労をどうにかしろ」と言われても、「それなら観なきゃいいのに」と言いたいのをグッとおさえて、わざと「スタッフを映し込む」。
 クレームに対して、「言い訳」ができるように。
 大部分の視聴者からみれば、「安心する」というよりは、「邪魔なものが映っている」ようにしか見えなくても。

 最近(には限らないのでしょうが)のメディアに対するクレームには、こういう「私を心配させるな」というのを「子どもにもしものことがあったらどうするんだ」「被害者が見たら不快に思うかもしれないだろう」という「他人への心配」にすり替えて、「一般化」したものが多いようです。
 太宰治的にいえば、「(それは世間が、ゆるさない) (世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)」

 こうして、「安全であることを、目に見える形で証明しなければならない」「誰にも『不快感』を与えてはならない」というプレッシャーをかけられる一方で、「最近のテレビは同じような番組ばかり」「安易な企画が並んでいる」と批判されるのですから、テレビ局も大変でしょうね。