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2006年09月20日(水)
「クレームをつける側」の憂鬱

「私は、おっかなババア〜すっぴん魂4」(室井滋著・文春文庫)より。

(タクシーの運転手に道順を指定しようとしたら、「素人が口を出すな!」などと暴言を吐かれまくった(さらに道にも迷われた)という知り合いの女性(ミコさん)の話を聞いて、そのタクシー会社にクレームを入れた室井さんだったのですが……)

【さて、それから私はハタと考えた。
「明日ね、朝方、運転手のおっちゃんが仕事から戻ったら、ちゃんと事情を聞いて、改めて御連絡しますっていうことなんだけど……。何だかこれ、ちょっとヤバいかもよ」
 ミコちゃんの目を覗き込んで、神妙な声をあげると、彼女はキョトンと小首を傾げる。

ミコ「何が?」

私(室井)「タクシー会社の人の態度がね……」

ミコ「会社の人までひどいの?」

私「いや、そうじゃなくって……。会社の人はひたすら申し訳ないって、すんごく低姿勢なのよ。でもね、ちょっと、ひっかかるんだよな〜」

 実は、タクシー会社の人、詫びつつも、こんなことを言った。
『事情を聞いた上であまりにもひど過ぎる場合、そういう運転手には、うちの会社としても仕事してもらうわけにはまいりませんので、即刻、対処しなければ』……と。
 確かに今のこの御時世、仕事がうまく見つからず、あるいは、会社等をリストラされて、タクシードライバーに転職する人は山のようにいるのだろう。
 問題のある危険なドライバーを教育し直す手間よりも、やる気のある新入社員を採用した方が、会社的にはリスクが少ないので……と、言いたいのであろうが……。

私「つまりね、おっちゃん、クビになっちゃうかもってこと!」

ミコ「え〜!? クビッ?」

私「どう、ミコちゃん。おっちゃんがクビんなったらスッキリする? いい気味だって思う?」

ミコ「いやぁ、それ、また別のことですよね。あいつには腹は立つけど、この件でクビにされたんじゃあ、何だか私も……ちょっと寝覚めが悪いっていうか……」
 あれほど泣いて怒っていたミコちゃんであったが、さすがに人の重大事を自分が決定してしまうのは嫌な様子だ。
 そりゃあそうだろうと、私も思う。
 しかし、それにしても困った。
 こちら側がさらにもうひと押しして苦情を申し立てるなら、本当にそうなってしまうやもしれぬ。
「あのね、ミコちゃん。これ、けっこう大事だから、もういっぺん頭冷やして、よ〜く考えてみようよ」
 私はミコちゃんの目を見つめて、落ち着こうよと提案した。
 たった一度しか会ったことのない人の人生を左右してしまうのも勿論嫌だが、おっちゃんがクビになった場合に、もうひとつ恐るべき事態になるかもしれぬ危険性がある。
 それは『仕返し』だ!
 だって、道順がおかしいとクレームつけただけで、あんなにキレてしまうおっちゃんなのだ。万一、クビになんかなろうものなら、ただで済ましておくはずがないのでは……と、私は考えた。
「ねぇ、ミコちゃん。あのタクシー、予約で来てもらったんだよねえ」
 私はミコちゃんに確認をとった。すると――。
「なかなか前日に予約して来てくれるところってなくって……。出掛ける直前の予約っていうのはけっこうあるじゃないですか。けど、つかまんないと大変だから、やっぱり前日予約のところでないと……。前の夜に電話入れて、時間と、うちの電話番号と、住所と、名前を相手方に……アッ」
 ミコちゃんはそこまで自分で説明すると、私が何を言いたいかが分かったらしく、目を真ん丸に見開いて息を呑んだ。

ミコ「ヤ……ヤバイです」

私「でしょう? ヤバイよね」

ミコ「ギャア〜うう」

私「言っちゃったんだよね、名前も電話番号も住所も……。住所はどこまで? マンションの名前とか、部屋の号数とかも喋っちゃったの?」

ミコ「ええ、全部……。だって今朝、運転手さん、部屋の前まで呼びに来てくれて、ピンポーンってベルも押したんだもの……。ど……どうしよう、うちまで来ちゃったら。恐〜い〜」

