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2006年09月21日(木)
三國清三シェフを「発掘」した男

「帝国ホテル 厨房物語」(村上信夫著・日経ビジネス文庫)より。

【もう一人、忘れがたい弟子がいる。「オテル・ドゥ・ミクニ」のオーナーシェフ、三國清三君である。
 三國君は、田中健一郎君とほぼ同世代だ。私が総料理長だった当時、札幌グランドホテルから帝国ホテルに志願してやってきた。正社員の枠がなく、パートタイマーで採用したが、やる気があって、よく気がつく男だった。何にでも一生懸命で、良い意味での「欲」があった。
 駐スイス大使への赴任が決まっていた小木曽さんが「専属コックにいい人はいないか」と打診してきたとき、頭に浮かんだ何人かの候補者の中から、私は三國君を選んだ。当時、三國君はまだ二十歳の若者、しかも帝国ホテルでは鍋や皿を洗う見習いだったため、料理を作ったことがなかった。
 では、なぜ私は三國君を推薦したのか。彼は、鍋洗い一つとっても要領とセンスが良かった。戦場のような厨房で次々に雑用をこなしながら、下ごしらえをやり、盛りつけを手伝い、味を盗む。ちょっとした雑用でも、シェフの仕事の段取りを見極め、いいタイミングでサポートする。それと、私は認めたのは、塩のふり方だった。厨房では俗に「塩ふり三年」と言うが、彼は素材に合わせて、じつに巧みに塩をふっていた。実際に料理を作らせてみなくても、それで腕前のほどが分かるのだ。
 8年間のヨーロッパ修行を終えて帰国した後、三國君はホテルの調理場には戻らず、「街場のレストランで腕試しをしてみたい」と、東京・市ヶ谷のレストランに行った。これが後にオーナーシェフとして実力を蓄え、飛躍する基礎になった。私の修行時代を思い返してもそうだが、目の色を変え、汗だくで奮闘する若者には、目をかけてくれる人が必ずいる。】

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 「オテル・ドゥ・ミクニ」の三國清三さんといえば、いまや日本を代表するシェフのひとりなわけなのですが、修行時代に三國さんの才能を見出し、海外修行のお膳立てをしたのが、当時の帝国ホテルの総料理長だった村上さんだったそうです。それをきっかけに、三國さんは成功への階段を上っていきます。もちろん、これを読んだだけでも、三國さんは料理人、あるいはサービス業に就く人として卓抜した才覚を持っていたということは伝わってきます、いずれにしても成功した人ではあるのかもしれませんが。

 このエピソードを読んで僕が驚いたのは、当時「総料理長」という厨房のトップであった村上さんが、「鍋や皿を洗う見習い」でしかなかった三國さんの仕事をしっかりと見ていた、ということでした。そして、村上さんには、その「鍋の洗い方」や「塩のふり方」を見ただけで、「実際に料理を作らせてみなくても」三國さんの料理人としての才能がわかったのです。
 やっぱり「目利きの人」というのは違うものなのだなあ、と感心してしまいました。鍋の洗い方ひとつにしても、見る人が見れば、その「違い」がわかるなんて。

 そして、僕はこのエピソードを読んで、非常に反省させられたのです。
 もし僕が三國さんの立場なら、「ちゃんと料理さえ作らせてくれれば、才能があるところを見せてやるのに!」なんて苛立ち、「こんな雑用なんてくだらない」なんて嘆きながら、適当に鍋を洗っていたのではないかと思います。でも、そういういいかげんな姿を、見ている人はちゃんと見ているのです。三國さんが「目立つ仕事、派手な仕事だけをキチンとやって見せようとして、日頃の雑用をおろそかにする人」であれば、きっと、村上さんに高く評価されることはなかったはずですし、料理人として成功することは難しかったことでしょう。
 結局、「チャンスを与えられたら頑張るのに」と言いながら日頃の仕事に手を抜いているような人の前には、いつまでたっても「チャンス」はやってこないのです。万が一チャンスが巡ってきても、普段適当な仕事しかやっていなければ、いざというときに突然すごい結果が残せるわけもないんですよね。
 「チャンスがない」って僕たちは考えてしまいがちだけれど、目の前にあるありきたりな仕事にこそ、本当のチャンスは隠れているのかもしれません。実際は、「千里の馬は常にあれども、伯楽(馬の素質を見極める人)は常にはあらず」という格言があるように、「その才能を見つけてくれる人」に巡りあえるかどうかというのも、重要なポイントなのでしょうけど。