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2009年10月24日(土)
「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いかけへの「もっとも有効な答え」

『下流志向』(内田樹著・講談社文庫)より。

【答えることのできない問いには答えなくてよいのです。
 以前テレビ番組の中で、「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いかけをした中学生がいて、その場にいた評論家たちが絶句したという事件がありました(あまりに流布した話なので、もしかすると「都市伝説」かもしれませんが)。でも、これは「絶句する」というのが正しい対応だったと僕は思います。「そのような問いがありうるとは思ってもいませんでした」と答えるのが「正解」という問いだって世の中にはあるんです。もし、絶句するだけでは当の中学生が納得しないようでしたら、その場でその中学生の首を絞め上げて、「はい、この状況でもう一度今の問いを私と唱和してください」とお願いするという手もあります。
 世界には戦争や災害で学ぶ機会そのものを奪われている子どもたちが無数にいます。他のどんなことよりも教育を受ける機会を切望している数億の子どもたちが世界中に存在することを知らない子どもたちだけが「学ぶことに何の意味があるんですか?」というような問いを口にすることができる。そして、自分たちがそのような問いを口にすることができるということそのものが歴史的に見て例外的な事態なのだということを、彼らは知りません。
 先ほどの「人を殺してどうしていけないのか?」と問う中学生は「自分が殺される側におかれる可能性」を勘定に入れていません。同じように、「どうして教育を受けなければいけないのか?」と問う小学生は「自分が学びの機会を構造的に奪われた人間になる可能性」を勘定に入れていません。自分が享受している特権に気づいていない人間だけが、そのような「想定外」の問いを口にするのです。
 しかし、このような問いかけに対して、今の大人たちは、断固として絶句して、そのような問いは「ありえない」と斥けることができない。絶句しておろおろするか、子どもたちにもわかるような功利的な動機づけで子どもを勉強させようとする。子どもたちは、自分たちの差し出した問いが大人を絶句させるか、あるいは幼い知性でも理解できるような無内容な答えを引き出すか、そのどちらかであることを人生の早い時期に学んでしまいます。これはまことに不幸なことです。というのは、それがある種の達成感を彼らにもたらしてしまうからです。
 そして、この最初の成功の記憶によって、子どもたちは以後あらゆることについて、「それが何の役に立つんですか? それが私にどんな『いいこと』をもたらすんですか?」と訊ねるようになります。その答えが気に入れば「やる」し、気に入らなければ「やらない」。そういう採否の基準を人生の早い時期に身体化してしまう。
 こうやって、「等価交換する子どもたち」が誕生します。】

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 この「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いはかなり話題になりました。
 僕もひとりの親として、自分の子どもにそんな質問をされたら、どう答えたらいいのだろう?と悩んでしまいます。
 つい最近までは、僕がこういう「大人を困らせるための質問」をする側だと思っていたのに。

 「どうして人を殺してはいけないのですか?」については、テレビの討論番組で採り上げられたこともありましたし、この問いに向き合った本も何冊か出ています。でも、僕はさまざまなメディアが、「命の大切さ」を訴えて、この中学生を「説得」しようとすることに、なんだかちょっと違和感がありました。

 いまの世界で生きていれば、宗教やイデオロギーの違い、あるいは、個人的な性癖などを理由に「殺してもいい、あるいは、殺すことが正義」だと主張する人間がいることも知っているでしょう。
 そんななかで、「どんな理由であっても、人を殺してはいけない」という「建前」のウソ臭さに反発したいのもわからなくはない。
 『北斗の拳』みたいな世界になったら、大部分の人は苦しむことになるでしょうけど。

 正直、僕はこういう「他人の命なんて、どうでもいい」「自分はつねに『殺す側』だという想像しかできない」人間を「言葉だけで理解させること」が可能なのだろうか?と思うんですよ。
 「それは教育の敗北だ」と言う人も多いだろうけど、まさに、ここで内田先生が冗談交じりに書かれているように「その場でその中学生の首を絞め上げて、『はい、この状況でもう一度今の問いを私と唱和してください』とお願いする」しかないんじゃないかなあ。
 自分の子どもや生徒にそんなことをしたい教師や親はいないでしょう。僕だって、自分の息子の首を絞めるなんて、まっぴらごめんです。
 でも、その手しかないのかもしれない。

 もちろん、「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いに対して、「一緒に真剣になって考える」べきなのだろうな、とも思うのです。もしかしたら、そうやって「真剣に考えてくれる大人」そのものを、子どもは必要としているのかもしれません。
 ただ、結局のところ、いまの日本で生活している子どもたちに「貧しい国の子どもたちは……」って話しても、「その国はその国、日本は日本」だと受け流されてしまいそう。それは、子どもだけの話じゃないのだけれども。

 「自分や大事な人が殺されるのはイヤだから、自分も誰かを殺しちゃいけないんだよ」という「正論」は、はたして、こういう子どもたちを「説得」することができるのかなあ。
 僕は内心、「そういう子どもたちの大部分は、本気で疑問に思っているのではなく、大人を困らせてみたくてそんな質問をしている」だけなのだという気もするんですけどね。甘いのかな……