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2005年05月26日(木)
「日記」を書くときに、してはいけない2つのこと。

「泣かない子供」(江國香織著・角川文庫)より。

【小学校一年生の夏休みに、私は生まれてはじめて絵日記をつけた。一ページ目をかきおえて、さっそく嬉々として父に見せに行くと、どれどれ、と日記帖をのぞきこんだ父は(父は、仕事中でも決して、あとでね、とは言わなかった)、にわかにきびしい顔つきになり、
「日記は、きょうは、で始めてはいけない。きょうのことに決まっているんだから」
 と言った。六歳の私の、あの失望。すごすごと書斎をでて行こうとする私の背中に、おいうちをかけるように父は、
「ああ、それから、私は、で始めてもいけないよ。私のことに決まっているんだから」
 と言ったのだった。

(中略)

 中学生の頃、話し合いの余地のない父の小言に、何と非民主的、非文化的な父だろうと嘆いたものだったが、話し合いの余地のない小言を本気でいえるというのはむしろ、きわめて文化的な(文化財的な、と言うべきか)、父なのではないかと、このごろ思う。
 そうして、最後につけ加えるなら、「パプアニューギニアもどき」のかっこうをして、父いわくの「乱れた日本語」で会話し、深夜まで飲んで帰る娘は、今でも決して「きょうは」で日記をはじめることがないのである。】

〜〜〜〜〜〜〜

 江國さんのお父さんは、よく言えば「言葉にこだわりがある人」であり、悪く言えば「細かいことに煩い人」だったということなのでしょうね。相手は六歳の女の子なのに、と赤の他人としては思うのですが。
 まあ、だからこそ、今でも江國さんは「きょうは」で日記をはじめない人になってしまったのでしょうけど。

 僕も日常日記を書いているのですが、これを読んで、正直ハッとさせられました。「きょうは」「僕は」というのを乱れ打っているので。
 確かに、僕が借りている日記スペースには目立つように日付が入っていますし、ましてや、僕の日記に誰かが「代理日記」を書くことなどありません。にもかかわらず、自分の日記に「僕は」を使いまくっているわけです。「僕なんて当たり前じゃないか!他に誰がいるんだ!」と心の中で突っ込んでいた人が何人もいたのではないかと思うと、気が気ではないのです。
 しかし、どうして日記に「きょうは」「私は」と書いてしまうのか、ということを考えてみると、やっぱり「これを読んでいる、私じゃない人」の存在を意識しているのではないかと思います。「私は」と書くときには、心の中で「あなたは違うかもしれないけれど」という、誰かわからない「あなた」への言い訳をしているのです。
 あるいは、「もうひとりの決断力のない自分」に対する「私」なのかもしれない、なんていうこともありますが。

 とりあえず、絶対に他の誰にも読ませるつもりがない「日記」には「私は」なんて必要ない、というのは事実です。「きょうは」というのには、例えば「きょうはいい天気だった」というように、「他の曜日との比較を強めるはたらき」というのがあるような気もしますけど。ただ、自分しか読まないはずの「日記」に、そういう修辞を使う必要があるかは別として。

 「僕は」というのは、気弱さと言い訳がましさと自意識過剰のあらわれなのかもしれません。そして、自分では「日記」を書いているつもりでも、本当は誰かへの「手紙」ばかり書いているような気もしてくるのです。