月の輪通信 日々の想い
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2004年08月26日(木) 老いの日

ご近所の独居老人Tさんが、とうとう、隣町の施設に入所された。以前から入所できる施設を探して空き待ちしているとは聞いていたが、今日、息子さんの迎えの車でいってしまわれた。
お向かいのMさんとのトラブルがエスカレートしていて、今にも一触即発かと周囲がハラハラしていただけに、Tさんの入所は実にタイムリーともいえるのだけれど、これといった予告もなく、すれ違う車の窓からの簡単な挨拶だけで行ってしまわれたTさんと息子さんに、ちょっと拍子抜けしたような、空虚な思いがどうしても残る。
とりあえずそれほど遠くの施設でもなく、途中で戻ってこられる可能性もないわけではないので、これでさようならというわけではないのだけれど、外出のたび、近所でぶらぶらひまをつぶしておられるTさんの姿をしばらくは見かけることがないかと思うとなんとなく胸が痛む。

「年をとったら、子ども達に面倒を見てもらうことは期待しない。老後のことは自分で考えて施設やホームなどに入れるように手配しておきたい」
子ども達の生活を尊重し、自分の人生の後始末は自分で行えるようにしたいという、現代の潔い「自立した老い」への憧れ。
近頃よく聞く進歩的な「老い」のあり方だが、私は自分自身の老後を考える時、見知らぬ人たちとの共同生活をしている自分というのをどうしても考える事ができない。
できる事なら、子どもや孫達の声の聞こえるところで、「もう!ばあちゃんはしょうがないなぁ」としょっちゅう小言を言われながら、さほど疎まれもせず、こじんまりと人生の終いの日々をすごしたいと思う。

一時期、身内が入所している「老人保健施設」をたびたび訪れていた事がある。休日にまだ幼い子ども達を連れて、おじいちゃん、おばあちゃんに会いに行く。
施設はとても明るく清潔で、たくさんの若いスタッフの方達がにこやかに老人達の身の回りの世話をしてくださっていた。比較的、介護の必要の少ない元気なお年寄りが多かったので、施設内では季節の行事や趣味の講座が開かれ、ホールに集まって談笑したりTVの時代劇を大勢でワイワイと見ていたりと、楽しそうにすごしておられるように見えた。
一人暮らしの孤独や周囲に負担をかけているという気持ちの辛さから開放され、心穏やかに老いの生活を送る事ができるならそれもよし。
そうは思いながらも、あの年齢になってから見知らぬ人たちとの共同生活は私にはちょっとつらいなぁと思わざるを得なかった。

たまに幼い子どもを連れた家族が面会に訪れると、近くにいるお年寄り達が次から次へと子ども達の顔を見にこられる。
「お年はいくつ?」「「飴、上げようか?」と声をかけてこられるのは大概おばあさん達。自分の孫やひ孫のこと、若い頃の子育ての苦労を必ずといっていいほど話して行かれる。幼い子どものやわらかい肌に触れ、おずおずと頭をなぜて下さるお年よりの頭に浮かんでいるのは、目の前にいるうちの子ども達ではなく、離れて暮らす幼き日の我が子や孫、曾孫さんたちのことなのに違いない。
入所者の老人達の熱烈歓迎を受けて、子ども達は帰りの車の中では決まってぐったりと爆睡していた。普段お年寄りばかりで過ごす静かな生活の中に、たまに訪れた子ども達の黄色い声やたどたどしい足音は確かにかなりご迷惑だったろうが、小さい子達の暖かい肌に触れる事で老いた我が身に若い生命のエネルギーを貪欲に吸い上げていらっしゃってもいたのではないだろうか。
整った設備の中で手厚い介護を受け、茶飲み友達や娯楽の機会にも恵まれて過ごす老いの日々に私が手放しに夢を描く事ができないのは、なぜなのだろう。

人生の終末期を施設で過ごされるお年寄りの方々には、それぞれそんな風に過ごしていくそれなりの理由や事情がある。
気持ちのよいスタッフに囲まれて、何不自由なく気兼ねなく快適な老後を過ごせる事のできる事を喜んで生活をなさっているお年よりもたくさんいらっしゃるに違いない。
それでも、施設へ行かれるというお年寄りに寂しさを感じ取ってしまうのは、無知な若いモンの偏見に過ぎないのかもしれない。
けれども、年齢を重ねたお人が地域や家族のいる場所で終の日々を穏やかに過ごすという当たり前のことが、とても贅沢な老い方であるという事に愕然とする。
「お母さんは自立した年寄りになんてならないよ。4人も子どもを産んだんだから、きっときっと若いモンの背中にしがみついて、ぶちぶち口煩いしゃあないばあさんになってみせるよ」と、今から散々子ども達に言って聞かせる。
果たしてウン十年後、母のずうずうしい願いは果たされるだろうか。

Tさんが施設に入られた事を、積年の喧嘩相手であったMさんに伝える。
「そら、よかったわ。もう一人で暮らすのには無理があったんや。」
Tさんがいなくなってセイセイしたとでも言われるかと思っていたMさん、「よかった」と言いながらもその声は心なしか元気がない。
「コンチクショウ!腹が立つ!」と激しい言葉でTさんをなじっていたMさんも、遠からず訪れる日の自分を思われているのかもしれない。
「いろいろ、世話、掛けたな。」
とMさんはバケツいっぱいの新栗をくださった。
「うちじゃ一人では食いきれん」
収穫した野菜や果物を、家族で分け合って食べられる幸せをいつまでもいつまでも手放したくない。
上手に年をとりたいと、ちょっと悲しくなったりした。


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