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2006年12月27日(水)
「『硫黄島からの手紙』は、日本映画だと思っています」

「日経エンタテインメント!2006.12月号」(日経BP社)の記事「正月映画・大勝負の行方」での『硫黄島からの手紙』(クリント・イーストウッド監督)に関する、渡辺謙さんのインタビュー記事の一部です。

【インタビュアー:『硫黄島からの手紙』はハリウッド映画ですが、セリフは日本語だそうですね。

渡辺謙:栗林忠道の過去を回想する場面で少し英語がありますが、99%は日本語です。脚本は英語で書かれており、翻訳する段階で監督やプロデューサーとディスカッションしました。日本語は「てにをは」が変わるだけで、微妙に意味が異なりますから。また、クリント(・イーストウッド監督)は撮影現場で俳優の演技に合わせてセリフを変えていきます。でも、どんな日本語のセリフが適切なのかを決める担当がいなかった。そこで、基本的に僕が9割近く現場にいてチェックさせてもらいました。

インタビュアー:ほかに謙さんのアイデアが映画に取り入れられた点は?

渡辺謙:脚本は、アメリカに残されている硫黄島の資料を基に書かれています。日本の資料を読んだとき、脚本の栗林像とは違う印象を受けました。そこで、僕の中で印象に残るエピソードを10個くらいノートに記入して渡し、脚本にいくつか反映してもらいました。

インタビュアー:『硫黄島からの手紙』は舞台が日本、セリフが日本語なのに監督、スタッフはアメリカ人です。違和感はありませんでしたか。

渡辺謙:僕はこの作品を最初から日本映画だと思っていました。アメリカ人が見た日本ではなく、日本映画をクリントが撮ってくれたと僕は解釈をしていたので、違和感はありませんでした。
 ただし、なぜ彼が撮りたいと思ったのか。期待もするし、不安もある。彼に直接聞いたところ、『父親たちの星条旗』を撮ったときに日本兵の姿が見えなかったと。日本兵が何を考えて、何を感じてこの戦いに挑んだのか、非常に興味があったと。戦争はどちらかがいいとか悪いとかじゃないんだと、非常に明確なビジョンをお持ちだったので、出演することにしました。

インタビュアー:ハリウッドでは、これまで戦争を題材にした映画が数多く作られてきました。『硫黄島からの手紙』は何が一番違いますか。

渡辺謙:先ほど言いましたように、これは日本映画だと思っています。日本映画では、これまで戦争を真正面からなかなか描けなかったんじゃないかと思います。広島を描いたら被害者になり、そうじゃないものは加害者になる。『硫黄島からの手紙』はもっとリアルに、悲惨さを描いている気がします。あらがえない理不尽さみたいな…。

インタビュアー:栗林中将を演じるにあたり、最も気を付けた点は?

渡辺謙:気を付けたというよりは、すごくよく分かる部分がありました。彼はアメリカとカナダに2度留学してアメリカをよく理解していた。僕自身も日米で仕事をしているので、彼が思い悩んだであろうことを理解しやすかったです。

(中略)

インタビュアー:ハリウッドでは俳優マネジメントも異なります。戸惑いはなかったですか。

渡辺謙:基本的にはどちらも同じですよ。日本でも仕事をコントロールしているのは自分だし、アメリカでもそう。確かに、アメリカでは管理の仕方が分業化しています。それぞれの担当者と契約していますが、契約に縛られているわけじゃないんですよ。会って話をして、お互いが気に入れば、明日から仕事をしよう、うまくいかなかったら、もう君とは終わりだね、と。

インタビュアー:信頼関係のなかで仕事をしているわけですね。

渡辺謙:結構狭い世界ですからね。仁義に反すると、すぐはじかれちゃうんですよ。うわさも早いし。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ハリウッドスターのなかには、「仁義に反しても、なかなかはじかれない」ような人もいるような気もするのですが、多くの日本人がイメージしている「アメリカの契約社会」というのは、かなり偏ったイメージのようです。実際にアメリカ人と仕事をしている人に聞いてみると「意外とアバウトに情で繋がっていることのほうが多くて、結局は人と人との関係なんだよ」という答えが返ってくるのです。そういえば、村上春樹さんも、「アメリカ人と仕事をすること」について、こんなことを以前書かれていました。

