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2008年03月30日(日)
「世界一の砲丸職人」と北京五輪の「悲劇」

『日本の職人技〜松井のバット、藍ちゃんのゴルフクラブをつくる男たち』(永峰英太郎著・アスキー新書)より。

(アトランタ(1996)、シドニー(2000)、アテネ(2004)の3大会連続でオリンピックの砲丸投げ競技でメダルを独占した「世界一の砲丸職人」(有)辻谷工業の辻谷政久さんが、1988年に、はじめて自作の砲丸がソウルオリンピックで採用されたときのことを振り返って)

【「(ソウルオリンピックで)私の作った砲丸を使う選手は一人もいなかった。納品したのに、使ってもらえないのは”敗北”です。言葉にできない悔しさがありました」
 しかし、ここでさじを投げる辻谷さんではなかった。自分の砲丸の欠点はどこにあるのか――。それを探り始めた。ある日のこと。工場の近くの土手で試し投げをしているとき、辻谷さんは、ある疑問を抱いた。
「同じ重さの砲丸なんですが、飛ぶ距離が違うんです。それで調べてみると、飛ぶ砲丸は、平面に置くとコロコロ転がらない。一方、飛ばない砲丸は、転がる。『あっ!重心か』とひらめいたんです」
 試しに、今までオリンピックで使用された実績のある砲丸を取り寄せ、それらを半分に割ってみた。すると――。
「海外の製品はすべてNC旋盤で作っているんです。そのままの状態では、国際規格の重さに合わすことができずに、砲丸に穴を開けて鉛を入れたりと、重さの帳尻を合わせていました。その結果、重心もズレまくっていた。重心を中心に持ってこれれば、選手に受け入れてもらえると確信しました」
 重心を真ん中に持ってくることは至難の技。前述したように、一つの素材でも、上部は密度が濃く、底部は薄くなる。
「つまりは、密度が濃いところを削り、重心を真ん中に持ってくるんですか」と、筆者が聞くと、「簡単に言えば、そうなりますが、肝心なのは勘です。光沢や、旋盤を削っているときの音、指先に伝わる圧力などを感じ取りながら、作業を進めていきます」と辻谷さんは”感覚の大切さ”を説いた。
 バルセロナオリンピックに照準を絞っていた辻谷さんは、重心はもちろんだが、もう一つ、あるアイデアを砲丸に盛り込んだ。
 それまで砲丸と言えば、表面上はツルツルだったが、手紋を入れたのだ。友人50人近くから指紋を集め、手にフィットするように”筋”と入れた。
「持ちやすくて、投げやすいかなと。筑波大学の学生さんにも試投してもらったら、全員が『投げやすい!』って感想を述べてくれて。JOCの許可も得られて、その砲丸をバルセロナオリンピックに納品したんです」
 すると、面白いことが起こった。32個納品したうち、約半分が、本番前に紛失したのだ。選手が自国での練習用にと、無断で持ち帰ったのだった。
「なくなったと聞いて、喜んだのは私だけでした」と辻谷さん。この大会では、日本製の砲丸で獲得したメダルは銀1個。それでも、辻谷さんは大きな手ごたえを感じた。
 果たして――。その後のアトランタ(1996)、シドニー(2000)の2大会では、金、銀、銅メダルを独占。辻谷さんの砲丸は、一躍”大人気モデル”となった。
 オリンピックという場は、選手だけではなく、あらゆる企業にとって戦場だ。メダルを独占するメーカーは、目を付けられる運命にある。
 辻谷さんの考案した「砲丸に筋をつける」というアイデアは禁止という憂き目にあう。しかし、辻谷さんは前向きだった。
「ならば、重心をもっと真ん中にしようと考えましたね。シドニーでは、まだ10分の2程度は重心がズレていました。手触りがツルツルならば、重心でカバーするしかないですから」
 アテネオリンピック。日本のカメラマンに砲丸選手のトップ4人が「今回は、日本製はないのか?」と聞いてきたという。筋がついた砲丸がなかったからだ。
「ルール改正の話をしたら、彼らは納得して、ツルツルの私の砲丸を手にしたそうです」

