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2004年03月15日(月)
ハルウララと武豊と偽善者たちと

共同通信の記事より。

【高知競馬(高知市長浜)でデビュー以来105連敗中の人気牝馬ハルウララ(8歳)の出演映画の計画が8日、実現する見通しとなった。
 作品を企画している東京都港区の制作会社「アマナスキネマ東京」の担当者が同日、高知県庁と高知市役所を訪れ、撮影への協力を要請。県は「喜ばしいこと」、市も「積極的に協力したい」と、前向きの姿勢を示した。
 高知県競馬組合との調整も順調に進んでおり、ハルウララの銀幕デビューが確実となった。
 同社によると、脚本は同県中村市出身の中島丈博さんが担当し、監督には「次郎物語」などを手掛けた森川時久さんを起用。ハルウララと宗石大調教師やきゅう務員との物語を中心に描く予定という。同社は年内完成と、来春の公開を目指している。】

参考リンク:武豊の日記(3/8)

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 「負けても負けても頑張って走り続ける姿が日本中に感動を与えている」という、このハルウララなのですが、「頑張っている姿に感動する」という人々がいる一方で、「単なる弱い馬に、何を大騒ぎしているんだ?」という意見があるのも事実です。

 もう1年くらい前になるのでしょうか、僕は、雑誌のグラビアのある写真に目が釘付けになりました。その写真には、目を見開いた1頭の馬が、頭から血を流して横たわっていたのです。
 もう、名前は忘れてしまいましたが、その馬は九州の中津競馬という競馬場でいくつかの勝利を挙げた若駒で、将来を嘱望されていた、とのことでした。しかし、不況や娯楽の多様化に伴い、全国各地で地方競馬は次々と廃止されていくなか、中津競馬の廃止によって行き場がなくなったその馬の末路は、「安楽死」でした。
 そんなに頑張っていたのに、かわいそう、だと僕も思います。しかし、その一方で、馬が生きていくのには当然お金もかかりますし、人間に飼育されることに馴れたサラブレッドをいきなり野生に戻すわけにもいきません。彼女(その馬はメスだったので)を生かすには、お金と場所、そして人の手が必要なのです。そう考えると、「安楽死」を選んだ馬主の判断は、必ずしも責められないでしょう。「結果を残せない馬」の余生をすべて面倒をみるには、お金も、人手も、スペースも全然足らないのですから。

 ハルウララに関する報道を観るたびに、僕はこの馬の死顔を思い出します。たぶん、中央競馬のレースで大活躍できるほどの能力はなかったにしろ、この馬はたぶん、ハルウララよりは強い馬だったでしょうから。そして、全国には、そういうふうにして命を落とした馬は、たくさんいるのです。どうして、100戦以上も走って1勝もできない馬だけが、こんなにもてはやされるのか?競馬というのは、馬にとっては「仲間と競争しながら競馬場を一回りしてくるだけのこと」であって、「一生懸命走っているのに勝てない」というのは、人間が勝手に築き上げたストーリー。本当は、ハルウララは「レースに集中できない馬」だったり、「真面目に走っていない馬」なのかもしれません。高知競馬というのは、率直なところ全国の地方競馬の中でもかなりレベルの低いところなのに、そこでも全然勝てないというのは、競走馬としては、能力的には「駄馬」であることは間違いないでしょう。

