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| 2002年07月16日(火) ■ |
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| 2002年7月16日。 |
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「ボクの音楽武者修行」(小沢征爾著・新潮社文庫)より抜粋。
【敗戦とともにおやじさんは経済的にも苦境に陥ったけれど、ぼくたち子供には一貫して自由に好きな勉強をさせてくれた。敗戦後数年たってはじめて、昔の職業である歯科医に戻ったのであって、ぼくが豊増昇先生にピアノを習うようになったころは、ぼくの家は敗戦の痛手に一番苦しんでいた時期だった。そんな時期にも、父や母がぼくたちのために、ピアノだけは手放そうとしなかったことをぼくはとてもありがたく思っている。】
〜〜〜〜〜〜〜 「教育」すなわち「親は子供のために何ができるのか、何をするべきなのか?」というのは、非常に難しいテーマですね。 あまりに塾通い、勉強漬けの子供が増えてしまった反動なのか、「うちの子供は、絶対に塾になんか行かせない、外でのびのび遊ばせる!」という親も増えてきているような気がします。 さて、この世界的指揮者小沢征爾さんの述懐なのですが、ピアノを売らないことによって、彼らの親は少なくとも物質的には我慢を強いられているわけです。でも、このエピソードを聞いて「親が子供のために犠牲になるなんて!」と怒る人は、そんなに多くないと思います。イチローの父親を「子供を野球漬けにして!」と責める人がいないのと同様に。 しかし、世間には、同じように子供のために自分を犠牲にしたり、「子供の将来のため」という名目でスパルタ教育を行っている親は確かに存在していて、彼らの多くは世間から罵倒されているわけです。結局、結果が出れば「スパルタ」も「愛の鞭」ということなんでしょうか。 僕は「勉強が嫌いな子供」の勉強が嫌いな理由というのは、多くの場合「遊んでいるほうが面白い」「めんどくさい」「わからないからつまらない」というものだと思います。 でも、一般的に物事の面白さの本質というのは、ある程度理解できないとわからないし、理解できるようになるためには、トレーニングが必要な場合がほとんどです。 「勉強は嫌いだから、やらせなくていい」という考えは、ひょっとしたら、子供に潜んでいる偉大な才能の芽を摘んでいるのかもしれません。 子供が嫌がっても、とりあえずやらせてみるというのも、ひとつの選択肢なのではないかな、と。どうしても合わないようなら、やめてしまえばいいだけのことですし。 世間には、埋もれていた才能を生かせていれば「天才」と言われていたかもしれない「普通の人」けっこう沢山いるんじゃないでしょうか。 子供の才能に気づいてあげたり、それを信じてあげるのは、親の大事な役割のひとつではないかと。そして、いきすぎに歯止めをかけるということも。 まあ、天才が必ずしも幸せとは限らないんですけどね。 「絶対、塾に行け!」と「絶対、塾になんか行かせない!」というのは、対極のようでいて、実は、そんなに変わらないことなんじゃないでしょうか?
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