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2009年11月09日(月)
マンガ家・福本伸行の「ぼくがギャンブルを描き続ける理由」

『ユリイカ 詩と批評』(青土社)2009年10月号の「特集・福本伸行」より。

(福本伸行さんと大槻ケンヂさんの対談記事「『ドル箱』いっぱいの愛を!〜勝ち負けと、その先」の一部です)

【大槻ケンヂ:福本さん自身はギャンブルはやるんですか?

福本伸行:ほとんどやらないんです。とは言っても、ぼくは釣りとかはやる気がしなくて、やっぱり点数がつくもののほうが好きみたいなんですね。ゴルフも好きですけど、あれも点数がつくじゃないですか(笑)。点数がついて勝ち負けのあるものが好きなんですね。

大槻:その点で、ぼくには勝ち負けっていうのを否定したい気持ちがずーっとあるんですよ。つまり勝ち負けがあるということは負ける可能性があるわけで、「そんなの、いやだよっ!」って思うわけです。だからぼくの人生は「合気道人生」って言っているんですけど、合気道には勝ち負けってないんですね。ところが、『カイジ」とかは体制側が勝つか、持たざる側が勝つかの勝負じゃないですか。だから読んでいると「もしかして、俺も闘わなければいけないのではないかっ!?」と思ってしまって、ちょっと困ってしまったりもしましたね(笑)。

福本:ぼくは「そこは闘わなくちゃダメだろ」っていうマンガをずっと描いてきたわけで、やはり、「勝った負けたが面白い」っていう立場にある。だからギャンブルっていうモチーフがぼくには合うんです。
 こどもの遊びにも勝ち負けってありますけど、それってある種の修行だと思うんですよ。例えばヨーロッパの紳士たちがカジノをするんですけど、それはギャンブルで負けたときでもいかに平静に振る舞えるかという鍛錬でもあるんですね。これはさらに言うと――なにかの本で読んだんですけど――死ぬための練習にもなるんです。つまり、人間がいずれ生物として必ず死ぬように、カジノでは必ず負けるときがくる。だから、ギャンブルで負けるっていうのは確定している死のための「擬似死」であり、その練習であるらしいんですね、そういうセンスは、でもたしかにぼくのなかにもあるんですよね。

(中略)

福本:そもそもぼくたちは仕事じたいがちょっとギャンブル的なんですよね。ギャンブルをあまりやらないって話をしましたけど、仕事がそれを代替しているようなところがある。つまり、マンガの連載を持つっていうのはある種の興業みたいなものだとぼくは思っていて、それがどれだけロングランになるか、小屋にどれだけ客が入るかっていうのは問題なわけです。芝居、舞台っていうのは、やっても客が入るかどうかわからないところに先行投資しるという意味で一種、ギャンブルなところがあって、同様に僕らのマンガも連載を立ち上げて、それが続くか続かないかっていうギャンブルなんですよね、ミュージシャンももちろんそうでしょうけど。

大槻:バンドを組むなんていうのもまさにそうですね。筋肉少女帯の場合はなんだかわからないけど良い駒が集ることはできて、20年以上やることができましたけど。

福本:なので、ギャンブルである以上は勝ち負けというのがあるんだけど、でも、そうしたなかで「勝ち負けは大切」っていうことと、「勝たなければいけない」というのに差異があることは自覚的でないといけないと思いますね。いまは後者の「勝たなければ意味がない理論」みたいなもの――それはある意味では正しいんだけど――ばかりが跋扈しつづけて、いわゆる負け組みたいなひとたちをゴミのようにみる風潮がちょっとあるじゃないですか。それは絶対に間違っていると思うんです。さっき言ったこととは矛盾して聞こえるかも知れないですけど、でもどんなに力をつくしても負けるってことってどうしてもあるわけで、そうして生まれた結果だけをみて非難するのは明確におかしい。】

〜〜〜〜〜〜〜

 代表作『カイジ』『アカギ』をはじめとして、「ギャンブルを描くマンガ家」というイメージが強い福本伸行先生が、「自分ではほとんどギャンブルはやらない」というのは、けっこう意外でした。
 作品のなかでは、あれだけ、「ギャンブラーの心理」を綿密に描写しているのに、あれはほとんど、福本先生の「想像」なのでしょうか。

 ただ、このインタビューを読んでいると、福本さんは、「マンガを連載するという仕事」あるいは「人生そのもの」をある種の「ギャンブル」として考えているのだということがわかります。
 マンガの中では、麻雀やパチンコなどの「身近なギャンブル」を舞台にしていますが、それは、読者への伝わりやすさを考えてのことなのかもしれませんね。

 この対談のなかで、とくに僕にとって耳に痛かったのは、【例えばヨーロッパの紳士たちがカジノをするんですけど、それはギャンブルで負けたときでもいかに平静に振る舞えるかという鍛錬でもあるんでうね。】という言葉でした。
 競馬に負けたときには、あれこれと自分が買った馬券を悔やんだり、落ち込んだりする僕は、修行が足りないというか、死ぬときも「往生際が悪い死にかたをする」のではないかなあ。
 ほんと、ギャンブルで怖いのは、「負けてお金を失うこと」だけではなく、それをきっかけに金銭的なトラブルを引き起こしたり、精神的に不安定になって周囲に八つ当たりし、人間関係が破綻したりすることなんですよね。実は、「負けた後にどう振る舞うか」というのが、すごく大事なのですが、わかっているつもりでも、そこで気持ちを切り替えるのは、かなり難しいのです。
 少なくとも、人生で大きく挫折したときの「鍛錬」になれば、ギャンブルに負けることにも、それなりに「意義」はありそうなのですが。

 あと、この福本先生の話で印象的だったのは、「勝たなければ意味がない理論」への疑念でした。
 「勝たなければゴミだ!」っていう、『カイジ』での有名なセリフがあるのですが、福本先生自身は、「勝つことだけがすべてじゃない」と考えておられるみたいです。僕も、そういう「敗者にもあたたかい世界」であったほしいなあ、と思います。
 でも、今の世の中でフィクションの中以外に「美しい敗者」というのが存在しうるのか、僕はちょっと、疑問でもあるのですけど……