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2002年03月14日(木)
2002年3月14日。

中島らも「愛をひっかけるための釘」(集英社文庫)より抜粋。

 僕は今、三十六歳になるが、恋愛に限らずとも、人との新しい出会いはなるべく避けたい。そんな気持ちが徐々に濃くなっていきつつある。年若いうちは、対人恐怖症気味であったにもかかわらず、それを乗り越えてでも新しい出会いを求める気持ちが強かった。しかし、現実に何人もの近しい人を病気や事故や自殺で失っていくと、「出会い」に対してポジティブな感情を持つことができにくくなってくる。「会うは別れの始めなり」ということが、ものの道理そしてではなく、自分の感情や痛みの感覚においてわかってくるからだ。
 「失う側」としての痛覚がわかってくると、今度は逆に「失われる側」としての自分の存在についても考え始める。その結果、”生きているうちに、あまり人から愛されるような存在であってはいけない”のではないか、と妙なことを最近考えてしまう。

〜〜〜〜〜〜〜
僕は今、30歳。この文章に書いてあることが、なんとなく実感できるようになった気がするのです。確かに、外に出て行って、人脈を広げることの大事さもわかってはいるつもりなのだけれど。
この場合の「出会い」は仕事づきあいではなくて、ある程度心を開いてつきあえる友人、恋人と考えていいと思われますが、正直、新しい友達を作ろうとかいう積極的な気持ちが、最近薄れてきています。
もともとめんどくさがりでもあり、人見知りもするほうではあるのですが…
時間的に、これ以上知り合いが増えても、自分の中で消化しきれないと感じる部分もあるし(時間=付き合いの深さ、ではないが)。

 生きていて、楽しいことより辛いことのほうが多いと感じるようになったのは、いつごろからだったろうか?

 得ることの喜びよりも、失うことの怖さのほうが大きくなったのは、いつごろからだっただろうか?

 これは、自分が失われていくことへの準備なのかもしれませんね。
ただ、僕自身は、なるべく人に愛されて生きていきたいと思ってはいるのです。なぜかというと、忘れられてしまうのは寂しいから。そして、他人の記憶を抱えて生きていくのが人間ならば、他人にとってのなるべく甘美な記憶でありたい、そう考えているからです。

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3000カウントに寄せて。

「活字中毒。」を書いているふじぽんです。
この拙い文章にもかかわらず、毎日たくさんの方々にお越しいただいて、
なんとお礼を申し上げてよいかわからないくらいです。
ホームページの「刺身のツマ」のような気持ちで書き始めた「活字中毒。」に望外の支持をいただいていること、他人事のような気持ちでやや驚きつつ眺めています。「テキスト風聞帳」などでも取り上げていただくことも多くて。本来、おひとりずつに感謝の念を申し上げるべきところなのでしょうが、僕の不精と生来の引っ込み思案から、ご無礼いたしております。すみません。

 僕自身は、ほんとにごくごく普通の人間です。仕事をし、食事をし、眠り、ネットサーフィンをしているだけの人間です。
でも、こういうふうに文章を書いて、読者の方にメールや掲示板で感想を聞かせていただいたりすることは、僕の生活に潤いを与えてくれています。
なんとなく人間が苦手ながら、やっぱり人間から離れられない自分。

そして、たぶんこうやって文章を書くことによって、自分自身を癒しているんだと思います。口には出せない、出すことが恥ずかしいけど、誰かに聞いてもらいたい心の声。

だらだらと長い文章になってしまいました。
なんだか「あとがき」みたいですね。
「活字中毒。」は、まだまだ続きます。
状況によっては、毎日更新ができなくなったりはするかもしれないけれど。
今後も、ご愛読いただければ(で、たまに投票ボタンとか押していただいちゃたりすると)たいへんありがたいです。

すみません、でしゃばりで。
明日の分からは、普通の「活字中毒。」です。