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| 2002年09月13日(金) ■ |
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| 2002年9月13日。 |
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毎日新聞の記事より。
【兵庫県川西市の市立多田中学校で今月初め、教師が茶髪の生徒5人の髪の毛を市販の毛染め薬で黒く染めたところ、アレルギー体質の女子生徒1人の頭皮がただれ、全治1週間と診断されていたことが13日、分かった。学校側は生徒と保護者に謝罪し、今後、同様の指導の中止を決めた。】
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教育現場の荒廃、ここに極まれり、という感じですね。髪を茶色に染めただけのアレルギー体質の生徒を無理やり市販の毛染め薬で染め直し、頭皮をただれさせるなんて… とくに多感な時期だけにこのショックは大きいでしょうね…
って、思いますか、本当に? 僕が疑問に思ったのは、まず、この生徒がアレルギー体質であったことを事前に先生は知っていたのかどうか?ということ。知っていたなら、責められるべきところはあるでしょう。でも、知らなかったとしたら、すでに茶色に染めてるんだから、アレルギーとか、あんまり意識しませんよねえ。 僕は医者なので、患者さんに検査の説明をすることがあるのですが、その際「その検査って、絶対安全なんですよね。100%大丈夫だって、保障してください!」といわれることがあるのです。でも、この世に100%大丈夫なんてことは、まずありえないわけで、「僕たちも慣れていますから、ご心配されなくてもいいですよ」などと言いつつ、さまざまな合併症の説明をしてしまうのです。 こういう報道に接して思うのは、「はたして、どこまでの可能性を『危険』と判断するのか?」ということです。最近、「溺れるかもしれないから、プールの授業は止めます」とか「薬品が危険だから、理科の実験は止めます」とかいうような発想が、どんどん広まってきているような印象があるのです。 溺れたり、爆発したりするリスクはあるでしょう。でも、そればかりを大々的に取り上げて、そういう危険なことに接するという機会を失っていくというのは、子供の教育にとって、果たしていいことなのかどうか。 もちろん、自分の子供が溺れたら、僕だって、いたたまれません。けれど、道を歩いていたら、暴走してきた車にはねられるかもしれないし、突然、くも膜下出血を起こすかもしれない。どこまでが受け入れるべきリスクなのか、あまりメディアにあおられずに、もう一度よく考えてみたほうがいいんじゃないかなあ。そうしないと、生きていくために必要な耐性が得られないまま大人になっていくような気がしますし。
この「染髪事件」については、「先生が自分で染めた」ことを責めているのか、「茶髪の子の髪の毛を無理やり染め直した」ことそのものを責めているのか、ちょっとわからないところがあるのですが、前者だったら、「これからは、プロに染め直してもらう(もちろん、それでもアレルギーになることはありますよ)」という選択肢でいいでしょう。もし、後者であるとしたならば、今後、髪型は自由ということになるんでしょうね。 僕は、校則の大部分は意味がないと思うし、髪形なんて、どうでもいいと思います。 世間の大人たちが「高校生らしい」と思い込んでいる高校球児の不祥事の多さを考えれば、みかけなんて、あんまり意味がない。グラウンド上の高校球児は、まさに「大人にとってのの理想の高校生像」の幻影なわけで。「解説者の『高校生らしい』というコメントが出るたびに、失笑を禁じえません。あなたたちが求めている高校生なんて、どこにもいないって。
校則の正しさそのものについては、異論もあるところでしょうが、ものごとを学ぶ(もしくは教える)ためには、最低限のルールが必要でしょうし、リスクを避けるわけにはいかない場合もあります。交通事故がこれだけ起こっても、人々が車を必要としているように、リスクがわかっていながら、あえて教えないといけないこともあると思います。 学校は、自分たちで必要だと思って決めた校則なら、もっと自信をもっていいのでは。 教育の現場が、どんどん事なかれ主義に陥っていくのは、正直怖いのです。 学校側は、この生徒には、「アレルギーになってしまったことは残念だけど、茶髪に最初に染めてきたのは、君じゃないか」とはっきり言うべきじゃないでしょうか。 メディアは、「学校が悪い」「医者が悪い」というけれど、「必要なことをするために、どうしてもついてまわるリスク」を、ちゃんと勉強もせずにとりあげて、「明らかなミス」というような報道の欺瞞には、最近、ほとほとあきれ果てているのです。 だいたい、今の世の中、むしろ真っ黒でストレートの髪のほうが、金髪よりはるかに自己主張になっているような気がするんだけどなあ。
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