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2011年04月07日(木)
「あなたはどう思いますか?」と訊くのと「国はどうするるべきだと思いますか?」と訊くのとでは、返ってくる答えが全然違うんです。

『ラジオの魂』(小島慶子著・河出書房新社)より。

(ラジオパーソナリティ・小島慶子さんが、1998年にはじまったラジオ番組『アクセス』のナビゲーターとして考えていたこと)

【番組ではいろいろなテーマをリスナーに投げかけました。「テレビのニュース番組は信頼できますか?」「過去に書かれた名作に登場する差別表現は撤廃したほうがいいと思いますか?」「伴侶を亡くしたときの覚悟はできていますか?」――。公的な問題から私的な問題まで、多種多様な投げかけをしましたが、いつも思っていたのは、設問の作り方ってとても大事だということでした。
 例えば、自衛隊をテーマにしたとしたら「あなたはどう思いますか?」と訊くのと「国はどうするるべきだと思いますか?」と訊くのとでは、返ってくる答えが全然違うんです。「国は……?」のほうが断然答えやすい。それは、遠慮なく批評や批判ができるからです。「国は自衛隊を持つべきだ」「いやそうでない、なぜなら……」と持論を展開できて、格好いい意見もいっぱい来ます。自分でない誰かが主語になると、人は思い浮かんだことをすらすらと言うことができるんですね。
 しかし、「あなたは……?」という風に投げかけると、バシッと明快に答える人は少なくなります。一挙に曖昧な答えが多くなる。「国が自衛隊ではなく軍隊を持ったら、あなたは軍に入りますか?」というような「あなたは」を問う設問には、歯切れの悪い答えがたくさん集まってくる。
 私はこの「歯切れの悪さ」がとても好きでした。「好き」と言うと語弊があるかもしれませんが、人が自分に向き合っている嘘のない姿を見ることができるようで、「いいなあ、最高だなあ」と思うんですね。人間の本音は、歯切れの悪いこと、白か黒かで答えられないことの中にしかない。堂々と、理路整然と、スパッと言い切ることができる考えや意見というのは、だいたいにおいて他人からの借り物や受け売りだったり、生活の実感とは遠いところにあるんですね。どんな問題でも「『誰か』ではなく、『自分』だったら?」と己に向かって問いかけてみると、必ず自分の中にある矛盾とか、奥底に沈んでいる嫌な部分にぶつかってしまう。直視したくないもの、しかも自分のそれを見るのは決して気持ちのいいことではありませんが、本音というのは「心地良くない作業」をしないと絶対に自分の中から発掘されないものなんです。
 リスナーに、そんな「心の作業」をさせるようなテーマを設定したい。だから設問の作り方、投げかけ方を工夫しなければと思いました。意見を寄せてくれる人だけでなく、聴くだけの人にもそのほうが心の真ん中に届くし、聴き応えがあるものになってくる。議論もリアルに、活発になる。番組が始まった当初からそう思っていましたから、ディレクターはときに喧嘩をしながら、テーマを作っていきました。話し合いをして、設問の言い回しを変えたことも何度もあります。】

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 小島慶子さん、先日『情熱大陸』に出演されていました。
 僕は、「小島慶子キラ☆キラ」という番組は聴いたことがないのですが(僕が住んでいる地域ではオンエアされていないので)、この本で語られている、小島さんの「ラジオというメディアへの信頼と覚悟」を読んで、あらためて「ラジオの力」というものについて考えさせられました。

 今回の大震災で、いろんな人が、さまざまな意見を述べているのを、ブログやtwitterなどで眺めているのですが、人間というのは、ネットのような「大勢に向かって発言できる舞台」に立ったとき、どうしても「格好いい意見」を言おうとしてしまいがちです。
 「日本は○○すべきだ」というのは、難しいようでいて、けっこう簡単なんですよね。
 自分に関係のないところであれば、「どちらかを選ばなければならないのだとすれば、1万人が犠牲になるよりも、100人が苦しむほうが良い」と、けっこう「客観的」に言ってしまいがちです。
 でも、そこで、「苦しむ100人」のなかに、「自分」や「自分の大切な人」が含まれていたとしたらどうでしょうか?
 それでも、何も悩まずに「正論」を振りかざせるのか?

 世の中には、「物事の中心から少し離れて、冷静に事態に対処するべき人」も必要です。
 僕がまだ子供だった頃、お葬式でずっとお金の管理ばかりしていた叔父さんを見て、「なんて冷たい人なんだ」と内心憤っていたことがあるんです。
 いま考えてみれば、そういう場では、誰かがそうやって、「事務的な処理」をしなければあとから様々な問題が出てくるので、あえて叔父はその役割を「悲しみの当時者から少し距離を置いて」やっていたのだということがわかります。
 そういう存在は、どんな状況下でもたしかに必要だし、自覚してそれがやれるというのは、すごいことなのだと思うのです。

 しかしながら、ネットで「正論」を振りかざしている人の多くは、自分もこのコミュニティの一員であるにもかかわらず、「当事者意識」を持っていないように見えるのです。
 「少し離れた場所から、当事者のひとりとして、自分のできることをやる」というのではなく、「最初から関係ない人間と自分を位置づけて、『正論』を吐くことにより、自分の正しさを証明しようとする」ことにばかり夢中になっているだけ。

 東電の社員がさまざまな嫌がらせを受けている、というニュースに対して、「もし自分の身内や友人が東電に勤めていたら…」と想像することもない人が、あまりに多すぎると僕は感じています。
 東京電力というのは、日本のなかでは、「珍しくもない大企業のひとつ」であり、東電だけモラルが破滅的に低い、というわけではないはずです(もちろん、「飛び抜けてモラルが高い企業」というわけでもないのでしょうが)。
 自分が勤めている企業で同じようなことが起こったとして、自分が嫌がらせをされても、「仕方がない」とあきらめられるでしょうか?

【どんな問題でも「『誰か』ではなく、『自分』だったら?」と己に向かって問いかけてみると、必ず自分の中にある矛盾とか、奥底に沈んでいる嫌な部分にぶつかってしまう。直視したくないもの、しかも自分のそれを見るのは決して気持ちのいいことではありませんが、本音というのは「心地良くない作業」をしないと絶対に自分の中から発掘されないものなんです。】

 微力ながら、僕はここで、「あなたはどう思いますか?」と問い続けたいと思っています。
 いや、「あなた」だけじゃなくて、「僕は本当はどう思っているのか?」と、自分にも問い続けるつもりです。
 「自分のこと」となると、なかなか財布から義援金を取り出せなかったり、ついついペットボトルの水を買い込んでしまうのが「人間」なのだし、それを自分で認めることからはじめないと、いつまでたっても、「当事者」にはなれないから。

 更新頻度は週に1回くらいが限界かもしれませんが、もうしばらく、ここで続けてみるつもりです。
 これからもよろしくお願いします。