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2002年04月29日(月) これがアメリカのカード社会?

コピーを取る必要があったので、ウチから一番近い kinko's に行った。驚いた。1枚8セントで、よそより多少高めなのはまあいい。1枚だけしかコピーしないから。けれど、それはないでしょ、 kinko's さんっていう感じの新システムには納得できなかった。

見慣れない新しい機械が入っていたので店員に使い方を訊くと、「クレジット・カードをここに入れろ」と、コピー機の横を指差して、当然のように彼女は言う。うそでしょ。わたしは、たった8セントのモノにカードを使いたくはない。

この国では、カードは信用できるものではないのだ。使った覚えのない請求が来て、クレームの電話をしなければならなかったことが2度もある。普段はあまり現金を持ち歩かないので、10ドルくらいでもカードを使ってしまうけれど、本当は、信用できる店以外ではむやみにカードを使わないほうがいい。実際に、ハナルンという韓国系スーパーでの支払いで何件もの被害が報告されているそうで、メーリング・リストに警告文が流れていたこともある。kinko's は、さすがに大丈夫だと思うけれど。

でも、なぜに8セントでカードを使わせるのだ? 手数料のほうが高くはないのか?

「小銭で払えないの?」と訊くと、それは無理だけど、1ドル分のプリペイドカードならあると言う。次にいつコピーすることがあるか分からないのに、92セント余っているカードをずっと持っているのもいやだし、1ドルでは、結局、半端が出るのも納得いかない。一番不思議なのは、たった1ドルなのに立派なプラスチックのカードをくれるけど、そのカードのコストは一体いくらなんだろうということだ。

う〜ん、よく分からないことだらけだけど、唯一分かるのは、ここは素直にカードで支払いをするしかないということだ。「ホントに8セントしか請求されないでしょうね?」と念を押し、1枚だけコピーを取ってきた。そう言えばレシートは出なかった。

よく分からないし、納得いかない。けれど、これがアメリカのカード社会なんだろうなあ、きっと。


2002年04月27日(土) 住宅事情

もう誕生日なんてちっともおめでたくはないけれど、実はunhappyと言うほどでもなかった今年の誕生日。

おととし。夫は、わたしの誕生日などまるっきり忘れていて、いま言わなければ、忘れたことも忘れられてしまうと、5日経ってから意地悪く告げたわたし。でも、ウヤムヤのままなにもせず。

きょねん。夫は、出張先からおめでとうメールをくれた。子どもに「ママ、きょうはお祝いしなきゃね」と言われたが、その意味は、「たまにはホールのケーキを食べたいよ」である。自分でご馳走作ってお祝いするのも面倒なので、ケーキと子どもに強制して歌わせたハッピー・バースデーの歌でおしまい。

ことし。出張の予定を少し延ばして、今年は家に居ると言った夫。きょうはボクが夕御飯を作るよと言ってくれたけれど、ふたりで外に出ていたので、5時になってしまい、結局、外食することになった。いつもは行かない少し遠くの日本食レストランまで出かけて、鮨をお好みで選び、一品料理を多めに注文して、ビールで乾杯。


もうすぐ、この家の賃貸契約が切れるので、再契約するか新しい家を探すかしなければならない。いま、この辺りは新しい家の建設ラッシュである。総数は増えたのに、古い家も値上がりしていて売り手市場なのだ。古い家の価値が日本ほど下がらないこともあるが、売り家は、ここに来た時(4年前)の2倍近くになっている。

この時期、オーナーに値上げを持ち出されることは必至で、300ドル〜500ドルくらいのアップは覚悟しなければならないようだ。

この家は4年も借りていて、傷んできてもいるから、オーナーとしては、一度店子を入れ替えて、修理して貸したほうが手間はかかっても、家を長持ちさせるのに良いという事情もある。こちらが、連絡を取りたがっているのに、メールをしても留守番電話にメッセージを残しても音沙汰無しなのだ。

そんなわけで、今日は夫と一緒に家を見て廻っていた。いまよりひと回り小さな家が400ドルも高かったり、値段で選ぶと、住めそうにないくらい汚かったり、環境が悪かったり・・、子どもの学区が変わらない範囲で探す必要もあり、なかなか思うようにはいかない。

