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あるこのつれづれ野球日記
あるこ
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2001年02月11日(日)
東山高校硬式野球部関連コラム 「夏から夏へ…」


 2000年7月26日ー。私にとって9回目の“東山の夏”が終わった。それぞれが思いを残して、高校野球の舞台から身を引く。

 今日の相手校、去年の夏も、今春の練習試合でも勝っていた。それだけに、借りを鮮やかに返されたのはとても悔しい。そして何より、もうこのチームの試合を見れないのが残念でたまらない。春以降は練習試合もたくさん見せてもらったけど、もっともっと見ておけば…という思いに駆られてしまった。

 結成当初は何も魅力も感じられなかったチームだったけど、冬を越えてたら変わっていた。飛び抜けて上手いわけではないけれど、一生懸命やるチームになっていたように思う。それが粘りを生み、負けたもどこかで相手を手こずらせ、“ただでは負けない”チームになっていた。また、大差からの逆転サヨナラ勝ちのゲームがこれほど多いチームも珍しい。夏直前には、指摘されていた“元気”も出てきた。

 ヒットを打った選手が、守備につくとき、応援団はその選手の名前を連呼。そして、選手は頭を下げて応じていたシーンがすごく印象に残っている。オエラ方がどう言うかは知らないでも、私はそこにチームの一体感みたいなものを感じた。9回表は、去年のこともあってか“ミラクル”コールが起った。若管選手が1点差に迫るホームランを打ったのは、この直後だった。新チームもこの一体感と元気の良さを受け継いで欲しいと思う。

 7/30。敗戦から4日後。山科グランドに足を運んだ。真っ白な練習着をきた下級生たちが、グランドで汗を流していた。これでやっと気持ちに踏ん切りがついた。

 さあ、10回目の“東山の夏”へ向けてスタートを切ろう。



2001年02月12日(月)
東山高校硬式野球部関連コラム 「起死回生、大逆転?!」


 最後の最後まで諦めてはいけない。しかし、それを実践するのは言葉以上に難しいことだと思う。それでも、しっかり花を咲かせた選手はいる。

 2002年夏、背番号「2」をつけたのは渡辺選手だった。当時のチームには、1年生のときからベンチ入りし、秋から正捕手として活躍していた下級生がいた。物怖じしない性格、元気の良さ、下級生ながらクリーンナップの一角を占めていた。対する渡辺選手は、彼がベンチ入りしていた昨夏もスタンドでの応援に回っている。私にとっては、試合に出ていないところか、練習試合でも1度見たか見ていないか程度の選手だった。

 春になってから、練習試合では代打で起用されるようになった。対外試合初のホームランを打ったとも聞いた。でも、ポジションがポジションだけに厳しいなあと思ったのが、正直な心境だった。

 春季大会ではよもやの1次戦敗退。チームはどん底。そんな中、6月の練習試合で正捕手がケガ。夏が危ぶまれた。それでなくても不安なのに、守備の要がいなくなる。どこまで不安材料を増やせば気が済むんだろう。巡り合わせを憎んだ。

 そんな中、メキメキ調子を上げたのは渡辺選手だった。失礼ながら、意外だなと思った。この年のチームはキャッチャーが多く、他に試合経験を積んでいる捕手はいた。ところが、良く打ち、よく走り、懸命に守り…。これが2年半表に出ていなかった選手だろうかを目をむいた。

 夏の大会の緒戦が終わったとき、彼をよく知る人に話を聞くことが出来た。やはり下級生との力の差が自身で分かっていたようだが、その下級生がケガをし、キャッチャーがいないという事態に陥ったときに、「自分がやらなければ」と思ったのだという。自覚というのはすごい力を持つと思った。でも、やっぱり試合に出れないときも腐らずやるべきことをやっていないと、土壇場で力など発揮できない。

 この年は、逆転につぐ逆転で、京都大会を勝ち進んだ。でも、一番最初の逆転劇は、彼が勝ち取った背番号『2』に始まっていたように思えてならない。



2001年03月01日(木)
大きなところで


 「バントで右に転がせと言われて、左に転がしてしまったら、即ビンタ」。
 石垣島から来たという新入部員のお父さんに、「息子さんがいたチームはどんなチームだったんですか?」と質問をしたとき、そんな答えが返ってきた。

 それは、沖縄の高校のグラウンドへ行ったときのこと。その日は、入部式。学ラン姿に、まだ刈られていない頭の新入部員たちは、保護者からもらったサーターアンダーキーとスポーツ飲料を手に、グラウンドで汗を流す先輩たちを見ていた。

