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2004年12月07日(火)
子どもが、「勉強しなくなった」わけじゃない。

読売新聞の記事より。

【経済協力開発機構(OECD)は7日、加盟国を中心とする41か国・地域の15歳男女計約27万6000人を対象に実施した2003年国際学習到達度調査(略称PISA)の結果を世界同時発表した。
 2000年に続く2度目の調査で、日本は前回8位の「読解力」が加盟国平均に相当する14位に落ち込み、1位だった「数学的応用力」も6位に順位を下げた。文部科学省は「我が国の学力は世界トップレベルとは言えない」と初の認識を示し、来夏までに読解力を向上させる緊急プログラムを策定する。
 調査は、覚えた知識や技能を実生活でどれだけ活用できるか、を評価するのが目的。「読解力」「数学的応用力」「科学的応用力」に加え、今回は直面した問題に対処する力を測る「問題解決能力」を初めて調べた。日本では昨年7月、全国143校の高校1年生計約4700人を対象に行われた。
 その結果、文章を読みとる力を測る読解力は、加盟国平均を500点と換算すると、日本は498点。前回の522点から24点も下がり、各国中で最大の下落幅となった。1位のフィンランドとは45点もの大差がつき、特に成績最下位層の割合の高さが顕著だった。
 数学的応用力も557点から534点に下がった。これは1位の香港(550点)などと統計的には差がないとして、データを集計した国立教育政策研究所は「1位グループであることは変わりない」と説明しているが、断然トップを走っていた日本が、1位集団に吸収された格好だ。
 このほか、前回2位だった科学的応用力は、フィンランドに次いで今回も2位を維持。600点を超す上位層の生徒は各国中、最も多いという結果だった。
 また、初調査の問題解決能力は、1位の韓国とわずか3点差の4位だった。
 調査と同時に行われた生徒へのアンケートでは、通常の授業以外に、自分の勉強や宿題をする時間が週平均6・5時間で、加盟国平均の8・9時間よりかなり短いことなども判明した。
 文科省はこれまで、日本の学力を「世界トップ水準」としてきたが、今回の結果を受けて、「我が国の学力は国際的に見て上位にあるが、読解力の低下など、世界トップレベルとは言えない状況」と、初めて“陥落”を認める分析結果を公表。すでに表明している全国学力テストの実施や学習指導要領の見直しなどに加え、新たに読解力向上のためのプログラムを来夏までに策定することを明らかにした。】

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共同通信の記事より。

【中山成彬文部科学相は7日の記者会見で、OECDの学習到達度調査の結果について「要するに勉強しなくなったんじゃないですか。低下傾向にあることをはっきり認識すべきだ」と述べ、世界トップレベルからの脱落を認めた。
 さらに「もっと勉強しないと駄目だということを徹底しないといけない」と指摘。「日本が停滞している間に近隣諸国が追い上げてきて取り残されてしまう。東洋の老小国になってしまってはわれわれの子や孫たちに申し訳ない」と述べ、学力向上策に徹底的に取り組む姿勢を示した。
 文科相は「『僕は勉強したいから塾に行きたい』と子どもの方から親にお願いするぐらいでないといけない」と持論を展開した。】

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以下の【ことば】は、毎日新聞より。

 【ことば】OECD学習到達度調査 知識量や計算力を測る国際教育到達度評価学会(IEA)の国際数学・理科教育調査と違い、実生活への応用力を測る。00年から2年おきに実施。重点的に調べる分野を毎回変える(前回は読解力、今回は数学的活用力)ため、分野別の問題量も毎回違う。対象は無作為抽出。今回、国内で約4700人が参加した。】

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 おそらく、僕を含めて、多くの人の「日本人観」というのは、「勤勉で、突出した能力の人は少なくても、平均的な教育レベルは高い」というものなのではないでしょうか。この結果は、まさにその「日本人のプライド」にかかわるもの、ではあるんですよね。
 しかしながら、中山文科相の発言の「子どもが自分から『塾に行きたい』と親にお願いするようにならないとダメだ」というのは、やっぱり理想論だろうなあ、という気もするのです。
 僕が中学校くらいのとき(もう20年くらい前)だって、「勉強したいから塾に行く」なんて同級生は、周りにはほとんどいなかったものなあ。正直、みんな「このままだといい高校に行けないから」と親に言われて無理やり、とか、「自発組」にしても、「同級生に負けたくない」とか「成績が落ちて不安」だとかいう、「今、そこにある危機」を回避するために、遊びたい気持ちを抑えて塾に行っていた、という感じでした。そもそも、そんなに「塾に行く」という行為そのものが、「家にいたら勉強しないから」でもありましたし。僕だって、勉強するよりは、家でファミコンをやっているほうが、はるかに楽しかったですし。
 
 正直、「勉強をする」というのは、一種の強制であり、習慣なのではないか、と僕は考えています。僕はそれなりに勉強してきたつもりではありますが、それは「勉強が好きだったから」というよりは、「見かけが悪く、スポーツの苦手で、芸術的センスにも乏しい人間」にとって、唯一周りの同級生と比較してマシだったのが、この「勉強」というジャンルだったから、というだけなのです。どちらかというと、「これで自分の生きる道をなんとかしないと、生きていけない」というような強迫観念に、ずっと追われ続けていたような気がします。そして、多くの僕のような人間たちが勉強していたのは、おそらく、「少なくとも、自分の才能では、プロ野球選手になるために野球の練習をやるよりは、勉強したほうが生きていく武器になる」と判断していたからだと思うのです。

 僕は今の時代の実情はよくわからないのですが、この結果からすると、「みんなができなくなっている」というよりも、「できない子どもは、ひたすらできなくなっていく」という状況なのではないでしょうか?そういう意味では、現代の「個性を伸ばす」と言われている教育が、一面で、安易に「できないことを容認する」という風潮になっているのかな、という感じもするのです。勉強している(させられている?)子どもたちは、物心がつくかつかないかのうちから「お受験」の準備をさせられて、そうでない子どもたちは、劣等感だけが増幅してしまうという現実。親は「勉強なんか、しなくてもいい」と「寛容な親」を演じながら、「勉強」以外の生きかたを提示できないという事実。そして、行き場のない子どもたちを「援助交際」などという名目で、さらに搾取しているオトナたち。
 もちろん、勉強だけが正義ではありません。他に自分が生きる道を見つけられるのならば、別に勉強ばかりにこだわる必要もないし。でも、この「学力低下」は子どもたちの責任というよりは、「勉強してもムダ」な世の中を作りあげて、「勉強ばかりが人生じゃない」とわかったようなことを言っているオトナたちの責任なのではないかと、僕は考えているのです。
 「いいよね、女子高生は、勉強できなくても援交で稼げて」
 そんなオトナたちは、「寛容な大人」なんじゃなくて、単に「無責任」なだけ。
 しつけをしなければ、誰だってトイレで用を足せないように、「生まれつき勉強したい子ども」なんているわけがないのです。もちろん、「勉強」というものに対して、向き不向きとか、好きになりやすいかどうか、という個人差はあるとしても、それは、やってみなければわからないこと。そして、子どもたちに「やらせてみる」のは、大人の責任なのではないでしょうか?
 子どもが「勉強しなくなった」のではなくて、子どもを「勉強させなくなった」だけなのでは。
 もちろん、極端に「勉強漬け」にするのは問題ですが…

 みんな、騙されるなよ。今の日本は、勉強も努力もしなくても、そりゃ、なんとか食べてはいけるさ。でも、どんなに頑張ってもそれが反映されないような仕事は、ずっと続けるには退屈すぎるよ。