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2007年04月17日(火)
『源氏物語』は、藤原道長の「秘密兵器」だった!

『先達の御意見』(酒井順子著・文春文庫)より。

(あの『負け犬の遠吠え』の筆者・酒井順子さんと、人生の「先達」たちとの対談集の一部です。瀬戸内寂聴さんとの対談から、『源氏物語』についての話)

【瀬戸内寂聴:源氏には相当政治的な面もあって、六条御息所亡き後、その娘を藤壺との間の不義の子・冷泉帝のもとへ入内させ、御息所の財産をうまく自分のものにしたりしています。

酒井順子:道長を通して得た政治の世界の話が、物語にリアリティの膨らみを与えたんでしょうか。ただ、『紫式部日記』には道長がある晩、自室の戸を叩いたけれども、どんなに叩いても自分は開けなかった、と書いていますね。

瀬戸内:紫式部の日記は一番大事なことは書いてないの、韜晦趣味でね。大体、女流作家の日記は嘘が多い(笑)。自分に都合の悪いことは誤魔化してある。

酒井:でも、”道長にせまられた”という事実はしっかり書き残しておくという辺りは、一種の自慢のような気もします。しかし、道長は紫式部のどこがよかったんですかね。

瀬戸内:彼女の才能を政治的に利用したんでしょうね。当時、一条天皇をはさんで、清少納言の仕えた中宮定子のサロンと、道長の娘の中宮彰子のサロンがライバル関係にあった。どうやら中宮定子は素晴らしい女性だったようね、容貌も教養も。

酒井:枕草子を読んでも、定子のサロンは明るくて楽しそうです。清少納言ものびのびと宮仕えを楽しんでいる。

瀬戸内:一方、彰子は12歳で、天皇を引きつけるだけの魅力はまだない。そこで道長は、一条天皇の文学趣味に訴えようと、あちらが随筆ならこっちは小説だとスカウトしたのが紫式部。

酒井:物語で天皇を釣るとは。ハードよりソフト!

瀬戸内:声のいい女房の誰かに源氏物語を朗読させて、天皇が続きを所望されればしめたもの、「ではまた来週、お渡り下さいませ」と中宮彰子のサロンに足を向けさせる手段に使う。それに道長は、紫式部にまっさらの紙を惜しみなく与えています。

酒井:あの頃、紙はとっても貴重だったんでしたね。清少納言も「生きるのが嫌になった時、真っ白で美しい紙によい筆が手に入ると、すっかり気が晴れて、しばらく生きていけそうだと思う」と枕草子に書いています。

瀬戸内:道長本人は何か書いた紙の裏に、自分の日記を書きのこしてるんですよ。源氏物語への力の入れようがわかるでしょう。】

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 瀬戸内寂聴さんのお話がすべて「歴史的事実」なのかどうか、僕もネットで調べられる範囲では調べてみたのですが、はっきりとした裏付けは得られませんでした。でも、この二人の話を読んでいると、少なくとも『源氏物語』という文学作品は、「芸術」としてだけでなく、「政治的な駆け引きの道具」として使われた面があったのは事実のようです。少なくとも、紫式部が個人的な趣味だけで書いていたものであれば、「道長からまっさらの紙を惜しみなく与えられる」ことはなかったでしょうから。

 現代人の感覚からすれば、そこで語られる「物語」に魅かれて天皇が中宮彰子のサロンに足しげく通うようになるというのは、なんとなく違和感があるのですが、当時は現代と比べたら、はるかに娯楽が少ない時代ですから、「定子のところに行けば『源氏物語』の続きが聴ける」というのは、けっこう強力なセールスポイントでしょう。この2人の対談の内容からすれば、女性としての魅力は定子>彰子だったようですから、彰子の父親が時の権力者藤原道長であっても、それだけで彰子の地位を確固たるものとするのは難しかったのかもしれません。当時の道長くらいの権力があれば、そんな小細工をしなくても、それこそ力づくでどうにかできたのではないか、という気もしなくはないのですが、そうしないのが平安貴族の流儀、というところでしょうか。まあ、物語そのもので天皇を引き寄せられなかったとしても、「あの『源氏物語』の作者が中宮彰子に仕えている」という事実だけでも、けっこう彰子にはハクが付きそうですしね。

 『源氏物語』は藤原道長の大切な「武器」のひとつだった、というのは、後世、この物語を「たくさんの古典のなかで、もっとも有名なもののなかの一冊」としてしか意識することのない僕にとっては、なんだかとても驚かされる話です。もちろん、すぐれた作品であったから、武器にも成り得たのでしょうけどね。
 それにしても、「チラシの裏」に自分の日記を書いていたにもかかわらず、真っ白な紙を紫式部に提供していた藤原道長という人は、すごい野心家か、すごい合理主義者、あるいはその両方だったんだろうなあ……