 「そこに座っているのがせがれです」。お父さんは私のすぐ隣のベンチに腰掛けている学ランの少年を指さした。神妙な顔をして先輩の練習を見ていた彼の顔はまだあどけなく、そんな厳しい環境をくぐり抜けて来たとは思えなかった。「だから、寮生活も心配してません」、彼の父親はそう言った。強豪校であるその高校の寮生活の厳しさは有名だ。

 野暮だとは思ったが、何故この高校を選んだのか聞いてきた。「先輩がいるっていうのもあるけどね。大きなところでやりたかったんじゃない?」

 大きなところで、か。
 “強いところで”でも、“甲子園に出れそうなところで”でもなく。
 離島で暮らしているからこそ出てくる言葉だなと思った。私たちではとても無理だ。



2001年03月02日(金)
雨よりも、雷よりも…


 富山アルペンスタジアムへ行きました。対戦カードは、オリックスー日本ハム。しかも、生まれて初めてのバックネット裏。よくテレビに映るところ。油断出来ないなあと思いつつ、朝早くに起きて富山へ。

 地元の友人と富山駅で合流。駅前から出ているアルペンスタジアム直行バスに乗り、いざ出発! しかし、現地の地理を知らない私にとっては、「どこ連れて行くねん!」と思うくらい遠く感じたのを覚えています。
 
 球場全体の印象は、長野オリンピックスタジアムと西京極球場を足して2で割った感じ。入って見ても、広すぎず狭すぎず、嫌味がない。人工芝の不自然に鮮やかな緑が珠に傷かな、とは思いましたが。

 オリックス・戎、日本ハム・関根で始まったゲームは、試合前まで予想だにしなかった雨と雷で三度中断し、5回まで無理矢理ゲームを進めて。7−1で日ハムの大勝。6時15分に始まった試合は、審判のゲームセットの声を聞いた10時前にようやく終了。しかし、見応えのあるゲームだったことには間違いありません。

 1回表、日ハムの攻撃では、“あわやライトゴロか?”というイチローの強健ぶりが見れました。あの低い軌道を描く送球には、思わず息を飲みました。観客の大半は、おそらく“イチローの4割の瞬間”が目当てだったと思うのですが(結果、3打数1安打、打率.395)で、このプレー一つでも充分にイチローを堪能出来たのではないかと思います。

 このゲームで感じたのは、“継投のタイミングはいかに難しいか”ということ。両投手とも、1回目の降雨中断後は気持ちを切り替えて三振を取ったり、緩い球でピンチをしのいでいました。ですが、2度目の中断後、オリックス・戎が打ち込まれ、マウンドを降りました。日ハム・井出が出塁し、小笠原の巧打、片岡の二塁打、さらにオバンドーの犠牲フライ、島田のスクイズ…。ここで戎がキレてしまいました。スクイズの処理をしきれなかったその直後、地面を蹴っていました。イライラをあらわにしていたので、空気が張りつめているのを感じました。野手や捕手がマウンドに歩み寄って声をかけたり、背中をポンを叩いていましたが、表情が和らぐことはありませんでした。再三の雨、ポテンヒット、プロらしからぬ細かい攻め…イライラの要素は尽きない。八つ当たりするかのように自分の太股を叩く戎を見て、私は背筋が縮こまってしまいました。“これくらいでイライラするようなら、投手失格だな”などという理屈は横に置いて。

 外野ではおろか、内野席ですら感じることのなかったものがそこにはありました。別に害は及ばないし、ましてや本人には聞こえないのでしょうけど、何か言ったらこっちにグラブでも飛んできそうで怖かった。野球を観て“怖い”と思ったのは、初めてではありません。ですが、その“怖さ”は今まで感じた怖さとは意味合いが違うものでした。試合展開た勝負の“怖さ”は幾度となく目にしていますが、今回のは“自身に身体的危険が迫ってくるかもしれない”という“怖さ”。背筋が縮こまったのは、そんな空気を感じたからで、そしてそれがバックネット裏の醍醐味の一つなのかもと思いました。

 その後、日ハムは、戎の二の舞はゴメンだとばかりに、好投していた関根をあっさり代え、代わった高橋憲がポンポンをストライクを取り(天候が天候であるため、場内に「早く(試合を)終わらせよう」というせかした雰囲気があったことは否めませんが)、オリックスの反撃を封じ込めました。何とも皮肉な結果。

