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2002年08月08日(木)
2002年8月8日。


「藤子不二雄論〜FとAとの方程式」(米沢嘉博著・河出書房新社)より抜粋。

【たぶん、手塚治虫の創り出したマンガの正統な継承者であり、長きにわたってマンガ家を続けてきた長老であり、子供たちの間にもっとも知れわたった人気作家であり、多くのヒット作を生み出し続けてきたヒットメーカーである藤子不二雄は、だが、これまで「社会現象」という切り口以外でまっとうに語られたことはない。誰もが、子供(少年)の夢を語り続けてきたマンガ家といった紋切り型の言説によって、簡単に終わらせてきた。語ることがない作家であるはずはない。
 一方で、つげ義春のように作品の数よりも評論のほうが多い作家がいることを考えれば、評論しやすい作家とやりづらい作家がいるということになるのかもしれない。概して子供マンガは評論の対象になりづらいようだ。エンターテインメントに徹した描き手も「職人」として一言で切って捨てられることが多い。藤子不二雄もそうしたマンガ家として、批評の対象に浮上することはあまりなかった。】

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 確かに、論評のされやすさというのは、あると思います。やっぱり、誰しも単純な構造に思われるものやあまりに一般的なことについては、かえって論評しにくい部分もありますよね。
 それに、評論と言うのは、その作品に対する言説であるということ以外に、評論する側にとっても自己主張の場でもありますから、相手があまりにメジャーだと、あえて自分が語らなくても…という気持ちになるのも無理ないことなのかもしれません。
 つげ義春さんという作家は、ほんとに批評、論評が多い人なのですが、彼の名前は知っていても、実際にその作品を読んだり、感銘を受けた人というのは、少ないのではないでしょうか。もちろん、それは、つげさんの作品が面白くないためではなく、実像以上に小難しいものにされてしまっているという面も否定できないような気がします。
 僕自身は、漫画家・藤子不二雄については、評論がないわけではなくて、彼の作品がこんなにもたくさんの人々に愛され、支持されていること自体が最大の評論なんじゃないかなあ、と思うのですが。
 WEB日記でも「他人にとりあげられやすい文章」というのは確かにあるのですが、それよりも「読んでもらえる文章」「面白いと思ってもらえる文章」を書くというのは、とても評価すべきことだと思うのです。
 メジャーであればいいというわけではありませんが、少なくとも、「普通の人々に喜んでもらえること」が評価されるべきポイントのひとつであることは間違いないですし。