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2002年03月15日(金)
2002年3月15日。

「悔しい。勝ち負けではないが、少年に負けた気がする」。光市の母子殺害事件で妻弥生さん(当時23歳)と長女夕夏ちゃん(同11カ月)を殺され、当時少年だった被告(20)の極刑を訴え続けた本村洋さん(25)は記者会見でしばらく押し黙った後、涙をこらえてそう語った。【坂口裕彦、田原和宏】(毎日新聞の記事より)

以下、ホームページ「死刑制度の廃止に向けて」より一部抜粋。

死刑を存置すべきとする主張のなかで、もっとも根本的な理由となるのは、この被害者(ここでは殺人犯罪の被害者の遺族らを含む概念として被害者ということにします)の感情の慰謝の手段としてということがいえるでしょう。いわゆる正義の要請や法的確信を死刑制度の存立理由に挙げる立論も、その根本に被害者感情が契機となっていると考えられます。廃止論の立場からは、この論点は論理による説明がもっとも難しいものといえます。
凶悪事件の被害者の心情を慮れば、それが加害者に対する極刑の要求となってあらわれるのは、まったく説明が不要なほどに自明なことです。よって、このテーマを論じるにあたっては、この被害者の慰謝という目的をもってしても死刑制度存置の理由になり得ないという主張をする側に、より積極的な理由付けが望まれます。

廃止論の側からは、まず、国家刑罰権の行使にあたり、具体的な被害者の応報感情を反映させるべきではない、という主張が考えられます。それほど極端ではなく、ある程度、被害者感情に理解を示しながらも、誤判の危険など死刑制度における他の欠陥の重大性を考慮すると、刑罰の選択の上から無視するのはやむを得ない、という消極的な結論に達する見解もあります。

次に、より積極的に被害者感情を死刑制度存置の理由とすべきではないとするものとして、以下のものが考えられます。1つは、そもそも被害者の感情は、決して応報という安易な方法で慰謝されうるものではなく、むしろ葛藤の末に人間として犯人の罪を赦すことによってしか真の心の平安は得られないのではないかとするものです。もう1つは、被害者の憎しみの感情は犯人のみに向けられているが、犯罪の責任は唯一犯人にのみ帰せられるものではなく犯人を犯罪に導いた社会環境にも求められるべきであり、犯人の処刑をもって絶対的な被害者慰謝の手段とするのは、被害者の錯覚を利用した表面的な解決にすぎないというものです。

また、傍論として、犯罪被害者救済システムの貧困が被害者の不満を犯人の処刑要求に集中させるという点を指摘し、犯人の命を奪うという究極の手段を選ぶ前に、被害者に対するより厚い経済的・精神的な社会的ケアを講じるべきだという主張もなされています。このような弱者に対する福祉の貧困が、そもそもの犯罪を招いた原因ともなったという意見もあります。

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非常に長い引用ですみません。
1月10日の「活字中毒。」で書いたように、僕は死刑制度が必要不可欠だと考えています。今回の判決に対しては、ただただ、本村さんの無念を察するのみです。彼は、まだ25歳。犯人の性欲を満たすためだけの犯罪の被害を受けて、ほんとに人生を棒に振らされているのです。
で、裁判長は「更生の可能性がないとはいえない」とか寝ぼけたことをのたまって、犯人を実質的には出てこられる「無期懲役」にしてしまうわけですね。で、「また出られるさ」とか知人への手紙に書いている。
もう、この犯人は狂ってるんでしょうね、きっと。

さて、上に長々と引用させていただいたのは、アムネスティの人権保護活動の一環として掲げられている「死刑廃止推進」のホームページのQ&Aの一部です。非常に、理論的に語られています。

僕の反論。
(1)「誤審の可能性がある」のなら、疑わしいものについては、死刑にしなければいい。今回のように、犯人が自白し、はっきりしている場合にまで、そういうことを言い出すのはいかがなものか。そんなことを言い出すなら、すべての裁判には誤審の可能性があり、裁判なんてできるわけがない。