アメリカの景気がよろしいようなのもいいことだし、環境のいい場所と悪い場所の格差が広がってくるのも仕方のないことだと思うが、期限未定の一時滞在者にはちょっと辛いよなぁの2002年の夏なのである。


2002年04月22日(月) identity

ここDCで、日本人のおばあさんに会うことがあるのだが、なんだか妙に感動してしまう。きっと、アメリカ人のダンナさんと結婚してから、めったに日本に帰ることもなく、来た当時は、言葉のことも何もかもが新鮮だったなどという限度を超えて、カルチャーショックを受け、たくさん苦労をしてきたんだろうなあと勝手な想像をするからである。おばあさんの顔がこの国に同化してきているのを見ると、彼女の経てきた長い年月を感じる。

アメリカに永住する日本人は、他の国の人たち(中国、韓国など)に較べて、数が少ないせいか、または国民性なのか、チャイナタウン、コリアタウンのようなコミュニティーを作ることをしないのだそうだ。そこで、いろいろな所にばらばらに住んでいる永住の日本人(おもに老人)をサポートするため、ボランティアグループが活動している。いくら不自由なく英語も操れて、地域に溶け込んでいても、老人になってから、周りに日本人がいない環境というのはとても寂しいことらしい。

ボケ老人だとか、アルツハイマーだとか、記憶が不確かになった日本人の老人は、どんなに流暢な英語を喋っていても、それをすっぱりと忘れてしまって、日本語しか理解できなくなるのだそうだ。そういう時、アメリカ人のダンナさんと日本語の分からない子どもたちだけしか周りにいない環境だとお手上げ状態になってしまう。

片親が日本人であっても、アメリカ人(に限らないが)と結婚してアメリカに住んでいる人が、産まれた時から英語環境にいる子どもを、日本語も喋ることができるようにキープしていくのは容易なことではない。けれど、片言も日本語が喋れない孫に会った時、日本のおじいちゃん、おばあちゃんは言いようもなく寂しいんだろうなと、他人事ながら祖父母の気持ちを考えてしまう。

うちの子どもが、学校の友だちのおかあさんに話しかけられて、流暢な英語で何やらぺらぺらと応えたとき、横に居たわたしは、はぁ?いま、なんて言ったの?状態だった。子どもの英語が上達した喜びよりも、自分がコミュニケートの輪から疎外されている寂しさのほうが強かった。祖父母の気持ちもきっとこんな感じなのかなと思った。


わたしが初めて外国の地を踏んだのは、大学3年の夏休みに、Los Angeles近郊の町に1ヶ月のホームステイをした時だった。あの頃は、中学の基本単語くらいの語学力だったのに、ホストファミリーと辞書を引きながらいろいろな話をし、感動を英語で伝えたいと絵葉書に訳の分からない英語を書いて送り、受け取った人を悩ませ、ついには英語で夢を見る経験までした。英語で夢を見たのは後にも先にもこの時だけである。

その時、わたしは、浅はかにも、英語なんて簡単じゃーん、すぐペラペラになれちゃうよーなんて思ったものだ。いまでは、とてもそんな気持ちにはなれないけれど。

わたしが自分のことをpatriotだなんて言うのも、歳をとって、むかしにかえる老人に近いものがあるのだろうかとふと思ったりする。


2002年04月16日(火) おばかないちにち

きょうはとっても暑かった。夜12時現在で22度。昼間は何度だったんだろう。このあいだまで暖房を入れていた気がするのだけど、なぜ急にここまで暑くなるのだ? ウチ中の窓を全開にして、クーラーを使うのは回避する。 

午後3時、銀行まで出かける。蒸しかえっていて、茹蛸になりそうな車内で、窓も開けず、クーラーも点けず、「ひとりサウナ」とか言って、片道10分のドライブ。往復したら汗がダラダラ出てきた。ついでに肌の露出部分をゴシゴシこすって、「ひとり韓国あかすり」。でるでる、いっぱい。だけど、捨てる所がない。窓は開けられないもの。

