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2004年12月06日(月)
忘れられない、父と子の食事の記憶

「笑っている場合」(原田宗典著・集英社文庫)より。

(原田さんが、小学校1年生のころ、映画館の帰りに中華料理店で父親と二人きりで外食をしたときの記憶を書かれたものです。)

【暖簾をくぐって店に入ると、父親は僕と向かい合わせに座り、何が食べたいか訊いてきた。手元にメニューがあるわけではなく、困惑して壁に目をやると、品名を書いた短冊がべたべた貼ってあった。慌てて目を凝らしてみたが、「うわーッ、難しい漢字ばかりで、何が何だかさっぱり分からなーいッ!」というシンプルな感を得た。おかげでぼくはますますアガり、歯車の狂った頭で炒とか麺とか酢とか脂とかの難しい漢字を解読しようとしたために、たちまち耳から煙が立ち昇りそうになった。その様子を見かねてか、父親は、「チャーハンでいいか」と助け船を出してきた。ぼくはチャーハンとはどんなものなのか、よく分からなかったけれど、「それでいいですそれでいいです」と顎をがくがくさせてうなずいた。同時に、大人はあの暗号めいた難しい漢字が全部読めるのか、すごいもんだなあ、と恐れ入った。父親は白い割烹着を着た店員のおばさんを呼び寄せると、ぼくの分のチャーハンとバヤリースオレンジを注文し、最後にこう付け加えた。
「おれは……天津丼にするかな」
 その品名は、ぼくの耳にやけに鮮やかに響いた。
 テン・シン・ドン。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これは、昭和40年頃の話だと、原田さんは書かれています。まだ、外食そのものがひとつの「行事」だった時代のこと。このあと、原田さんはチャーハンの具の中の嫌いなものを取り除きはじめたり、お父さんの「天津丼」と取り替えてもらったりと、落ち着かない「父親との食事」の時間を過ごすのです。それにしても、こんな詳細な情景まで記憶に残っているのは、きっと、この体験が原田さんにとって印象深いものだったからに違いありません。

 僕にも、いまでも覚えている父親との二人きりの食事の記憶があります。原田さんみたいに小さいころの記憶ではなくて、もう半分大人になりかけた時期の話です。うちはけっこう家族が多かったので、子供のころはあまり誰かと二人っきりで家で食事をするということはありませんでしたし、大きくなってからも、母親と二人ということはあっても、仕事や酒でいつも帰りが遅い父親と二人で食事をする、という機会はほとんどありませんでした。まあ、その原因としては、中学生とか高校生という時期相応に仲の良くない父子だった、ということもあったのですが。
 当時、大学に入ったばかりの僕は、母親の病気の見舞いに実家に帰ってきて、ちょうど病室で一緒になった父親と、近くの寿司屋に入りました。当時の僕は、母の病気に対して、父になんらかの「責任」のようなものを押し付けようとしていて、なんとなく気まずい雰囲気のなか、男二人はカウンターに並んで座りました。
 そして、最初の突き出しに出てきたナマコを、父は「お前、これ食べられるか?俺はもう歯が弱って、こういうのはダメなんだ…」と手もつけずに、僕のほうに押しやってきたのです。なんだか、その瞬間、僕は自分の親の年齢というものを痛切に感じてしまって、平静を装いながらも、ものすごくせつなくなりました。その後は、あまり言葉を交わすこともなかったのですが、父は僕が自分の寿司を一人前食べ終わると、「お前にはこれじゃ足りないだろう」と言って、あと一人前の寿司を追加注文し、自分は黙ってお茶をすすっていました。そして、僕がもう少しで食べ終わるというときに、「お母さん、難しいかもしれないな」と、何か見えない壁に向かって呟くように、僕のほうに向かって言ったのです。
 たぶん、僕はあのとき、少しだけ大人になったのだと思います。それは、今まで自分にとって「壁」だと思っていたものが、予想以上に脆く、がらがらと崩れ落ちてしまって、自由だと思っていた世界は、守ってくれるものがいなければ、痛みと困難に満ち溢れた顔も持っている、ということを知った日でもあったから。

 今はその父も鬼籍に入ってしまったのですが、たぶん、僕がこんなことを覚えているなんて知ったら、「もっと美味しいもの、たくさん食べさせてやっただろ!」なんて怒っているのではないかなあ。
 でもね、あの日の親子二人での食事のことは、もう十数年も経つのだけれど、ずっとずっと、忘れることができないのです。