 でも、その一方で、「ハルウララなんて駄馬は、さっさと安楽死させちまえ」とか、「そんな弱い馬をもてはやすな」とも思えないのです。
 ハルウララという馬は、話題になるまでは、賞金的には大赤字の馬でした。走っても走っても勝てず、ただ出走手当てとたまに入着賞金を稼いでくるだけの、厩舎のお荷物、というあたりが妥当な評価だったと思います。少なくとも中央競馬には、こんな馬を置いておく余裕のある厩舎はないはず(それ以前に、ずっと未勝利だと、出せるレースもほとんどなくなるし、預託料も高いですから)。
 ハルウララを預かっている宗石調教師の姿は、NHKのドキュメンタリーでは、このように描かれていました。
 【「ここは馬の老人ホームですよ」と言いながら、ハルウララより年を食った9歳や10歳の馬たちにエサをあげているのだ。お金がないから高価な配合飼料なんか買えない。でも、なんとか馬たちを勝たせてやりたいから、農家の畑を借りて自分で牧草を育て、新鮮なエサを与えている。】
 宗石調教師は、競馬界では非常に変わった人で、「普通だったら、もう引退=安楽死」になるような馬たちを「元気なかぎりは、走らせてやりたい」と気長に走らせる人のようです。それは別に、ハルウララに限ったことではなくて。それだともちろん、調教師としての成績は上がらないのですが。年老いて勝てない馬よりも、若くて強い馬に入れ替えたほうが、当然結果も出るはず。
 「強い馬を育てる」のが目的の競馬界では、かなり異質なことを宗石調教師はされています。そして、あまり語られることはありませんが、ハルウララの馬主さんも、少なくともこの馬が話題になるまでの90連敗くらいまで、毎月赤字なのに、気長にハルウララの飼葉代(預託料)を支払い続けて、応援してきたのでしょう。

 競馬の本質は、「最強」を目指すブラッドスポーツです。でも、僕は思うのです。「最強」を目指す弱肉強食の競馬がある一方で、1万頭に1頭でも、こういう「負け続けても愛される馬」がいてもいいんじゃないかな、って。
 競馬というのは、本質的に、人間の思い入れによって支えられているもので、実際に馬がやっていることというのは、「コースを走ること」だけなのですから。
 この最弱馬によって、生きる活力が与えられる人がいる、という事実は、たとえそれが勘違いや思い込みであっても、否定できないことです。

 いや、武豊騎手の気持ちはよくわかります。1着賞金が10万円とかのレースで弱い馬に乗って勝利を求められるというのは、この天才をもってしても厳しいでしょうし、勝てる可能性、勝つことによるメリット(額面通りだとすると、勝っても武豊がもらえるのは5000円!)と負けることによるデメリット(たぶん、競馬をよく知らない人には、「ハルウララを勝たせなれないなんて、武豊なんてたいしたことないなあ」なんて思う人も多いでしょうから)を考えると、気が重くなるでしょうし、「これで引退だから」と御祝儀的に頼まれていたものが「引退かどうかはわかりません」なんて言われたら、愚痴のひとつも言いたくなりますよ。ノボトゥルーに乗るついでに「善意で」ハルウララに乗るようなものなのに。
 僕は武豊騎手のことは嫌いですが(いつもいい馬に乗って勝っている、という判官びいきのような感情と、僕が馬券を買うと来なくて買わないと来るような印象があるので)、今回彼がハルウララに乗るのは、競馬界のリーダーとしての責任感みたいなものも感じるのです。少しでも話題になって、地方競馬の活性化につながればいい、というような。

 「弱い馬は役に立たないから皆殺し」という発想よりは、「弱い馬でも、運がよければ生き延びられる可能性もある」というほうが、少しは救いがあると、僕は思うのです。不公平、かもしれませんが。
 だいたい、人間という種の中で大部分の人は、ナリタブライアンどころか、ノボトゥルーにもほど遠い、ハルウララなのですから。負けても負けても走り続けなくてはならない、悲しい生き物。
 競馬の世界にくらい「負けても負けても応援され、愛される敗者」がいてもいいんじゃないでしょうか。
 
 それは、「偽善」なのかもしれません。
 でも、ひとりの競馬ファンとしては、この「偽善の物語」で、馬主さんたちが、自分の持ち馬に対して少しでも長い目でみるようになってくれたり、一般の人たちに、「競馬場には最強じゃない馬たちのドラマがある」ということが、伝わってくれればいいなあ、と。
 そうすれば、これからも出てくるであろう「あの中津の馬」だって、死なずにすむかもしれないし。
 僕は、「偽悪」や「露悪」よりも、「つまらない、日常的な偽善」のほうが、遥かに人間を幸福にすると思うのです。

 ハルウララ、せっかく生き延びられそうなんだから、怪我しないていどに頑張れよ。