初日 最新 目次 MAIL HOME


活字中毒R。
じっぽ
MAIL
HOME

My追加

2002年07月14日(日)
2002年7月14日。


時事通信の記事より。

【日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の主催で、ニューヨークの国連本部で開く予定だった「原爆展」を中止すると、国連側から被団協に連絡があったことが13日、分かった。詳しい理由などは、来週にも明らかにされる見通し。
 「ノーモア被爆者原爆展国連2002」と題して、9月18日から40日間、被団協や広島と長崎の原爆資料館にあるパネル写真などを展示する予定だった。
 国連側の企画審査があった8日(現地時間)をすぎても連絡がないため、田中煕巳被団協事務局長が10日にメールで問い合わせたところ、「企画は受け入れられない」との回答があった。
 被団協によると、打ち合わせの段階で、国連側から「写真が残酷過ぎる」という指摘があったという。】

〜〜〜〜〜〜〜
 小学校の社会見学で、広島の原爆資料館に行ったことがあります。もう20年以上も前の話。入ってすぐのところに、被爆した人が着ていた服が展示されていて、そして、原爆によって、階段に影だけ焼き付けられてしまった人の写真。ケロイドでただれてしまった被爆者の顔。確かに、正視するのが辛い写真ばかりで、見た日の夜は、怖くて眠れなかったことをよく覚えています。今でも、思い出すとやっぱり怖くなる。
 そのあまりにも、むごい写真たちを見て感じたことは、「アメリカはなんて残酷なことをするんだ!」という怒りではなくて、人間っていうのは、なんてひどいことをしてしまうんだろうという、あきらめにも似た無常観だったような気がします。
 友人の中には、「原爆のおかげで戦争が早く終わって結果的には被害者は少なくなったんだから…としたり顔に言う者もいたけれど。
 僕は、人間には大事なものを守るために戦わなくてはいけないこともあると思うし、一概に「戦争はよくない」と言うのにも違和感があります。たとえば、自分の命や大事な人が危険に曝される事態にでもなれば、武器をとることも厭わないかもしれない。
 それでも、非戦闘員も含めて、無差別に30万人もの人々の命を一瞬にして奪った原子爆弾という兵器は、あまりに残酷なものだと思うのです。
 もし、本当にこの原爆展が「写真が残酷すぎる」という理由で中止されるというのであれば、それは本当に残念なこと。
 残酷なのは、写真じゃない。写真に遺された歴史的事実が残酷なのです。
 戦争について語ることができるのは、戦争で生き残った人たちだけ。誰だって(とくに男は)戦争というものを夢想するとき、自分の役割はガンダムに乗ってるアムロだったり、ロンメル将軍だったりするのですが、現実は「ジャマだ!」とガンダムに蹴られてやられるジムのパイロットとか、映画開始後5分で地雷を踏んでやられる一兵士である可能性のほうが、ずっとずっと高いのです。
 ただ、そういう兵士たちは口がきけなくなってしまっただけで。
 原爆の写真展、ぜひ、アメリカの人たちにも見てもらいたいと思います。
それは、アメリカの罪ではなくて、人類の歴史の一側面。
あまりに悲惨すぎる現実ではあるけれど、それを見ることによって戦争のこと、核兵器のことを考える機会になると思うのです。
 残酷な写真を見せられることと、残酷な現実を体験してしまうこと。
果たしてどちらがより悲惨か…それはもう、言うまでもないことで。
 別に、アメリカのことを責めようというんじゃない。ただ、これからの人類のために、先人たちが心ならずも遺した声である写真だけでも、ひとりでも多くの人に見ていただきたい、心からそう思います。

 広島の平和公園にある慰霊碑には、
「安らかに眠ってください。過ちは2度と繰り返しませんから」
と刻んであります。
 これを見て、今日も多くの人がため息をついているはず…