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2010年04月11日(日)
「学校の外にでて遊ぶことで自由が手に入るなら、こんな簡単なことはない」

『毎月新聞』(佐藤雅彦著・中公文庫)より。

(「つめこみ教育に僕も一票」という文章の一部です。2001年の4月に発表されたもの)

【先日、数学者の藤原正彦さんがNHKの番組で、「いまこそつめこみ教育を」というテーマの論説をしていた。僕はそれを溜飲の下がる思いで見た。
 そもそも最近、学習指導要領の改訂など、教育に関する論議が多いが、その度に「ゆとり」とか「個性」とか「自由」という単語が頻繁にでてくる。それらの言葉を見る度に、僕は高校時代のふたりの先生のことを思い出す。
 ひとりは英語の先生で、大学を卒業したての若い先生だった。日頃から、「自由」とか「個性」という言葉を連発していたその先生は、ある日、授業が始まるやいなやこう切り出した。「みんな、教科書をここにおいて、外に出よう、外といっても運動場じゃない、学校の脇にある公園だ!」授業をやらずに生徒達を校外に連れ出すことは先生にとっては思い切った行動なのだろう。確か受験勉強たけなわの高3の初夏の頃だったと思う。
 公園に着くとその先生は全員を集めて話し始めた。「さあ、みんなは自由だ、こんな天気のいい日になにも教室で勉強しなくたっていいと思わないか。この時間はみんなが好きなことをやればいい、自分でやりたいことを決めればいい、そして授業が終わる5分前に集合しよう、あまり遠くへは行くなよ」
 僕たちは、仕方なくブランコに乗ってみたり、金網のゴミ箱に遠くから空き缶を投げ入れる競争をしたりして時間をつぶした。集合時間が来て、先生はもう一度、演説を最後に行った。「みんな、受験勉強のようなものにとらわれず、もっと自由になった方がいいんだぞ」
 それを聞いた僕らは、こんな自由ならいらないと思った。教科書を捨て、ブランコに乗ることのどこが自由なんだ、と腹立たしく感じてしまった。そして、自由な教育をしている自分に酔っているようにみえた先生にとても傲慢さを感じてしまった。
 もうひとりは数学の先生で、とても厳しくて数学のことしか話さないつめこみ型の先生だった。授業が始まるやいなやいつも教室に早足でやってきて、黒板に書かれている宿題の解答を端から見てはどんどん添削するのだが、普段は「この解き方はだめです。根本的にわかっていませんね」といったように手厳しいのだが、1学期に2〜3度こんな言葉が出ることがあった。
「いやーこれは綺麗な解き方ですね、誰ですかこれを解いたのは」
 数学を単なる数のややこしい計算としか考えていなかった僕は「こんな科目できなくてもいいや、でもまあ、受験に必要だから」と自分の成績の悪さを棚に上げて、数学を軽視していた。
 しかし、授業中、先生の発した「これは綺麗ですねー」という心からの言葉は、義務としての数学から僕を自由にしてくれた。数学ってそうだったんだ。
 その後、僕はそれまでの数学嫌いから数学科に進むかどうかを迷う位の数学好きになってしまった。
 僕は、あのとき英語の教科書を捨てるのではなく、逆に英語を話せることの大切さ、楽しさを授業の中でその先生が教えてくれたとしたら、真に受験勉強から自由になったと思う。学校の外にでて遊ぶことで自由が手に入るなら、こんな簡単なことはない。】

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 いまから10年くらい前に書かれた文章。
 佐藤雅彦さんは1954年生まれですから、この二人の先生に出会ったのは、1970年代のはじめくらいになりますね。

 これが書かれたのは「ゆとり教育」が叫ばれていた時期なのですが、この二人の先生の話は、いまの時代に読んでも、考えさせられるところがたくさんありました。
 僕は教師ではありませんが、自分の子供に接するようになって、「自由な教育」って何だろう?と悩んでいます。「自由」って言うけど、何の下準備も覚悟も出来ていない人間が「自由にしろ」と言われても、それこそ、「公園でブランコに乗って時間をつぶすしかない」のは当たり前のことなんですよね。「ギチギチの管理」には問題があるのでしょうが、「自由」ほど、慣れていない人間にとって取り扱いに困るものはないかもしれません。
 まあ、こういう「公園での自由時間」なんていうのは、「本物の自由」とは別物なんでしょうけど。

 この佐藤さんの文章を読むと、この英語の先生を、「バカだなあ、この人。何勘違いしているんだろう……」と嘲笑したくなります。
 でも、「『自由』とか『個性』とかをしきりに押しつけながら、実際にやっていることは、単なる『責任の放棄』と『自己満足』でしかない」という事例は、学校の中だけじゃなくて、社会の中にもたくさんあるし、僕も自分の子供に対して、そんなふうに接していることが多いような気がするんですよ。

 ただ、後者の英語の先生が「理想の教師」かと言われたら、「うーん、前者よりはマシかもしれないけど、数学の素養が全くない生徒にとっては、かなり苦痛な授業じゃないのかなあ……」とも思うのですよ。
 もちろん、自分が教えている教科に愛着を持っていて、その美しさを語ることができるのはすばらしいことですが、ここまで突き放してしまっては、ついていけない生徒も多いのではないでしょうか。

 結局のところ、教師と生徒の関係も「相性」だとしか言いようはないのかなあ。
 僕自身は、とりあえず、子供の前で仕事の愚痴とか辛いことを話すのはやめたいと思います。継いでもらいたいなんて更々思いませんが、「自分の仕事にプライドを持っていない親の姿」は、見ていて気持ちの良いものじゃないだろうから。

 「自分が持っているものの楽しさや美しさ」を伝えることってものすごく難しい。でも、だれかがそれをやらないと、人間の文化っていうのは、先細りしていくばかりになってしまうのでしょう。