(2)「そもそも被害者の感情は、決して応報という安易な方法で慰謝されうるものではなく、むしろ葛藤の末に人間として犯人の罪を赦すことによってしか真の心の平安は得られないのではないかとするものです。」

悪いが、笑わせていただきます。「心の平安」ってなんですか?そんな宗教的なところで「赦す」なんて感情に頼るのは、信じがたい。
被害者が、「自分は身内を殺した犯人すら赦せる、心の広い人間だ。」と自己満足して、それで終わり?それが出来ない遺族は、人間として劣っているのでしょうか?真の心の平安なんて、得られる人間が世の中にいるんでしょうか?

(3)「もう1つは、被害者の憎しみの感情は犯人のみに向けられているが、犯罪の責任は唯一犯人にのみ帰せられるものではなく犯人を犯罪に導いた社会環境にも求められるべきであり、犯人の処刑をもって絶対的な被害者慰謝の手段とするのは、被害者の錯覚を利用した表面的な解決にすぎないというものです。」

 こういうことを言う人は、きっと「自分は頭がよくて、死刑制度という問題についても、客観的な社会学的な視点からみてるんだぞ」と自慢したいんでしょうね、きっと。
すべて、社会が悪い。じゃあ、その社会環境とやらは、いつになったらよくなって、犯罪のない平和な社会ができるんですかね。
今回の事件のように、明らかに異常な人物が起こした犯罪についても、「社会が悪い 」とほんとに思えるひとがいるとしたら、それは、よっぽど感情移入の力が欠けている人なのでしょう。

(4)「傍論として、犯罪被害者救済システムの貧困が被害者の不満を犯人の処刑要求に集中させるという点を指摘し、犯人の命を奪うという究極の手段を選ぶ前に、被害者に対するより厚い経済的・精神的な社会的ケアを講じるべきだという主張もなされています。」
 
 ああ、そうですね。確かに、洗脳したり、被害者年金を年に10億くらいもらえれば、被害者感情も癒されることでしょうよ。


今、こうしている間にも、本村さんの妻と娘を自分の欲望のために殺害した犯人は、のうのうと呼吸をして、たとえそれが留置場でも食事をして、いろんなことを考えることができるのです。
そのこと自体が、被害者は赦せないのだと思う。
どうして、殺された側は何もできなくて、殺した側は「生きていく」ことができて、仮にそれが反省の気持ちであったとしても、人間として考えていくことができるのか、と。死んだ人間は、考えることすらできない。
「罪なんて、償ってほしくないから、さっさと死ね!」
僕が家族なら、間違いなくそう思います。

論理云々より、せめてもの被害者感情の慰撫。その一点だけで、僕は死刑制度は妥当だと考えています。
どうして無期懲役じゃいけないかって?
他人の未来を奪った人間は、更生や反省の機会が与えられ、奪われた側には考える機会すら永遠に奪われてしまう、それって、不公正だと思いませんか?

僕は、なんでもかんでも死刑にしろ、と言ってるわけではないですよ。
ただ、それに値する犯罪者は、確実に存在すると思っているのです。
でも、あまりに偏った考えの「人権主義者」たちが、自己主張、自己表現の手段として「死刑廃止」を訴えているのには、耐えられない。

「死刑は殺人だ」当たり前だ。だからこそ、殺された側にとっては、せめてもの慰めになるのです。
擁護する前に、その犯人が何をやったのか、よく考えてみませんか?

「どうして、人間が人間を裁けるのか?」
人間を裁けるのは、人間しかいないはずです。それが、社会というもの。

最後に、ひとつだけ。
死刑執行人の苦悩は、わからなくもない。
でも、彼らは強制されてやってるわけではないし、それで給料をもらっているのですよ。プロなら、黙って自分の仕事をやってしかるべき。

あと、死刑反対運動のルポライターの皆さんは、ドラマをつくって、それで給料もらったり、名をあげようとしている人たちです。
そんな作り上げられた感動を提供する報道を鵜呑みにするのはいかがかと。