 雨に濡れ、雷に驚き、4時間かけて5回しか見れませんでしたが、新たなプロ野球の魅力を肌で感じることができたのは、貴重な経験だったなと思います。



2001年04月04日(水)
東邦高校・川畑投手のこと


 あまり見れなかったセンバツ大会だが、それでも印象の残った選手はいる。開幕戦で投げたていた東邦・川畑投手、私の中では一番印象に残った選手だった。

 本来自分が踏むはずだった先発マウンドを下級生に譲る形となり、自分はリードされた場面でのリリーフ登板。にもかかわらず、マウンドでは「野球って楽しいな。な!投げるっていいな」と書いてあるような満面に笑み。打席に入るときは、ブラウン管のこちら側にまで聞こえてきそうなほど大声を張り上げて、気合いを入れていた。

 先発した長嶺投手が整った今どきの顔つきであるのに対して、彼の顔は、少し前まで近所いたやんちゃな子供。私は、甲子園に出てくる高校球児にある種の“教育臭さ”を感じてしまうのだが、彼にはそれを感じなかった。彼は、“教育の一環としての高校野球”とは別に次元にいるような気がした。

 点は取られたものの、なかなかの好投だった。また夏に戻ってきて欲しい。



2001年04月06日(金)
“ファンのために”を疑う。


 『3年B組金八先生』を見た。ドラマの最後の方で、武田鉄矢扮する金八先生がこう言った。「金八先生を忘れるな」。生徒は声をそろえて「ハイッ!」と叫んだのだが、ずっとこのシリーズを楽しみにしていた私は一気に興ざめしてしまった。今まで受けてきた感動が音とたてて崩れていくのを感じた。制作者の意図もわからなくはないが、なんか恩着せがましさを体にべったりとなすりつけられたような気分。

 ん?この恩着せがましさ、見覚えがあるそ?
 そうそう、あの野球選手から放たれる“ファンのために”。あの言葉は私はどうも苦手。え、私、“ありがとうって言わなきゃいけない”??と思ってしまう。選手からその言葉を聞くたびに、「あ、この人、保険かけてる」と思う。ファンだって、そんな言葉聞いたら、その選手のこと、悪く言えないし、“ファン思いのいい人”というイメージは人の批判の口をふさいでしまう。

 私はそんな言葉はいらないから、すばらしいプレーや好ゲームが見たい。たとえ、それが自分のためでも、家族のためでも恋人のためでもお金のためでもいいから。

 今日、メッツの新庄選手がメジャー初打点を記録した。彼はいい意味で、この言葉から一番遠い位置にいる。


 



2001年04月11日(水)
メガフォンをぶっ壊せ!


 少し遅い夕食を摂っていると、相方から電話が入った。受話器の向こうからは激しいメガフォンの音と坪井の応援歌を歌う低い声。相方は頼みのもしないのに、実況中継を始めた。きっと一人観戦が淋しいのだろう。しゃあない、つき合ってあげよう。結局、阪神は負けた。彼は「腹立ぅ〜」とぼやきながら、メガフォンをどこかにたたきつけていた。「そんなに叩いたら壊れるで」と言ったら、「ええねん、メガフォンなんて壊れてなんぼや」という投げやりな返答。

 私は大学時代、「親虎会」という素敵なネーミングのサークルに入っていた。名前の通り、阪神タイガースを応援するサークルである。学校より甲子園に行く回数の方が多い連中の集まり。夏には遠征と称して、東京ドームや広島市民球場に出向いた。

 ここの人たちは、とにかくメガフォンをよく叩く叩く…。暗黙の了解で、メガフォンを壊した数と速さが応援熱心度をはかるバロメーターのなっていた。ある人は、3回表で矢泊も1つ目を壊し、2つ目も7回には壊れ、最後は空になったペットボトルにペンで「虎」と書き、それを叩いていた。私は女というハンデ故に先輩を超えることは出来なかったが、新品のメガフォンを1.5試合で壊したのが最高記録。(貴重なゴールドバージョンだったので、後で鬼ほど後悔する…。教訓:壊すメガフォンは選ぶべし)しかし、闇雲に叩けばいいっていうもんでもない。やはりある程度のたたきくなるような興奮を煽るプレーが欲しい。その場の雰囲気から浮いたメガフォンの音ほど恥ずかしくて虚しいものはない。

 そういや、最近のメガフォンはなかなか壊れない。観戦回数がぐっと減ったのもあるが、メガフォン自体が丈夫なのだ。85年の日本一を知る人が言っていた。

 「昔は生産が追いつかなくて、質が落ちてたからすぐ壊れたもんや。それに比べていまは、丈夫でなかなか壊れへん。全く、ええんか悪いんかわからんわ」