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2004年05月21日(金)
「差別する人」と「差別される人」

「焚火オペラの夜だった」(椎名誠著・文春文庫)より。

【その店の厨房を覗ける窓口に珍しい風景があったのでカメラを抱えて身を乗り出したところ、隣にいた中国人の腕とぼくの腕がつい触れ合ってしまった。するとその男はぼくの顔と腕を眺め、なんともじつに露骨に嫌そうな、蛇蝎に触れたがごとく。顔を歪めてつい今しがた僕の腕に触れたところを自分の手でこびりついた汚れを払うようにしてなんどもこれ見よがしにこすり落とすのだった。
 あとで中国の諸事情に詳しい友人にそのことを話すと、それはおそらくあんたがチベット人に間違えられたのだろう、と笑いながら言った。彼は毎年のようにチベットに行っており、内政問題に詳しい。そして中国の大多数を占める漢民族による少数民族、なかんずくチベット人へのクルド、コソボ的な民族差別迫害の実態をよく知っている。
 沖縄の旅からすぐ上海に行ったのでぼくは日に焼けて真っ黒けであった。天然パーマのもじゃもじゃ頭といい、一回り大柄な体格といい、まさに全体がチベット人的であったようだ。それにしても日頃人種差別などを受けていないお気楽軟弱民族の我が身としては実に身をもって体験したささやかな国際的困惑であった。】

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 「差別はよくない」というのは、おそらく日本人の大多数が心に刻んでいる「常識」だと思うのです。しかし、その一方で、外国人に気軽に話しかけられる日本人はごく少数ですし、普段日本で生活していると「日本人だから」という理由で差別したり、されたりする機会はほとんどありませんので、「差別意識」というのは、あまり実感を伴わないものなのかもしれません。
 まあ、外国人だから積極的に話しかけなければならない、なんてのも、ある意味「差別」ではあるんですけどね。

 僕が一昨年アメリカに行ったときのことです。ちょうどその飛行機はほぼ満席で同行の人たちと離れてしまい、僕はひとりでアメリカ人青年の隣に座っていました。でも、その飛行機が離陸する直前に、彼はその席を離れて、近くの空いている席に移動してしまいました。確かに飛行機というのは、乗り継ぎがない便であれば、途中で人が乗り込んでくることはありませんから、彼がより広くて周りに人がいない席に移ったところで誰も迷惑はしないのですが。

 でも、僕は正直なところ、「それだけのこと」にすごくショックを受けました。たぶん、日本の国内便で、隣のオジサンが移動してしまった、という話であれば、「これで気分的にラクだな」なんて快哉をさけぶかもしれませんが、海外で同じことを隣の人にされると「ひょっとして、僕が日本人だから?」なんて考えてしまうのです。
 もちろん僕は彼が隣にいたからといって積極的に話しかけるような積極性も語学力もありませんし、実際に彼が席を移ったときホッとしたのは事実なんですけどね。

 この椎名さんが体験したような、露骨かつ意図的な「差別」というのは、僕たちが知らないだけで、きっと世界中にあるのだと思います。
 そしてたぶん「差別するのが当たり前」という感覚で生きてきた人もたくさんいるのです。
 そういう人に「差別は悪いことだ」と認識してもらうには、まだまだ時間がかかるのかもしれません。

 それにしても、ただ「空いている席に移ること」だけでも、場合によっては「差別されたのでは…」なんて不快になることもあるんですよね。
 「差別する側にとっては何も考えずにやったことでも、「差別される側」にとっては、とても不安になったり、疑問に思うことって、かなり多いのだと思うのです。

 「他人を差別しないようにする」というのは、本当に難しい。そもそも、「この人を差別しないように…」なんて特別視すること自体が「差別感情」なのかもしれないですし。