 ここで紹介しているのは、映画『硫黄島からの手紙』に日本軍の硫黄島守備隊司令官・栗林忠道中将役で出演されている渡辺謙さんのインタビュー記事の一部なのですが、考えてみれば、この仕事は、渡辺さんにとってもひとつの「賭け」だったはずです。クリント・イーストウッド監督のハリウッド映画に主演できるというのはものすごく魅力的なオファーだったのでしょうが、その一方で「戦争映画」というのは、とくに日本においては、ものすごくデリケートな存在の映画でもあります。もし、イーストウッド監督が偏見や思い込みに基づく「ハリウッド的な娯楽重視の戦争映画」を撮る監督であれば、それに「日本代表」として主演した渡辺さんは、アメリカでは嘲笑され、日本の人々からは軽蔑される、ということになりかねません。硫黄島での戦いに関わっていた人たちは、まだ、日本にもアメリカにもたくさん生きていますから。逆に「あまりに日本寄りの作品」になってしまえば、アメリカ国内からのバッシングを受ける可能性もあったはずです。

 幸いにも『硫黄島からの手紙』は日本でもアメリカでも好意的な反応が大部分で、渡辺さんはこの「賭け」に勝った、ということになりそうです。そして、その陰には、「日本語がわからないアメリカ側のスタッフ」に対し、「日本的なるもの」をうまく伝えていった俳優陣の力が大きかったようです。ただし、『SAYURI』のように、ハリウッド映画では、日本や他のアジアを舞台にした国でも、何の説明もなしに登場人物は英語で喋っていることがけっして珍しくないので、これは、日本側スタッフの熱意もさることながら、イーストウッド監督をはじめとするアメリカ側のスタッフの理解も大きかったのではないかと思われます。もしかしたら、イーストウッド監督自身は、「この映画はアメリカでヒットしなくてもいいや」と最初から日本市場を中心に考えていたのかもしれませんけど。

 それにしても、ここで渡辺さんが仰っている【日本映画では、これまで戦争を真正面からなかなか描けなかったんじゃないかと思います。広島を描いたら被害者になり、そうじゃないものは加害者になる】という言葉には、深く考えさせられるところがありました。いままでの「日本の戦争映画」では、周辺諸国から「日本の軍国主義を賞賛している」というクレームがついて問題になるのを恐れて、「天皇陛下ばんざい!」というセリフを入れられなかったりしていたそうですし、「この戦争は日本が悪かった」という視点で描かれることがほとんどでした。実際の戦場は、「どちらが悪い」というようなものではなく、ただ、兵士たちが自分の使命を果たそうと、あるいは生き残ろうとしてお互いに命を削っているだけなのに。日本が「当事者」であったがゆえに、自分の国のことを描くとき、かえって多くの「制約」ができてしまっていたのが、いままでの「日本の戦争映画」だったのです。でも、アメリカ人、クリント・イーストウッドがハリウッドで撮ったこの映画は、そういう制約からかなり解放されています。この映画にだって、アメリカ軍がやられるシーンは非常に少なめだし、日本側の親米的な将校がクローズアップされているという面はあるとしても。

 僕は『硫黄島からの手紙』を観て、「日本の戦争映画とそんなに違わないんじゃないか?」と正直感じました。しかしながら、この作品のいちばん重要な点は、これがハリウッド映画として世界中で公開される、ということなのではないかという気がするのです。「当事者」が作ったという戦争映画というのは、観客にとってもあまり客観的には観られないものではありますから。
 この『硫黄島からの手紙』も、もし全く同じ作品が日本の監督により、日本の映画会社でつくられていたら、周辺諸国からの抗議が殺到していたかもしれません。「日本人は悪者だから、手紙とか書くはずがない!」とかね。