 ミコちゃんはにわかに蒼ざめてアワワと震え上がった。
 もし、彼女が、怒り狂ったおっちゃんに待ち伏せされたり、いやがらせの電話攻撃を受けたり、突然怒鳴り込まれたとしても、タクシー会社はもう一切の責任など負わないであろう。
 何故なら彼らは、おっちゃんをクビにすることで、今回のタクシートラブルの責任を全て取ったという形にしてしまうからだ。
 それでは、そうなった場合、ミコちゃんは一体誰に守ってもらったらいいのだろう。
「やっぱり、もう警察しかないって思うんですけど、今の時点じゃあ、まだ待ち伏せされたわけでも何でもないですもんね。何をどう保護すんだよって言われちゃいますよね」
 ミコちゃんは深い深い溜息をついた。
 その溜息を聞きながら、私も大きな大きな溜息をついた。
 お互いに黙りこくったまま、しばし時間が流れた。
「で……、どうする? 危険でも、さっきの怒りをこのままぶつけて、相手にあやまってもらうまでやる? それとも、脅える毎日はパスしたい?」
 やがて、私の方がそう先に口を開いた。
「悔しいけれど、あんなことでひどい目に遭うかもって、毎日ビクビクすんのはもっと嫌……」
 ミコちゃんは唇を噛みながらボソッと漏らした。
「OK、そんじゃあ、忘れ物の化粧品返してくれさえすればもういいって、先方に言うからね」
 本当に悔しかったが、私は再びミコちゃんのお母さんの声に化けて、タクシー会社に電話を入れたのであった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 このエッセイはこれでおしまいで、その後の「後日談」についてはこの本の中には書かれていません。ほんと、これを読んだだけの僕でさえ、「なんて理不尽な話なんだ!」と憤ってしまうようなエピソードなのですけど、じゃあ、ミコさんはこの酷い運転手を徹底的に追い詰めるべきだったのか?と考えると、やっぱり、僕の身内や友人が当事者であれば、「悔しいけど、深入りしないほうが安全」だと判断すると思います。
 こうしてエッセイに書かれているのを最初に読んだときには、「こんなふうに事なかれ主義に逃げてしまう人ばかりだから、なかなかマナーが良くならないし、他の人もこういう迷惑運転手の被害を被ってしまうんだよなあ」という憤りもあったのですが、こんなふうに、「相手があまりにも話が通じそうもない人」の場合には、かえってクレームってつけにくいですよね。

 「クレームをつけることによって自分が得られるメリット」と「クレームをつけることによって予想されるデメリット」を比較すれば、多くの場合「デメリット」のほうが大きいのです。よっぽど高額のお金やモノでないかぎり、「クレームをつけて、相手と折衝する」という行為に見合っただけの「報酬」って、ほとんど得られないのですから。僕もいろんなことに腹を立てながら生きているものの、実際に「相手に知られるような形でクレームをつける」ことはほとんどありません。めんどくさいし、万が一「慰謝料」が10万円出たとしても、そこに辿り着くまでのお互いのやりとりを想像するだけで、うんざりしてしまうのです。そりゃあ、1億円もらえるのなら、やるかもしれませんけど、実際は、そんな慰謝料が発生するような事例なんて、ほとんどありえませんし。

 こういうのって、気が弱そうで文句を言いやすそうなドライバーは些細なことでもクレームをつけられる一方で、このエピソードに出てくるような「ヤバイ人」は、「仕返しが怖いから」「もう顔も見たくないから」ということで、多少のことではクレームをつけられなかったりするのだろうなあ、と僕は思いました。
 「やたらとクレームをつけまくる人」に対して、僕はあまり好印象を抱いてはいないのですが、彼らはものすごく「勇気がある人」なのかもしれませんね。