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2008年01月30日(水)
「娯楽」や「知識欲」を越えた『人間が本を読む理由』

『書店員タカクラの、本と本屋の日々。…ときどき育児』(高倉美恵著・書肆侃侃房)より。

(新文化「レジから檄」1998年6月11日号に発表された「読者も本屋も<業>というコラムから。著者の高倉さんが、北九州の福家書店に就職したときのことを振り返って)

【その年はちょうど、現在も版を重ねている「コミックカタログ」を創刊した年で、合わせて開催したコミックイベントの準備とカタログ創刊とで、狂ったような慌ただしさでした。先輩たちが、通常の仕事をこなした上でイベントや目録の準備をしていたことも驚異的でしたが、多くの常連客がその試みを面白がって、無報酬でいろいろ手伝ってくれていることに、さらに驚愕しました。
 「この、先輩たちのようになりたい」「この面白がりの常連客が、喜んでくれるような本屋になりたい」と痛切に憧れたことがわたしの本屋の始まりだったように思います。
 その気持ちはずっと変わらず、今もってそれが目標であったりしますが、本屋の状況はどんどん変わってきました。
 今まで通りではやってゆけない、と誰もが言い、危機感をつのらせていますが、何がどう変わっても全ての本屋がなくなるわけではありません。
 呉智英氏は「季刊 本とコンピュータ」春号で
「人が本を読む理由は、娯楽のためか何かを知るためのふたつに尽きるが、じつはそれを超えた《業》のような一面が存在する」
と、言っています、そして、業としての読書はこれから500年や1000年のあいだはなくならないと結んでいますが、同じことは本屋にも言えると思います。なぜなら、本屋というごった煮のような空間にわざわざ訪れて本を買う、その行為にも先に述べた《業》があるからです。
 そこで、淘汰されずに残る方の本屋になろうと、もがいているのが現在のわたしたちです。本を読むという業と本屋に来る業を抱えた読者<客>を、本を売るという業を抱えてしまった本屋は、真摯に迎え続けるしかないのだと思っています。】

〜〜〜〜〜〜〜

 九州の書店員・高倉さんが地元の新聞などに書かれていたコラム・エッセイを集めた本の一部なのですが、書かれてから10年経っているにもかかわらず、この内容は、ほとんど古びていないように思われます。10年前よりさらに「本は売れなくなり」、「大規模書店が乱立し」、「Amazonなどのネット書店が一般化した」にもかかわらず。

 僕がこのコラムで最も印象に残ったのは、呉智英氏の「人が本を読む理由は、娯楽のためか何かを知るためのふたつに尽きるが、じつはそれを超えた《業》のような一面が存在する」という言葉でした。

 僕は子どもの頃、「どうして還暦を過ぎたようなお年寄りが本を読むのだろう?」とすごく疑問だったんですよね。「あの人たちは、いまさら本を読んで知識を得ても、それを生かすだけの時間がほとんどないのに、ムダな努力だな」というような傲慢なことを考えていたのです。
 でも、僕も自分が年を重ねていくにつれて、「本を読む」という行為は、「知識を得る」という実用性だけのためにあるのではなく、「純粋にな娯楽」として存在しても良いのだ、ということがわかってきました。
 そして、30年以上も本を読み続けてきた今では、この「読書には《業》のような一面がある」という言葉の意味も、少しわかるようになってきた気がするのです。
 うまく言葉にはしにくいのだけれども、読んでいても楽しくないし、自分が必要としている知識がそこにあるわけでもないはずなのに、「読まずにいられない」、「とりあえず本を手にして、活字を目で追うための読書」というのは、僕も無意識のうちにずっとやってきていることなのではないかな、と。

 考えてみれば、僕自身が30年以上生きてきているなかで、本当にたくさんの娯楽が新しく登場してきました。
 30年前は、夜眠れないときの娯楽としては、本を読むかラジオの深夜放送を聴くか、というくらいしか選択肢がなかったのに、今はDVDを観ることも、ゲームをすることも、(加入している人なら)何十、何百チャンネルとあるCS放送から観たい番組を選ぶことも、ネットの海を漂うことも可能です。
 にもかかわらず、これだけ「出版不況」と言われながらも、「本を読む」ことを趣味としている人はたくさんいるし、出版業界もひとつの産業として生き延びています。
 これって、実はものすごいことなんですよね。

 正直、「業としての読書」を、人間があと何年続けていくのかなんて僕にはわかりません。10年前に呉さんは「500年や1000年はなくならない」と書かれているのですが、同じ質問を今の呉さんにしたら、どんな答えが返ってくるのでしょうか?
 とりあえず現在の僕は、「とりあえず自分が生きている間くらいは、なくならないだろうな」と思っています。これからもずっと、この《業》を背負って生きていくことになりそうです。それが幸福なのか不幸なのか、自分にも全然わからないままで。

 まあ、《業》っていうのは、不倫もギャンブル依存もなんとなくロマンチックなイメージに変えてしまう「便利な言葉」でもあるんですけどね……