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2006年04月21日(金)
「日本人らしさ」「自分らしさ」という幻想

スポーツニッポンのサッカー・ワールドカップカウントダウン特集より、金子達仁さんのエッセイ「春夏シュート」の一部です。

【日本人らしいサッカーを。そう言われ続けてもう何年になるだろう。よそさまのコピーやパクリではない、自分たちのオリジナルだと胸を張ることができるサッカー。日本人の国民性を表すサッカー。それを手にすることができない限り、日本サッカーに未来はないし、世界と戦える日も訪れない――。わたし自身、そう信じてきた部分もある。
 だが、ここにきて少しずつ考えが変わってきた。
 日本人らしい野球は何か。そう聞かれれば多くの人は共通したイメージを抱くことになろう。緻密な野球。自己犠牲の精神を前面に打ち出された野球。今風にいうならば、スモールベースボールということになるのだろうか。
 では、日本野球界の先達たちは、日本人らしい野球、自分たちらしい野球をやろうとして現在のスタイルにたどりついたのだろうか。
 違う。
 多くの日本人が無死一塁での送りバントを好んだのは、それが勝利の確率を高めるために適した手段だと考えたからだ。つまり、自分たちらしい野球をして送りバントに固執したのではなく、送りバントを選択する割合が米国よりも多く、結果として日本人らしさが表れただけなのである。
 日本人らしいサッカーとは、結果であって目的ではない。
 考えてみれば当たり前のことではないか。日本の食は、酒は、絵画は、クルマは、最初から「日本人らしい」ものをつくろうとしてつくられたものではない。結果として誕生した作品のタイプがよく似ていて、かつ愛する人も多かったから「日本人らしい」ものとして認知されたのである。】

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 この文章は「たった3回目のワールドカップ出場なのに、自分らしさ、日本人らしさにこだわるのは、少し傲慢なのではないだろうか」と締められています。これは、サッカーに限らず、すべての「自分らしさ依存症」にかかっている人たちが、読んでおくべき文章だと思います。
 確かに、野球でも、車や電器製品でも、「日本らしい」と僕たちが感じ、世界に誇れるようなものって、別に「日本人らしくする」ということを目的にしたものではないのですよね。そのスタイルは、「試合に勝つこと」や「より多く売れること」を追求した結果確立されたものであり、僕たちが「らしさ」だと思っているものの多くは、当事者にとっては、「結果を出すために試行錯誤の末に見つけた、最良の選択肢」でしかないのです。もし日本の野球選手がみんな王貞治や松井秀喜であればバントなんてかえって非効率的な戦術でしかないし、日本の道路が広くてガソリンが安ければ、日本車の設計思想は、全く異なったものとなっていたでしょう。「結果がともなわない『らしさ』」の多くは、自己満足でしかないのです。
 結果を出すために努力するのがめんどくさいから、目的もなく「自分らしさ」に逃げてしまう人って、けっして少なくはなさそうです。それこそまさに「練習のための練習」で、無為に時間を浪費してしまうだけなのに。
 
 僕たちは「自分らしく生きよう」なんて、「自分らしさ」を探したりしがちなのですけど、実は、「自分らしさ」なんて、どこにも存在しないものなのです。SONYやHONDAがその黎明期に成功し、ブランドを確立したのは、「SONYらしい製品」をつくろうとしたからではなくて、「より優れた製品をつくる」ということに歯を食いしばって全力を尽したからであり、結果的に、その辿ってきた試行錯誤の道のりを、みんなが「SONYらしさ」だと感じるようになっただけでしかありません。

 「自分らしさ」とは、結果であって目的ではない。もちろん、「勝つ」ことだけが全てではないかもしれないけれど、「結果を出すために努力する」ということのほうが、これみよがしにマイナーメジャーな音楽や本にハマっていることを他人にアピールするよりも、はるかに「自分らしさへの近道」なのかもしれません。