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2002年07月09日(火)
2002年7月9日。

「フォーカスな人たち」(井田真木子著・新潮社文庫)より抜粋。

【従来、雑誌における写真と文章の関係は、写真誌の逆である。わずかな例外をのぞき、文章が主で写真は従だ。文章が表現しきれない内容を写真が説明するということが常套手段だったのである。
 だから、その場にあったモノのすべてを露骨に記録してしまうカメラのあとを、文章が必死に追いかけて辻褄あわせに奔走するという、写真誌のスタイルは、それまでの常識をくつがえすものだった。
 この主従の逆転は、文章の性格と同時に、写真の性格も変えずにはおかなかった。
なにしろ、“一目瞭然”な写真でなければならないのだ。カメラはそのとき表現の手段であってはならなかった。むしろ、記録器械でなければならなかった。
 一方、写真の下に添えられる文章からも表現性は奪われた。文章は、写真のむきだしの即物性をとりあえず補う役割か、あまりにも出来が悪すぎてロールシャッハテストにしか使えなさそうな写真を、なんとかそれらしく見せる役割に徹せざるをえなかった。】

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 写真週刊誌、そしてバブル経済の絶頂期、80年代。
確かに、写真週刊誌というのは、時にはグロテスクなくらい即物的なメディアでした。
結局、そのままのものを読者の目の前に提示してしまうがために、送り手の「表現の手段」としての力を失ってしまったとでもいいましょうか。
 でも、写真週刊誌は、まだ送り手のメッセージ性を持っていた面もありますね。
何を伝えるかという題材のセレクションの時点で、なんらかの意思がはたらかせることができたわけですから。
 それを考えると、今のネット社会は、あまりにも即物的な時代といえるのかもしれません。ネット配信される犯罪の瞬間、演出されているとはいえ、人々の生活、携帯電話で送られる事故で命を失ってしまう寸前の人間の肉声。
しかもそれを自分の好きな角度から覗いてみられます。
送り手の側への圧力も、非常に難しい状況ですし。
なにかを暗喩的に表現する側としては、これほど難しい時代はないのかもしれませんね。
いまのところ、まだ人間は、ネットという手に余る道具を完全には使いこなせてはいないとしても。