 その結果、アテネでも、金、銀、銅を独占。4位に終わったマルチネス選手(スペイン)は、インド製を使用。競技後に「日本製を使っていれば……」と嘆いたという逸話も残っている。

(中略)

 じつは、2001年春に、辻谷さんは海外メーカーから週給2万ドルで、技術的なライセンスの譲渡を条件に、技術指導に来てほしいというオファーをもらっている。
「断りました。鋳物屋さんなどの協力なくして、ここまでの砲丸を作ることはできませんでしたし、日本発の技術は大切に守らないといけませんから」
 1週間に200万円のオファーがあったことを、当時、家族には知らせなかったという。
「女房には、あとで、すごく怒られましたね」
 そう話すと、長年の作業で黒ずんだ、まさしく職人の手を頭にやりながら、辻谷さんは大きく笑った。】

〜〜〜〜〜〜〜

 辻谷政久さんは1933年生まれ。70歳をこえた今でも、「世界一の砲丸」を作り続けておられます。辻谷さんの砲丸が最初にオリンピックで採用されたのが1988年だそうですから、その時点でもう50代半ば。普通だったら、それまでの技術の「貯金」で食いつないでいこうと考えてもおかしくないところなのですが、本当に「挑戦」が好きな人みたいです。

 僕はこの本を読むまで知らなかったのですが、

【砲丸投げには「マイボール」の使用は禁止されている。
 例えば、オリンピックでは、JOCの審査をクリアした世界5〜6社の公式球が、会場に並び、選手はそのなかから自分に合った球を選んで使う。】

ということなのだそうです。不正防止とか、競技の公平性を期するため、ということなのでしょうが、それならいっそ1つだけに決めてしまえばいいような気もするんですけどね。
 まあ、各メーカー間の競争もあり、そうできない事情はあるのでしょう。
 いくら気に入ったからといって、「黙って持って帰ってしまった」という「オリンピック選手」たちのモラルもいかがなものか、とは思うのですが、そのくらい魅力的な砲丸だったのだろうなあ。

 辻谷さんの砲丸の凄さというのは、ここに採りあげられているエピソードだけでも十分に伝わってきます。
「シドニーでは、まだ10分の2程度は重心がズレていました」
って、機械では調整できないような「ズレ」を修正してしまう職人の「勘」の世界、僕には全く実感がわかないんですけどね。

 「週給2万ドル」を辻谷さんが断ったのは、「日本発の技術」へのこだわりと同時に、「こういうのは『技術指導』したってみんなができるようなものじゃない」という気持ちもあったのではないかな、と僕は思います。

 ところで、この「日本の職人力」の象徴のような辻谷さんの砲丸、今年の北京オリンピックには納入されないのだそうです。その理由は、辻谷さんが、サッカーのアジアカップ中国大会での「日本バッシング」や「日本大使館への投石」などの蛮行を見て、「この国にはオリンピックを開催する資格がない」と感じたからなのだとか。

 たぶん、選手たちとしては、「世界一の砲丸」をオリンピックで使えないのはとても悲しいことだと思いますし、「砲丸そのものの価値」を考えれば、オリンピックという桧舞台を「ボイコット」するというのは、かなりの英断のはず。
 この話を聞いて、僕は「中国政府のことはさておき、選手たちにとっては『もっとも大事な大会」であるオリンピックで、何もそんな形で抗議しなくても……」と感じたのですが、逆に、辻谷さんがスポーツに携わるものとして「中国に抗議」するには、この方法しかないのも事実。

 ただ、この「ボイコット」が、スポーツの世界にとって、やるせない話だなあ、ということだけは間違いないですよね。もちろん、いちばん辛いのは、「オリンピックで自分の砲丸がメダルを獲るのを見られない」選択をした辻谷さんなのでしょうけど……