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2006年05月22日(月)
職業翻訳者にとっての「アンフェア」と「ネタバレ」

「特盛!SF翻訳講座〜翻訳のウラ技、業界のウラ話」(大森望著・研究社)より。

【とくにジャンル小説の場合には、そのジャンルの読書量がものを言う。SFにはSFの、本格ミステリには本格ミステリの、ファンタジーにはファンタジーの約束事があり、それを知らずにいると、翻訳もとんちんかんなものになりがちだ。
 たとえば翻訳ミステリなら、描写のフェアネス(読者に錯覚させるためのウソを地の文に書いてはならない)をきちんと理解して訳さないと、フェアなミステリがアンフェアなミステリになってしまったりする。
 第二回本格ミステリ大賞を受賞した『乱視読者の帰還』(みすず書房)収録のクリスティ論「明るい館の秘密」で、若島正氏が明晰に指摘する『そして誰もいなくなった』(ハヤカワ・ミステリ文庫)翻訳上の問題点は、その典型的な例。クリスティが駆使する叙述トリックに翻訳者までひっかかってしまったために、小説を注意深く読めば論理的に指摘できるはずの犯人が、翻訳だけを読んでいると指摘できない(本格ミステリとしては重大な瑕疵をはらむ)結果になっている。
 もちろん、ここまで高度な読解を要求する小説はそう多くないけれど、こうした叙述トリック的な手法(表面に書いてあることと、作中で実際に起こっていることが違う)自体は、ミステリ以外の小説でもわりとよく使われる。僕が最近翻訳した本の例で言うと、コニー・ウィリスのタイムトラベルSF、『犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎』(早川書房)でも、冒頭にちょっとした叙述の遊びがある。本文第一行は以下のとおり。

 There were five of us―Carruthers and the new recruit and myself, and Mr.Spivens and the verger. It was late afternoon on November the fifteenth, and we were in what was left of Coventry Cathedral, looking for the bishop's bird stump.

 ふつうなら、「そこにいたのは僕ら五人だった」とでも訳しはじめるところだが、そう簡単には行かない理由がある。主人公たちは、空爆によって廃墟と化したコヴェントリー大聖堂で、the bishop's bird stumpという謎の何かを探している。一行のひとり、Mr.Spivensは、わき目もふらず黙々と瓦礫の下に穴を掘り続けている――のだが、第一章のラストで、「彼」は、人間じゃなくて犬だったことが明らかになる。本筋とは関係のない軽いサプライズだが、一人称の語りを額面どおり真に受けてはいけませんよというヒントにもなっている。
 この場合、最初に「五人」と訳してしまうとアンフェア(地の文にウソを書くこと)になるし、かといって「四人と一匹」と訳すとネタバレ(作者が意図的に隠しているトリックをばらしてしまうこと)だ。ウィリスは描写のフェアネスのルールを守りつつ、Mr,Spivensが人間だと読者が錯覚するように書いているわけで、訳文でも、最後のところで読者に「え? 犬だったのかよ!」とびっくりさせるように配慮が求められる。
 小説の翻訳は、原作者のこうした意図を正しく読解するところからスタートする。英語の文章を日本語に置き換えただけでは、まだ翻訳とは呼べません。作者が読者に提供しているサービス(びっくりさせる、怖がらせる、泣かせる、騙す、怒らせる、はらはらさせる、しんみりさせる etc.)を日本の読者に日本語で提供すること。それが職業翻訳者の仕事なのである。文法的な正確さにばっかり気をとられていると、肝心の読ませどころをはずしてしまうことになりかねない。逆に言うと、小説がちゃんと読めてさえいれば、細かいところに少々誤訳があっても大丈夫。「木を見て森を見ない」のではなく、まず正しく森を見てから、一本一本の木に注意を払うこと。森が見えていれば、それほど大まちがいをする心配はありません。】

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 大森望さんが書かれた。非常に興味深い「翻訳者の心得」についての文章なのですが、これを読むと、「訳すだけ」で、「英語に詳しければできる仕事」のようなイメージがある「翻訳」とくに「海外文学の翻訳」というのが、いかに大変な仕事であるかがよくわかります。「森が見えていれば、それほど大まちがいをする心配はありません」なんて書かれていますが、正直、日本語で書かれた日本人の小説でさえ「正しく森を見ることができる」人なんて、そんなに多くはないような気がします。

 それにしても、「そして誰もいなくなった」を僕がはじめて読んだのは中学生くらいだったと思うのですが(そして、読み終えて、「なんじゃこりゃ!」と半分驚嘆し、半分呆れ返った)、「小説を注意深く読めば論理的に指摘できるはずの犯人が、翻訳だけを読んでいると指摘できない」という話は、はじめて知りました。
 正直、作者以外に、あの話を読んで「犯人」がわかる人なんて、はたしているの?と思うんですけどね。僕にとっては、「古典」に属するようなミステリって、犯人探しどころか、話の流れについていくだけでも精一杯なものが多かったんだよなあ、そういえば。
 でも、単に「正しい日本語に直す」だけではなくて、「作者の意図を読みとって、それに合わせた日本語にする」というのは、本当に大変な作業ですよね。ここで具体的に挙げられた例でいえば、”There were five of us”なんていう、中学生にでもわかるような簡単な単語の羅列を訳すためだけにも、ここまでの「気配り」が必要なのですから。大森さんは、この文章をどんなふうに訳したのか、とても気になってしまいます。
 そもそも、訳した日本語そのものが「変」では、どうしようもないわけだし、全く違う言語で、そのニュアンスまで伝えるというのは、本当に難しいことです。原著とは全く違う言語で、アンフェアとネタバレの間にうまく着地させるのって、あらためて考えてみれば、すごく高度な技術。

 これって、自分で日本語の小説を書くよりも、「翻訳する」ほうが、難しいところも多いのではないかなあ……
 やっぱり、「技術」だけじゃなくて、対象の作品への「興味」とか「愛情」が必要な仕事なのでしょう。

 これからは、海外文学を読むときに、作者だけじゃなくて、その作品を翻訳してくれている人にも、もっと感謝するべきなのかもしれませんね。