へろへろになって「疲れた、疲れた」と言っていたら、子どもに「ばっかじゃないのぉー、ママ」って冷たく言われて、相手にもされなかった。なんだか痩せた気がするぅと思ったものの体重は変わらず。さらに、どっと疲れた。

楽して痩せようなんて、やっぱり無理な相談なのか。

子どもの頃、夏の暑い日の学校帰りに、ランドセル背負ったまま、友だちとふたりで、わざわざ電話ボックスに入るっていうおばかな遊びしたよね。 「ほらね、出てきたら涼しく感じるよねー」って言うために。 えっ? してない? うそぉ

きのうから、夜毎、高速道路をぶっ飛ばす暴走オバサンになっている。1年程前に行っていた英語学校に再び通い始めたから。1年のブランクのうちに、すっかりレベルが落ちた。言いたいことはあっても英語がでてこない。単語を下調べしていっても、テキストの英語の意味が全然汲み取れない。 

はーあぁ、いちにちだけでなく まいにちおばかな わたしかな ぶひぶひ♪


2002年04月12日(金) 桜散る

家の前に大きく枝を広げた一本の桜の木がある。2階の窓から眺めれば、手の届きそうなところにある一面の桜が、大きな額に入った一幅の絵のようだった。風の強い日に花びらを散らし、紺色の車が可憐なピンクの水玉模様になった。その桜もすっかり散って、薄緑色の葉桜となってしまった。


公立学校の春休みの日程はカウンティーによって決められている。イースターの前後が普通だけれど、そのイースターの日付も年によって異なるので、春休みは年度やカウンターによりバラバラなのだ。

10日間もあった春休み期間中、我が家の日本語PCは、子どもたちに占領されていた。何を思ったか、急に自分のホームページを作ると言い出したのだ。子どもたちふたりで時間を決めて、さっそく取り掛かったのはいいが、なぜか、わたしへの割り当て時間は無かった(笑)

やっと形を成した彼らのホームページを紹介したい。

ここを読んでくださっている方には、たぶんあまり興味のない内容なうえに、まだまだ製作途中だそうだけれど。

ここここ


2002年04月05日(金) patriot

ボストンには、野球のレッドソックス以外にも、アメフトのペイトリオッツやバスケットのセルティックスというホームチームがある。ボストンに住んでいた頃、ペイトリオットが愛国者という意味だと聞いて、「ひょえー、チーム名が“愛国者たち”だなんて、けったいな感じだなあ、アメリカ人ってかボストニアンって、なに考えてるねん」と思ったものだ。

ところが、いまではわたし自身が、りっぱなペイトリオットなのだ。
ニッポン大好き! I LOVE ニッポン!(Japanではダメというこだわりよう) ニッポン・チャチャチャ!

なんなんだ、危ない右翼のひとみたいじゃないか。いつからわたしは、こんなになってしまったのだろう・・。

ちなみに、湾岸戦争の時のパトリオット・ミサイルも、映画のパトリオット・ゲームもこのpatriotのことである。読みは、ペイトリオット、パトリオットの両方あるみたいだけれど、ボストンのアメフトチームは「ペイトリオッツ」である。


前回の日記で、ライダーのおじいさんが9・11のテロに対して、日本も一緒に怒りを感じて当然と言うのを聞いてちょっとムッとしたという話を書いたのだけれど、わたしには、おじいさんのことを悪く思えなかった理由がある。

おじいさんは、大の日本びいきなのだ。日本には旅行で一度、2週間ばかり滞在したことがあるだけなんだそうだけれど、日本語は独学でおぼえた。日本の文化や政治のことにも詳しい。日本も、日本食も大好きと言って、お昼はいつもその日本食レストランで食べている。

そんな人に会うとペイトリオットのわたしは、とっても嬉しい気持ちになるのだ。

そうは言っても、愛国者って言うと、なんだかなー、三島由紀夫ですか?という感じでちょっと・・・・だけれど 「patriotなのだ」なら許せる程度なのだけれど。


さとこ |mail

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