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2006年12月18日(月)
「人間を食べて生き延びること」を決断した理由

※今回はかなりグロテスクな内容なので、御注意ください。
 「死体」とか「気持ち悪いもの」には耐えられない!という方は、読まないほうがいいです。


『孤独と不安のレッスン』(鴻上尚史著・大和書房)より。

【1972年10月に、ある飛行機がマイナス40度のアンデス山中に不時着しました。乗客達は、食べるものがなくなり、先に死んだ乗客の死体を食べて、17人が生き延びたという事件がありました。当時、世界的な話題になった遭難事件です。
 食べ物がなくなり、乗客であるウルグアイ人達は、死ぬか死体を食べるかの選択を迫られたのです。
 その時、乗客達は、一人一人、神と対話しました。
 全体でももちろん、議論はしましたが、最終的に食べるかどうかは、一人一人、それぞれに神と対話したのです。
 仲間と話す時も神の譬(たと)えを出しました。食べることに積極的だった人は、「神の思し召し」という言い方をしたそうです。
「これは、聖餐だ。キリストは我々を求道的生活に導くために、死んで自分たちの体を与えた。我々の友人達は、我々の肉体を生かすために、その体を与えてくれたのだ」
 そして、一人一人は、神と対話し、人肉を食べることを決断して生き延びました。
 第二次大戦後、航空機が砂漠や山奥に不時着して、生き延びるために死体を食べることになった事件は、世界では10件以上あるそうです。
 伝わってくる情報では、キリスト教徒は、議論はしますが、最終的には、神との対話によって、一人一人、決めたようです。そのあと、神のことを語ることが増えるのも特徴です。鳥に姿を変えた神の導きで、山を歩いて助かったと語ったという1979年のカナダ人のセスナ事故もありました。
 一神教というキリスト教を信じた人達は、みんな、神に対して、「神様、食べていいのでしょうか? 私はどうしたらいいのでしょう?」と個人的に一人で問いかけるのです。
 僕は、いつも、もし、日本人が乗った飛行機がこういう状態になったら、日本人はどうするんだろうと考えます。
 どうなると思いますか?
 たぶん、僕達は、議論をして、話して、なんとなく、全員が納得したようなら、生き延びるために死体を食べるんだと思います。
 ひょっとして、誰が最初に実行するかは、日本文化の代表、「じゃんけん」で決めるかもしれません。
 つまり、日本人は、個人的に問いかける神を持ってないのです。みんながどう思っているか、みんながどう判断するかが、一番大切なことなのです。】

参考リンク:X51.ORG「カニバリズム - 人間は如何にして人間を食べてきたか」(このエントリのなかの「事故、飢餓対策としてのカニバリズム」という項のなかに、この「アンデス山中の飛行機事故とその後起こったこと」についての記述があります)

〜〜〜〜〜〜〜

 日本人にとっての「神」とは、「世間」なのではないか、という話のなかで、鴻上さんが紹介されているエピソードです。これを読みながら、僕は「自分が同じ立場になったら、いったいどうするだろう?」とずっと考えていたのですが、正直「その状況に置かれてみないと、わからないよなあ」としか言いようがありません。食べ物の心配もなく、のんびりパソコンの前に座っている状態で、「極限の飢えにさらされたら、人間を食べてでも生き延びようとするか?」と問われても、大部分の人は、「そこまでして生きようとは思わない」と答えるはずです。まあ、この飛行機の乗客たちだって、飛行機事故に遭うまでは、同じようなものだったと思うのですが。
 これを読んでいて最初に感じたのは、「神を持つ人々」に比べると、「神を信じられない僕たち」というのは、こういう極限状態に置かれたときにとても不安定なのではないか、ということです。「神の意思」を掲げて行われた侵略や大虐殺は歴史上たくさんありますしね。そして、僕がもしその乗客で、周りが日本人ばかりだとしたら、確かに「神」を持ち出す人はほとんどおらず「この人たちは、もう死んでいるのだから」「彼らも我々が生き残ることを望んでいるはず」というような「科学的な解釈」や「故人の感情」を持ち出して説得する人が出てくるだろうと想像します。ただ、もし他の犠牲者を食べて生き延びた場合には、「神の思し召し」だと自分に言い聞かせられない分だけ、罪の意識は大きくなるのかもしれないな、という気もするのです。
 しかしながら、この鴻上さんの文章には、この出来事に関する重要な点が欠けています。それは、参考リンクに書かれている、以下のことです。

【極限状況の中で生存者は死亡者の肉を食べ、何とか生き延びたのである。しかしまた、そうした非常事態にも関わらず、それでも肉を食べることを拒否し続け、命を落とした者も多かったという。また肉を食べ、生存した者たちはこの時次のように食べない者を諭し、食人を肯定したという。「聖体拝領だと思えばいいんだ。キリストの血と肉だと思えば良い。神が僕らに与えて下さった食べ物なんだよ。神は僕らに生きよと思し召していらっしゃるんだ。」また生存者の一人は後に行った講演で次のように語っている。「友人の肉を口に入れた時は、罪の意識がありました。しかし、同時にこんな所で絶対に死にたくないと思い、この肉に友人の魂は宿っていないと自分に言い聞かせました。」更に、この事件について、ローマ法王庁は後に彼ら生存者の食人による生存を肯定し、「破門しない」ことを発表して世間を驚かせた。】

 実際は、「神を持つ人々」も、全員が「神の思し召し」として人間の肉を食べることを受け入れることができたわけではないし、人間の肉を食べた人の中にも、食人を頭では否定しながらも「こんなところで死にたくない」という気持ちのほうが強かったため、泣きながら口にした人がいたのです。そういう意味では、彼らは本当に「一人一人が神と対話をして決めた」と言えるのかもしれません。そして、彼らの神は、それぞれ違う答えを出したのです。
 おそらく、遭難したのが日本人だからといって、みんながすべて同じ答えを出すということはないでしょう。そして、「みんなで話し合おうとする」可能性は高くても、「全会一致の結論」は出そうにありません。それに、食べようとする対象が自分の家族や友人であるのと、その場に居合わせただけの他人であるのとでは、答えが違ってきそうです。昔の中国では、大飢饉のときに、隣人とお互いの赤ん坊を取り替えて食べたそうです。現代と比べてはいけないことなのでしょうが、極限状態になれば、その「相手」によっては食べられる、という答えだってありえるのです。
 たぶん、「じゃんけん」はせずに、誰かひとり、あるいは1グループが「それ」を行って、それに追随する人が出てくる、ということになるのではないかと僕は思います。いずれにしても、あまり想像したくない話なのですけど。
 ただ、生き延びたあとでは、「神の思し召し」と無理矢理にでも自分に言い聞かせられるという「神を持つ人々」と比べれば、「最初に○○さんが食べようって言ったから…」「みんなが食べていたから…」と考えがちな日本人のほうが、その後生き続けるにはよりいっそう辛いのかもしれませんね。